二章 保健室に、瞬間記憶素質保持者はいらない
白根澤と加藤は、音竹の発言を聞き、互いに顔を見合わせた。
なんですと!
自宅以外で横になると
死んでしまう病気?
知らんよ、そんなの。
聞いたことないよ。
電波か?
メンヘラか?
その両方か!
加藤は、ぼさぼさの前髪をかき上げた。
切れ長の目、といえばカッコいいが、加藤はいつも眠そうな目をしている。
その糸目がキラリ光った。
「音だけ君だっけ」
「音竹、です」
「気分悪いとこすまないけど、一回立ってみ?」
音竹は素直に立ち上がる。
立ちあがると同時に、彼は右手で側頭部を押さえた。
「頭も痛いか?」
「はい、少し」
加藤は再度、音竹の血圧を測る。
「座っていいよ。あと、白湯のんだら、スポドリやるから、そっち飲んで」
もともとは、熱中症予防のために用意してある補液を、ボトルごと加藤は手渡した。
苦痛をこらえている表情の音竹であったが、補液を飲み進めると、顔色がやや改善した。
「少し良くなりました。クラスに戻ります」
音竹は律儀に頭を下げると、少しふらつきながらも退室した。
白根澤は、保健室のドアが閉まると同時に、書庫の鍵を開け、新入生の健康調査票を取り出した。身体に似合わず、俊敏な動きである。
健康調査票には、生徒本人の既往歴や予防接種歴以外にも、家族の構成や緊急時の電話番号など、個人情報が存分に記載されている。そのため、通常は鍵付きの書庫にしまってある。
「ええと、あったあった。音竹伸市」
白根澤が音竹の調査票を見つけた瞬間、加藤がべらべら喋り出す。
「音竹伸市。S区在住。家族は母のみ。
予防接種は定期、任意、すべて済み。
食物アレルギー、既往、特になし」
「あら、せいちゃん、さすがね。うふ」
『うふ』はいらねえ、と加藤は思ったが口には出さない。
加藤は記憶力と観察力だけは、べらぼうに良い。
彼は一回目を通せば、その内容を記憶できる。
所謂、瞬間記憶素質保持者、なのであろう。
だが……
はっきり言って、無駄な能力としか思えない白根澤である。
その記憶力が、何の役に立っているのか、分からないからだ。
「確かに、呼吸器も循環器にも、これといって記述がないわね、あ、骨折の既往はあるわ」
たとえば、慢性心臓疾患を持つ場合、仰向けに寝ると、苦しくなる。
それは肺に向かう静脈にうっ血が起こり、呼吸困難に陥るためだ。喘息の発作時もまた、同様である。
しかし
死ぬのか、それで?
しかも自宅以外の限定付き。
まあ、いいや。
加藤はあくびをしながら白根澤に言う。
「音明け君だっけ」
「音竹君」
「顔色と体型見た限り、ODじゃねえの? 立位の血圧は、座位より下がってたし」
白根澤も同意見ではある。
OD(Orthostatic Dysregulation)
起立性調節障害。
自律神経系の病気の一つである。
小学校高学年から中学校あたりの、思春期の子どもに多く見られる。
通常、人は立ち上がるときに交感神経が働き、下半身の血管を収縮させ、心臓に戻る血液量を増やし血圧を維持する。だが、この働きがうまくいかないと、心臓への血液量が減少し、血圧が低下する。そのため、気分不快やめまいなどが生じやすくなる。
治療薬は特になく、生活習慣の改善やストレス軽減の他、なるべく水分と塩分を摂ることが推奨されている。
「自宅以外で横になったら死んじゃう病気なら、保健室に来たら、座らせて、水分補給で良いんじゃねえの」
「通常の学校生活なら、ね」
白根澤が顎に手を当てて、ふうっとため息をつく。
その手の置き方だけは、イイ女風だ。
「自宅は管轄外だろ? それに自宅なら、大丈夫みたいだし」
「せいちゃん、来週何があるっけ?」
来週?
健康診断はまだ始まらないぞ。
だって、新一年生の合宿が……
うん?
がっ
合宿?
「あっ!!!」
葛城中学校の一年生は、来週、二泊三日の合宿が予定されている。