-精油と思索の反転-
プロローグ
絶好のクレッシェンド。
眼下を流れるテムズ川が視える。その水面より42メートルの高さに掛けられた橋が浮かぶように視える。きっと、空がその青の中にターコイズブルーを飲み込むのにてこずっているからだろう。
今度は川が蛇行しているあたりのストランド界隈に視線をおくる。
春から夏にかけては、オーストラリアハウスの近辺の木々の緑と、バスの赤のコントラストが美しい。が、今は冬だ。
賑やかな街に響くウェストミンスターの鐘の音が響く。醒める鳥の声。叩く風の手―。
『そろそろか(だ)―』
その先のフリートストリートには、雪で一部を覆われた《クリスマス・キャロル》の作者のミュージアムだろうか。神と神ならぬ男の声が聞こえてくる。
クピドーが一瞥していたのは教会の鐘だ。中世の匂いが歴然と残るセント・ダンスタン・イン・ザ・ウェスト教会。
『第1の人間は・・・』
水面が一瞬揺れた。
『今日ここロンドンで逢うことになってるらしい―【現在からの使者】だ』
右に、左に、
『そして第2の人間は半年以内―これは【過去からの使者】』
上に、下に、
『さーて、第3の人間は1年以内に現れる―【未来からの使者】なんだぞ』
経に、緯に、寄り添いあった時香が煙のように舞う。やがて西の風がそれらの残り香を消すのも知らずに。
『インキュバス。今回もいろいろと雑用を頼むことになるが、よろしく頼む。ただし――』
深く頭を下げる。神託を受けた牧師のように相容れない威厳をもって。
『今回は、魂は、奪わない』
手と手をとりあって身悶えして踊るクピドーとイカロスを背にして、メフィストはインキュバスに注意を促すように眉間に皺をさらに寄せる。
『メフィスト様。この度は降臨誠におめでとうございます』
胸のあたりに青白く華奢な手を置きながら、もう一度厳粛に首を垂れた。
『11代目として、また今回も手前には真似することが憚られるような閻浮提での大悪禍が間近で観られるのですね』
メフィストは『先を急ぐな』と、神妙に警告した。にもかかわらず、至上のデザートを前にした子供のように彼の質問攻めは止まることを知らない。
『蟻塚に点在する骸たちも愉快になるような、そういった類の喜劇がよいでしょうね。魂が奪われる間際のあの断末魔を想像するだけで、もはや性的な興奮さえ覚えます』
青白い手で首筋をなぞりながら首を長く伸ばす。
『それは君の特性に原因があるのであって』
イカロスが割って入った。過走する彼の発言を是正しようと腕を《待て》という合図をつくった。身震いしている。ふわっと白いものがそのときメフィストの視界に入り込んだ。雪だ。思わず空を見上げた。
『40年前ですね』懐かしむように目を瞑る。『手前を興奮の坩堝へと誘いました。武力で人間を誑かすあのアンドラスなどは下品でなりません。厳粛な大炎上の前で天空の闇に溶けるあの崇高さ!』
生真面目な声でひとつひとつ慎重に選んだ言葉を、甕で混ぜながら煮詰めるようにしてメフィストを讃えた。刺激を反芻するように思い返しているようだ。指と指を合わせながらぽきぽきと音を鳴らしている。
『手前一生のお願いです。乱痴気騒ぎになるような大擾乱を! 自らの生殖機能を、貪婪にも代替として閻浮提の女たちで充たす醜汚に従事するしかない下劣な手前ですが、聡明なヴォルトオーソ様は違う!』
抑えられずに漏れた興奮が上擦る声に現れている。
しっかりと己に密着している彼のブラックのチェスターコートが翻ると、彼の細く、イカロスと違い、全身にまったく余分な贅肉のない体のラインがブラックのハイネックセーター越しにでも見てとれる。
『今度は貴様と別れることもあるかもしれない』
重い扉を開けるようにメフィストに宣言する。
『ここが犠牲に……』
ぼそっと聞こえない距離なのを確認してからクピドーが肩を落とす。
『人は結局死ぬ。問題にしなければいけないのはその過程と理由だ』
『あっ』
クピドーが記憶への意識を現在に戻して続ける。
『言い忘れてた。俺らも、監視の役割として天界から任務を言いわたされている。4人の修学旅行ってとこだな』と、妙な笑い方をしながら言った。
『嘘をつくなよ。どうせコッツウォルズの例の場所でどんちゃん騒ぎでもするんだろ』
『そんなところだな。お前も歓迎されるか』
また下手なトランペット奏者の音のような笑い方で首を左右に振ってメフィストは背を向けた……。
彼らが去ってから、ロンドンらしくぽつぽつと雪に混じった雨が降ってきた。
