十七章 兄弟姉妹を比較しても、きっと誰の得にもならない
チャイムが鳴り、授業は終了した。
生徒らの頬は紅潮し、互いに授業内容について話をしている。
研究授業としての完成度はともかく、命というものを、生徒が真面目に考えた証である。
教壇を降りる加藤に向かい、教頭が声をかける。
「ああ、加藤先生、こちらは……」
加藤はちらっと教頭の横にいる文科省の課長を見る。
「なんだ、来てたのか」
「こ、こら、加藤! このお方を誰だと心得る!」
教頭は、加藤の口調に慌てて、時代劇調の科白を吐く。
「文科省私学行政課の課長だろ?」
「知っているなら、もっと敬意を払わんか!」
教頭は顔を真っ赤にしながら、再び課長に向かってぺこぺこ頭を下げる。
「あのお、課長。校長室で今回の授業についての感想など、お聞かせいただきたく……」
課長はメガネをすっと上げ、にっこり笑う。
「いえ、これから、私学の保健室実務の見学を希望します。加藤養護教諭にも、何点か、お
聞きしたことがありますので」
「来んな!」
加藤は口を尖らせてスタスタ保健室に帰る。
その後を、課長は早足で追いかける。
深いため息をつきながら、教頭は校長室に顛末を告げに行く。
すると校長室には銀髪の老婦人がお茶を啜っていた。
「り、理事長先生!」
文科省の役人の次は、学校法人の理事長のおでましである。
教頭は、昆虫のように手をこすりあわせながら、動揺を抑え挨拶をした。
「理事長先生、今日はまた、何の御用でございましょう?」
理事長にお茶出しをしていた校長が、仏頂面で言う。
「もちろん、文科省の課長に挨拶をするためだ」
銀髪の上品な婦人、学園理事長の葛城志鶴は目を細め、うふっと微笑む。
「あら、だって憲ちゃんが来てるのでしょう? 挨拶くらいしないとね」
理事長は文科省の役人と知り合いなのか。
怪訝そうな教頭を見て、校長が仕方なく、とんでもないことを告げた。
加藤が保健室に戻ると、先ほど授業を受けていた一年生たちが数人、白根澤を取り囲んでいた。
白根澤は、「避妊」の指導を教える時の教材の一つ、男性性器の模型を手に取り、朗らかに教えている。加藤の姿を見て、生徒らは手を振ったり、親指を立てたりする。
「へえ、すごい教材だね。僕も一つ欲しいな」
加藤のあとから保健室に入ってきた文科省の役人が、きょろきょろと保健室内を見て廻る。
「あら、文科省の方に、性教育への関心を持っていただいて嬉しいわ。なんなら、妊婦さんの苦労を体験できる、妊婦さんジャケットとか、骨盤胎児モデルなんかも如何?」
「いや、それは次の機会で」
爽やかに笑う文科省。
「次はない! ってか、もう帰れよ、憲章」
「そんなこと言うなよ、せいちゃん。ようやく久しぶりに会ったのに。全然ウチにも帰ってこないから、こうやって僕が来たんだぜ」
「お前がいるから帰りたくないんだよ、俺は」
「相変わらずツレナイなあ」
文科省の課長、加藤憲章は、男性養護教諭、加藤誠作の頭を、わしゃわしゃとかき回す。
「僕たち、たった二人の兄弟じゃないか!」
校長室では、教頭が、素っ頓狂な大声を上げた。
「えええ!! 実の兄弟なんですか! 課長様とウチの加藤が!」
「あら、教頭先生、ご存じなかったかしら? 加藤さんの一族のこと」
理事長はレースのハンカチで、口元を押さえる。
加藤一族。
政界と官界に強いパイプを有する、ひらたく言えば名門の一族である。
「加藤一族は聞いたことありますけど…… でもあの加藤ですよ。お兄さんが国家上級の出世コース。弟は、公立の教員にはなれない男。賢兄愚弟の見本のような……」
「そうね、憲ちゃんは公式通りの優等生。せいちゃんは、うーん。天才的野生児、かしら」
それは絶対「天才ではなく、天災」だと、教頭は思った。
休み時間が終わり、生徒が教室に帰っていったあと、保健室では白根澤が、加藤兄弟にどら焼きをふるまっていた。
「うわあ、このどら焼き、中にお餅が入っているやつだね」
嬉しそうに食べる憲章を見て、白根澤にも昔の思い出が過ぎる。
加藤家の賢兄愚弟。
世間はそう言っていた。
「違うよ、僕なんかより、せいちゃんの方がずっと頭良いんだ」
幼い頃、憲章はよく白根澤にこぼした。
「いいから、それ食ったら帰れ」
憎まれ口をたたきながらも、どら焼きをぱくつく加藤の表情は、なぜか昔の可愛らしかった、少年時代を彷彿とさせた。