『クピドー様、本当にメフィスト様のような方が人間になんてなれるのですか』
イカロスは背中のリュックを下ろし、折り畳み傘を取り出す。虹色の傘を広げ、クピドーが濡れないようにと傘の面積の半分以上を彼の頭上に位置させた。
『どうしてそんなこと聞くんだ』
『天使ならば分かるのですが』と、傘に落ちてくる雪を見ながら言った。
『あいつだって翼ぐらい持っている。暴君だけどなあ』
『そういうことじゃないんです』
イカロスが一瞬戸惑いの表情を見せる。
『悪魔が人間になるなんて夢物語よりも現実味がないように思えるのですが』
『夢物語より現実味がない話の方がかえって良くできた話なことがあるもンだ……『ベルリン・天使の詩』でもピーター・フォークが本人役で言ってただろ……『たくさんいる』ってさ』
『あれは、天使がたくさんいるって意味ですよ。天使は、人間にはなれま……』
その時――エリザベス・タワーの屋上に残った彼らの下に、蛇のように絡む一筋の風が吹いた。手で目を庇いながら風上を振り返る。
『風を編む……』
クピドーがつぶやく。
『俺らは、そうだ、見守るしかない』
パイプを、脱力した手でただ落ちないようにとだけ握り、下唇を噛んだ。
これから起きることのいかなる磑風舂雨も見逃してならないと、クピドーは心に緊張の糸を張り巡らせたような真顔で虚空を見つめた。彼の眸は、終末の風の中、突き進まなければならない友の影を追っていた。
第1章 愚者:The Fool
1
栄華に耽る閻浮提の上の空で、華奢な街灯が雪に映える。その彩は内気に杏色に煌いた。
四角い、大小、柄様々な紙袋―。
グレートマールボロー通りを行き交う人々は、通りに面した青白く煌めくチューダー・ハウス様式の老舗デパートを横切り、白い息を弾ませながら銀色の雪の上で寄り添いあって歩いている。雪の匂いと、香ばしい七面鳥の匂い、パブから漂ってくるエールビールの匂いを風が運んでいた。
「どうかしら? このスカートに、このコートと靴。セクシーでしょ」
赤と緑で降誕祭色の明滅が装着されている路面店。イエス・キリストの遺体を包んだ布より上質な生地で綿密に裁縫された洋服が大理石の上に掛かっている。店の中には、婦人用コートのハンガースペースの前で、森川泰平が恵比寿の会員制図書館の経営者と並んで立っている。店内はなかなかの盛況だ。
「東京のクリスマスの方がにぎやかだな」とつぶやく泰平は、焦りが顔にこびりつかないように注意を向けた。「もう一度いきましょう」と提案する。
「どうして? 何か変なの」
さきほどまでロング丈のソワレ姿の自分を鏡で確かめながら上機嫌だった女は難色を示した。そうは言わせない、を意味するような圧で包んだ言い方だ。
「あなたをわざわざロンドンまで連れてきてあげた理由わかってるんでしょうね」
店内に入るまで、まるで年下の恋人でも連れて自らの美貌を誇示するかのようなわざとらしく腕を絡めて入ってきた女は、みるみるうちに不機嫌そうに首を傾ける。
一方、泰平は気張りもせず、愛想を口元で揺らし、早口で「はい、僕はきちんとフォローアップをしています。ちょっと、見ていてください」と応えた。話している途中で、小さな舌打ちが聴こえたが、努めて気にしないように振舞った。
不満げな彼女を置いて、右手を挙げて店員を呼ぶ。流暢とは呼べない中学の時に学習した英文法をそのまま暗記して「君の好きな色を教えて」と尋ねる。気の抜けた炭酸のような発音だ。
「えー……ベージュとモスグリーンだと思い…」
「こちらの女性はこれからフォーマルなパーティーに行くんだ。君の好きな組み合わせを持ってきて。ただし、テーマは気品と色気とゴージャス。それにインテリジェンスね」
怪訝な表情を店員が浮かべる。彼女は他の客に対応している同僚らしき男性に相談に行く。紳士服とキャッシャーとの間で、ちらちらと経営者の体型を確認しながら見定めているようだ。
「感じの悪い子ね?」額にシワがよると、一気に女は老ける。「ここは気品あふれるエリザベス女王の国ではなかったのかしら」
「一流店の店員とは思えないですね」
泰平は打算的だと思いながらも同調を示す。
数分後。ベージュのコートにモスグリーンのスカラップカットのヘムラインが女性らしさを演出した清楚なスカートを持ってきた。さきほどの店員とは違う男性だ。礼をいって泰平が受け取る。試着室に運んでカーテンを閉めた。
それから彼女は数分経っても出てこない。「どうですか」と声をかける。あろうことか、入店時に着ていた高級ブランドのニットワンピース姿で出てきた。ブラックのXラインが際立っている。
ペールトーンの水色のアイシャドウがはっきりと見えるくらいに彼女は目を細め、「気に入らないわ」と唾棄した。先に委縮したのは店員の方だった。
「今度はもっといいのを君は選べるよ。金額は高くてもいいから。お願い。助けて欲しいんだ」
両肩を上下させながらそう言うと、男性店員は自身の胸元に伸びた泰平の手に握られたものを確認後、真剣に肯いた。
中途半端に選んだものが顧客に否定されると、今度は自身の直感を冴えわたらせる準備をしてからコーディネートを選び始める。相手の表情のメイクの仕方から皺の入り方、鼻の曲がり方からピアスの色まで視界から入る情報は全て直感をかけあわせて初めて、人は人に合った洋服を選ぶことができるのだ。
彼女は店員が持ってきた胸元の開いたシルクのチューブワンピースを購入して店を出た。
「やっぱり寒いですね。外は」
「じゃあ、またお願いね。日本に帰ったらまた連絡するから」
空から降ってくる牡丹雪を、傘の代わりにクラッチバックで鬱陶しそうに頭を覆いながら、彼女があっけなく言った。
この期に及んで、天気の話はなかった。そんな泰平の反省を待たずして、彼女はそのままタクシーに乗り込む。
「あと、昨日のこと覚えておいて」と、ほんの少し湿った声で念を押す。胸の乳首まで見えそうなくらい屈んで泰平をシートから見上げた。雌豹のような欲深さを口許をかすめるのを泰平は見逃さなかった。
店を後にしてタクシーに乗りこんだ。運転手に「メリルボーン通り」と告げると、グリーンのモッズコートを所狭しと、腕をひっこめながら脱ぐ。店内に長時間いたせいで体の中に蓄積した熱は簡単には逃げなかった。頬が紅潮し、肩に鈍痛が走った。首を回すと、いかにも異常な音が耳の奥で響いた。運転手が一瞬フロントミラーで確認するのが視界に入った。
メリルボーン通りの有名高級チョコレートの店はすぐに見つけられなかった。というのも、通りのほとんどの建物がブルーかペールグリーンの見分けにくい色で、しかも甲板が分かりづらいのだ。
タクシーから降りてイルミネーションの通りを歩くこと15分。ようやく細い路地にある目当ての店を何度か往復して、やっとたどり着いた。
ひっそりとした店内には大小と色さまざまなチョコレートが陳列している。適当に注文し終わると、店員が質問する。
「%&$#△」
まったく聞き取れない。チョコレートの店での会話の練習はしてきていない。泰平は、聞き直そうとするが、何度言われても全く理解できない。苛立ってそうな女性陣が東洋人に軽い軽蔑の視線を向けている。
『包装用紙をどれにするのか、そう、彼女は質問している』
男の声が聞こえた。振り返ると、いつのまにか列の後ろに男性が立っていた。筋の通った力強い鼻筋だ。センスのいいモスグリーンのライディングコートを着た男だ。ヒッコリー傘を左手に持って自分と同じくらいか少し上の年齢の端正な顔立ちの男性だ。
会計を終わらせると逃げるように早足で店を出た。なるべく胸を張って、余裕の表情をしながら出たので、おそらく気にされないだろう。が、男にたいしてちゃんと礼をしていないことが気にかかった。チョコレートが入った紙袋を左に持ち替えて、右手で携帯を取り出して時間を確認する。泰平はしばらく外でさっきの男を待つことにした。
しばらくすると男が出てきた。如才なく右のポケットから名刺入れを取り出し、一枚をすっとたあいもない仕草で男の前に差し出す。「先ほど、は、ありがとうございました」何語で話しかけていいのか迷いながらカタコトの日本語を喋った。
『いいえ』
男は自分よりも大きい紙袋を左手に提げている。そして、なぜだから分からないが何かを得心したような表情で言う。
『待っていました』
泰平は意味も解らず笑った。
「失礼ですが、わたくしパーソナルコーディネーター、という仕事をしていまして、ファッションコーディネーターを主に生業としているのですが……さっき店でお見かけしたときからずっと気になってたことがありまして」
借りは返したので、話題の主導権を握りたい。
「それ、どこのコートですか」泰平が訊いた。頭の中のブランドを思い浮かべる。胸のロゴは、マルベリーの桑の木のマークにも見えるが。
『どこの……』
男は意外だという顔をした。
地元の人間っぽい女性3人が、甲高い声を出しながら店から出てきた。一瞬男のコートから視線をはずすのが遅れたので確かめることはできなかったが、笑われたような気がした。気を取り直して質問を続けた。
「そうではなくて、誰が、または、どこが作ったんですか」
『代々、先祖から受け継いでいる』
形見ということか。「色つやいいし、型崩れもまるでないなんて信じがたいなあ。すごく、いいテイラーが作ったンでしょうね」
男は何も特に応えずただ肯く。そして、首を傾げながら泰平の目を覗き込むように前かがみになった。男はどこかがっかりした様子だ。反射的に後ずさりをする。思わず雪で滑りそうになった。
ふと喉が渇いていることに気づいた。充満したチョコレートの匂いのせいかもしれない。昨日のワインやシャンパンも残っているから、濃い目のコーヒーでシャキっとしたい。それより、ここにいれば恥の上塗りみたいなものになるから、とにかく移動したい。
「あの、もしよければ、何か飲み物でもおごらせていただいてもいいですか」
男は『ええ』と言って肯いた。
「ただ、実は紅茶に飽きてしまって、できればコーヒーハウスで濃いコーヒーを飲みたいところなのですが、どこかもしご存知なら教えていただけませんか」
『あのキャサリンの個人的趣味が単に不思議とひろまっただけで、もともとイギリス人はコーヒー好きだから、たくさんあります。案内しましょう』
初めて男が長文を喋った。
嬉しくなって、大袈裟に驚いてみせる。
「詳しい・・・んですね」
『イギリスにおける紅茶文化の発祥に深く関連しているチャールズ2世とキャサリンを結びつけたのは、他ならぬ私の知り合いですからね』
いつの時代の話なのか。が、別段それ以上気にしなかった。
コーヒーハウスで泰平はキャラメルとレッドアップル、そしてブルーベリーがブレンドされたエスプレッソ。男はアールグレイ紅茶を注文した。小腹も空いたので、アイオリソースのかかったチップもサイドメニューの中からみつけて注文した。
その後、泰平と男は仕事の話、婚約者の話、お互いのロンドン訪問の目的や帰りの飛行機などの話をした。
食後しばらくして「では一緒にいきましょう」と泰平は言った。
「ちょっと、その前に、一度ホテルに戻ってスーツケースを受け取ってきてもいいですか」
泰平が訊くと、『では、私は空港で待っています』と男は応えた。
もう一度『待っていました』という言葉が今度はより身近に感じられた。
待っているのは誰で、誰を待っているんだ?
2
荷解きせずに、ベッドでぼんやりと携帯電話でメールをチェックしてうとうとしていたときだった。渋々起き上がって、インターホンの受話器をとると、《榊様、お通ししてもよろしいでしょうか》とフロントスタッフのいつもとかわらない丁寧な声が聞こえた。
長旅で自宅マンションに到着したのは1時間ほど前のことだ。成田空港からタクシーに乗り込み港区の部屋まで移動の車中で、婚約者の榊祐麻には帰国をメールで知らせた。仕事中なはずなのに、返信はあっけなく届き《今夜行くね》と書いてあった。
半年前に東京23区最南部の大田区蒲田本町の10階建てのマンションから、港区芝の家賃38万円の1LDKに引っ越したばかりだ。家具全般は、ほとんど婚約者が選んだもので、ランチョマット、クッションカバーからフラワーベース、リビングのカーテンから寝室の寝具まで白と青が基調となって統一されている。
ピーンポーン。とさきほどよりも部屋の中に音が響いた。ベッドから起き上がって、スリッパを履いて玄関に向かった。玄関を開ける前に、客用のスリッパを収納棚から取り出して丁寧にフローリングの床に置く。どうせ履かないんだろうけど、と泰平は投げやりにぽつりと呟いた。
「おかえり!」
高く甘い雲雀の声がさきほどまで冷え切っていた玄関に響いた。
「やだ、寒い! 暖房つけてよー。体感温度が違うんだからー。前にも言ったでしょー」
手に持ったグローシャリーバックを床に置いて、指先に息を強く吹きかけながら、注文する。泰平は鼻をすすった。「やだ、やっぱり寒いんじゃん」出逢った時から室温にはうるさい性質だ。初めて食事したレストランや休憩のために訪れたカフェでならば理解できるが、どうしようもならないであろう映画館や水族館の室温、はたまたデパートでさえも店員を捕まえて「寒い」と言える神経に、泰平は当初唖然としたものだ。
上げ膳据え膳で育った年下の彼女と出会ったのは2年前。会社勤めをしていたときに同僚に誘われた若手起業家のための勉強会がきっかけだ。
東京は12月末。空風が強く外では吹いていた。
「分かった」と繰り返して、泰平は暖房のリモコンを押す。すると、身体をぴたっと寄せて彼女は怪しくリモコンに表示されている室温を覗きこんだ。設定温度について顎で指示する。そうして指導が終ると、飛びついて抱きついた。猫なで声に潜んだ天性の自由な気性がところせましと一気に四散していった。
「下のコンシェルジェに全く顔を覚えられてないよ。失礼しちゃう」
唇を尖らせて、暖房の風向きに合わせて移動しながら言った。
「婚約者なのに、すっごい不審者扱いされるンだから。エレベーターカードキーを渡すときもなんか、アっ、そうだ―」
そう言うと突然玄関に戻る。備え付けの脇の靴箱の上のインドで買った皿の上のキーを取った。すり足で戻ってくる。芝居が始まりそうだ。
「嫌なのよねー、あの目線。絶対顔を覚えてやるぞ、みたいな、すごい、こうやって、手でキーを渡しながら顔を近づけるんだから!」
「ごめん。コンシェルジェって少し不便なところはあるけどね。しょうがない」肩を叩いて彼女の苛立ちを抑えようとした。「そう言えば、ポストに何か届いていたよ」ポストの暗証番号を知っている彼女が受け取るのがおきまりとなっていた。泰平宛ての封筒―出版社主催の異業種交流会のお知らせの案内と地図が入っている。《お名刺を百枚以上ご持参ください。たった1回の交流会で1年分の人脈が得られます》
彼女は軽く泰平の頬にキスしたあとキッチンへと入って料理の準備をし始める。肩より少し伸びた黒髪を右側にまとめてシュシュでとめながら「お腹すいてるかな」と訊ねた。
泰平は「もう腹ぺこだよ」応える。「ほんと? よかったー。今日ハンバーグを作ろうと思って材料を買ってきたから。ちょっと待ってて。先におつまみでも作るから、ビールでも飲んどいてよ」
「おお、ありがとう。分かった。そうするよ」
「それで……どこか行くの」
女の勘というのはどうもばかにならない、と泰平は神妙な顔つきで言葉を選ぶ。
「パーティーがあるみたい。今回断れそうにないから、一応、顔だけ出すか」仕事関連であることを強調する。「あっそう。アタシは連れて行かないの」手作りの料理の皿を準備しながら、糾弾してくるかのような空気を声帯が帯びている。
「いや、違うよ。これ人脈を広げる上では大事だからさ。とにかく経営者ってどれだけ人を知っているか、情報を手に入れてるかでしょ」
まな板にあたる包丁の音だけが聞こえてくる。何か切れている音がほとんどしない。コツ、コツとまな板に刃があたる音と、大きなため息だけが聞こえた。
「ひとりでは、ちっぽけな力しかないから、何かしらギブ&テイクの関係は作っておきたいンだ」
なぜ、いちいち言い訳じみたことを言わなければいけないのか一瞬訝しんだあと、泰平の中には窮屈さがこみ上げてくる。その窮屈さに体が耐えられず、ソファにどさっと座り込んだ。テーブルのリモコンに手を伸ばし、スイッチを押した。ミュートにする。
「人脈を広げる前にね、アタシとの関係は真剣ではないンじゃないの? ゲーム」挑発するようにまな板に包丁を強くたたきつけた。柄の部分が折れそうなくらい力が込められているのがわかる。
「感情的になっていれば何でも許される訳ではないぞ」
泰平は、春の暖かさの萌しを覚える矢先に冬の真最中を迎えたような不義を胃のあたりに感じた。挑発されているのはわかっている。しかし、なぜ怒りをコントロールできない? オレが黙っていればいいかもしれないが、オレはそんな草食男子に成り下がる気はない。
「最近いつもアタシが話をしてても、ほとんど聞かずにいつもエッチにばかりもっていくじゃない。アタシは人脈には入らなくて、足かせだと言いたいの」
「またか……」泰平は大きく息を吐いて俯いた。「今日はもう疲れてるンだ。家に帰ってきたンだから、もう少しリラックスさせてくれよ」彼女が手を止める。「アタシのせいなの」
正面の液晶テレビではお笑い芸人がアイドルとロケをしていた。
「ちゃんと話を聞いてくれよ。そんなこと言ってないだろ。前も言ったけど、祐麻は小さい時から比較的……」そのとき泰平のすぐ隣に玉葱が飛んできた。ソファのへりにあたって、ぬちょっという音をたててフローリングに落ちる。
「またアタシの精神分析なの!?」
ソファで脚をオットマンにかけながら話をする泰平を睨んだ。
腹筋に力をいれた。よくも婚約者をあんな目で見れるもんだな、泰平は軽蔑したくなるのをぐっと抑えるためだ。腰をさらにソファに落とし込む。泰平は玉ねぎの水分がフローリングの溝に入り込むのをうらめしそうに見た。
「自分の望むとおりに物事がいかないとすぐ怒る。世の中自分の思う通りにはいかないンだからさ」
無言で彼女は混ぜたハンバーグのタネを焼くときの大きさに分け始めた。が、挑発に乗せられた泰平の腹の虫は収まらない―。
彼女は手を止めずに俯いたままだ。「祐麻」と呼ぶと少し遅れて顔を上げた。
「一番に幸せにしたいンだから、そのためにやっているからさ。少しは判ってくれてもいいだろ」泰平は、諦めず、ぐいっと方向転換しようと試みた。
「またアタシを悪者みたいにするのね」
涙で声が潤っている。泰平は曖昧のまま放っておいた。もう一度「今何て言った」などと愚問を投げかけてしまえば部屋を飛び出すに決まっている。喉までせり上がった質問を腹にもう一度戻す。テレビの画面では外国産の車の新製品のコマーシャルが流れている。
「いや、そんなの被害妄想だよ」
彼女は絞り出すように「違う」と返す。シュシュを撫でる右手が場違いにも卑猥な動きに見えた。
「じゃあ、オレが悪いのか? とりあえず、料理するのは一旦やめてこっちに来てくれるか。ちゃんと話し合おう」
立ち上がり、泰平はキッチンに向かう。コーヒー豆をひくためだ。話が長くなる予兆があった。
「祐麻の潜在意識の中には、幸せになりたいって気持ちがあるのに、それを嫉妬なんてつまらない表層の感情が邪魔して、素直になれてないンだよ」
ミルを戸棚から取り出しながら言った。
「つまり、オレが家族を幸せにするためには、どういう方法があると思う」泰平は記憶の引き出しから引用しようと集中する。「この資本主義者かの中でお金は価値基準では一番だ。だったら、その一番のものを操りたいじゃない。オレはそういう人間になりたいんだよ」
喋り終ると、ミルを挽きはじめる。いい香りがキッチンにたちこめる。やがてリビングへと湿潤していく。腕を組んでソファに座り込んだ彼女は鼻をひくんとさせた。チェックメイト。
ふたりはソファの端と端に腰かけて、コーヒーを飲みながら、灰雪のような人生哲学をさっきから喋り通している。
「じゃあ、具体的にどう人脈が広がるのか言ってくれない? そしたら納得するから。今まで広がって何のメリットがあったの」彼女の質問の意味が分からない泰平は沈黙のあと「―何で分からないんだよ」と目を伏せる。
「分からないよ、説明してくれないと―」
「普通、分かるだろ」
腕をソファの後ろに回してぐっと彼女を見据える形に向き直す。
「普通って何よ。何が普通? アタシの頭がおかしいみたいな、見下した感じ……やめてくれない? この前だってそう……だいたい、フツウ、フツウって何なの」
唇をかみしめて黒々としたコーヒーカップを手に持ちながら彼女が訊いてくる。内容とは裏腹に声の調子は意識的に抑えられている。よけいに恐怖心を煽った。泰平は天井に視線を彷徨わせ、言葉を選ぶために静かに目を閉じる。
「オレ間違ったこと言ってないでしょ」
彼女の噛んでいる下唇が上下に震え始める―高電圧の怒りが漏れる前兆。一瞬の判断だった。コメンテーターがスタンド席で視ていたらぜひとも評価して欲しいいほどの判断だ。
「……分かった、オレもわるかったよ……」
「そうやってすぐ自分の都合の悪いことは終わらせようとする」
「あーもういい。ちょっと今日は帰ってくれ!」思わず怒鳴った。
すると彼女は黙って俯いた。怒るかと思ったら静かになり、笑っていたかと思うと泣きはじめるところがある。泰平はいつも彼女の感情を理解することに苦しんだ。デパートの婦人靴売り場の品揃えにも負けないくらいに感情の起伏が激しい。時々あえて修羅場を作ろうとしているようにしか泰平には思えない時がある。
「ただ愛しているだけなのに」彼女が涙が落ちるのをこらえるために顔を上げて、ソファの隅に座って距離をあける泰平の方を視る。
「愛してるよ、祐麻。さっきは言い過ぎた、ゴメン」
男のまざまざしい目が震える女をとらえる。せつなげな目が泰平の欲望を奮い立たせた。
ベッドの上で、泰平は祐麻の着ていた服をねっとりと脱がせる。キャミソール一枚とアンダーウェアにする。胸鎖にはちきらんばかりに突出する血管と、どの角度からみても二重あごにならないその完璧なほどのあごの輪郭を器用に交互に確認する。柳の葉のように美しく細長い眉が上下にしきりに動いて、女である自分に与えられた痺れるような悦楽を享けるか抑えるか決めきれないような動きだ。泰平がズボンを脱ごうとすると、「待って」と彼女が制した。「お風呂はいってないから、シャワー浴びてからにしよ」両手を内腿で挟んで温めている。「いいよ、そんなの」生を貪る行為に没頭したい。
リモコンが見つからずしばらく部屋を歩き周って、ようやくキッチンの置いてあるのを見つけた。暖房の温度を1度上げる。投げられた玉葱はいつのまにかゴミ箱に捨てられている。テレビは歌番組に変わり、復活をとげたというバンドが陶酔しきった顔で演奏していた。
3
1月某日―冬晴れの何の変哲もない日だった。
寒さはだんだんと身を切るようなものへと変わり、心なしか外を出歩く人は少ない。ところが「会場」は熱気という熱気で溢れている。日本の経済を回そうとする人間たちの交流会だ。港区高輪の品川プリンスホテルメインタワー39階のレストランに泰平が到着したのは午後7時を廻ったところだった。
天井まで8メートルもある西側の窓からは、冬の冷たい大気の中でより一層幻影的な夜景が見える。各がビュッフェ形式の料理を立食しながら談笑している。
受付で名刺を渡して中に入ると、すぐに目当ての人間が見つかった―胡陶鈞。中国は江蘇省出身で英語名はマット。
「―泰平、あそこ見える」胸元のロザリオを触りながらマットが先に声を掛けた。泰平は彼が手の平で指す方向に顔を向ける。
夜もすがらパソコンに向かったせいで疲労した目をこすりながら「あー」と言った。
グループの中で別段異彩を放つほど佇まいにゆとりがある男が三笠則之だ。三笠は3つ年上の経営者仲間だ。去年会社を設立後、近年は海外の美術館やモールなどの展示も手掛けるまでに成長してきているやり手の経営者だ。「挨拶しとくか」泰平たちは中央のテーブルで談笑する三笠のもとへ近づく―。
「あー泰平君にマット」彫りの深い顔に驚きの表情を浮かべて2人に反応した。
ダブル・ブレストのグレイスーツ。高身長で肩幅の広い三笠の野性的な印象を和らげるようなコーディネートを担当しているのは他ならぬマットだ。
「ごぶさたしています。その節は、たいへんお世話になりました」
「いやいや、こちらこそ。それより、どう? あのキッチン用品。婚約者と一緒につかってもらっているかな」と、触ると切れてしまうのではないかとこちらが思うくらいの鋭利に引き締まった顔に真剣みが足された。
「もちろんです。使いやすくて重宝してます! 自分はキッチンには立ちませんが、彼女が料理を作る際利用しています」泰平は思わず威圧されそうになりながら応えた。
「いいね、そういう亭主関白なところは。九州男児っぽくていい。まさか、九州男児が尻に敷かれているなんてことはないだろうとは思っていたけど」周りの華やかな参加者の顔を見渡しながら率先して広い肩を揺すりながら笑う。三笠の冗談に周りも笑った。
「いやですねー僕は岩手出身ですよ」
三笠の笑い声が止まる。
「あれ、そうだったっけ。ごめん、誰かと混同しちゃったのかな」
隣に立っていたマットが泰平の腕をちょこんと肘で小突いた。
「ところで、お2人の力を借りなければ、地方創生はうまくいかないから、お力添えをお願いします」
「おっしゃる通りです。つまり、つまり、東京の起業家たちの賢いマーケティングの力を借りる、という事ですね」
彼は泰平と話すとき以外、わざと中国語訛りの日本語で話す。
「そ、そうなんだ。借りるということなんだ」
三笠がグラスを持ち替えて続ける。
「ただし、今あるもので、これからの地域活性化につながるものを光らせる。主役は東京にいる僕らじゃないんだよ。東京の僕らはすぐに市場を荒らすぐらい強欲な生き物だからね」
自虐的な冗談は高い位置にいる人間たちに大いにウケた。
「今期の連結最終利益も大幅に上方修正されたみたいで、おめでとうございます」
マットがぐっとさらに三笠に近づいてもちあげる。
「いやいや、まだまだこれからだよ。2年後には「まち・ひと・しごと・創生法」という法案が施行され、少子高齢化に的確に対応して、人口の減少に歯止めをかけながらも、都心の人口集中を是正して、地域の特性を最大限に生かして――」
三笠が鼻息荒く片手に持ったシャンパングラスを指ではじきながら講義を終えると、狙っていたようにマットが喋り始める。
「寡聞な為無知なので、今度じっくりとお邪魔じゃなければ、お邪魔じゃなければ勉強させてください。それにしても、トラッドスタイルが決まっていますね」
「皆さん、今日の私のこのファッション。プロデュースしてくれたのがこの彼なんです」
そう言うと、周りの人間が一斉にどよめき声をあげる。隣の団体までも三笠たちのグループに視線を送った。
「今度、食事会をするんだ。君たちもどうだい? 婚約者の方も誘ってみてくれるかな」
「必ず都合つけて参加させていただきます」
三笠は返事を聞く前から、後ろを振り向き秘書らしき女性の耳元に何か囁いていた。
それから「では失礼」と言って会場の外へと出て行った。
ワインからスコッチの水割りに変えた泰平の口から芳醇な匂いがしてくる。
「マット、そろそろオレたちのサイトで動画を視てもらって、そのついでにディスプレイ広告を視てもらうというディストリビューションの方法も変え時だろうな――」
「コンテンツ企業との提携が重要になってるのはボクも感じている」
「だから、ポテンシャルの高い顧客の流通基盤としてのタイムラインにどうやってうまく流れるか今週中にでも戦略会議しよう」
「もう根回しはしてあるから、じきにボクのとこに連絡がくることになっている」
「どこなんだ? その相手は」
スコッチが鼻から抜ける。
「聞いて驚くなよ―」
にわかには信じがたかった。
大手マーチャンダイズとのコンテンツ提携を結んだというのだ。どうやったらそんなコネがあって、交渉が成り立つのか。目の前の人間の、大都市の競争の混沌を乗り越えるだけの「熱量」が頼もしくもなり怖ろしくもなる。
「泰平、とにかく『ヨハネの黙示録』は知っているね」
彼は酔うと決まって聖書を引用したがる。
「なんだっけ? 映画のタイトル」
「それは『地獄の黙示録』だ。じゃなくて、新約聖書の中の『ヨハネの黙示録』だよ」
「それがどう今この状況と関係するんだ」
「あの中に悪魔、獣の数字の『666』が出てくる」
「昔『オーメン』って映画あったな」
「…………」
泰平は小首をかしげながら先を促した。
「神様、どうかこの愚かな人間をお許しください。彼に悪気はないんです。他人の話を理解できない人間にこの世の中が育ててしまったのです」
「終わったか」
いつものことで呆れて特に相手にする気がない。
「アーメン!」
「終わってなかったのか……」
「で、その悪魔の数字の『666』はローマ帝国第五代皇帝ネロだと言われている」
「それじゃ、マットのアークエネミーじゃないか」
取って付けたようなわざとらしい言い方をして、スコッチのグラスの氷をまた指でかき回した。
音楽が聞こえてくる。聴いたことのあるハスキーなこもった声だ。スコッチと絶妙に合う。思わず自分の人差し指に爪を立てる。
「違うんだよ。ここからが面白いんだが、キリスト教徒が都合よくネロをさらし台に乗せるように暴君に仕立て上げたと……。奇行が目立っていた人みたいだし、極度のマザコンだったという説もある。ネロ以上にキリスト教を弾圧した暴君など山のように歴史上いるんだけど、結局ネロを悪魔の象徴としたんだ」
「なんの話なんだ、結局」
「つまり、最初に戻ると、スキャンダルは勘弁して欲しいってこと。ひとつミスすれば致命的なことにつながる。いつの日もみんな悪魔への生贄を探していないふりをしながら探しているもんだ」
さきほどの女性の曲からすでに男性の歌う曲に変わっていた。
「マーケティングだ」
マットの間延びした語尾がカウンターに留まっている。泰平はひとりで携帯を取り出す。スコッチをすすりながらメールをチェックする。
すると、隣にいつのまにか身長の高い男性が2人いることに気づいた。ワインを飲みながら周りに何気なしに目を送っていた。
―あ! 泰平は思わず声にだした。「奇跡」がそこにはいた。
「どうも、覚えてますか」
層積雲より厚ぼったい態度で、親気に片手をあげながら意識を自分に向けようとする。嬉しさのあまり、顔は恵比寿顔のようだ。芝蘭結契を大切にする泰平らしく、再会を心から喜んでいる。
『もっともらしい嘘ですね。覚えていると確信していますね』
泰平は固まった。意外な返しだった。
「いや、そういう訳じゃなく……まいったなーたしかに言う通りですね」
男の偏僻とした対応に面食らった。もっと親気に会話ができると泰平は予想していた。
少し調子が狂う。
「パーティーはお嫌いですか」
『パーティーは好きですよ。私と同じように、隣にいる奴がパーティーが嫌いな限りは』
「なるほどですね。御社は出版関係ですか」泰平は受け流した。
『私は代々主に精油を利用した療法とハーブコーディネーターをしています』
『メフィスト様。コイツに理解できるわけがありませんよ』
後ろにいるもう一人の男が眼光するどく泰平を短く睨みつける。泰平の眉間に皺が寄る。
「なる、ほど、ですねーハーブですかー。僕はためしたことないんだけどいいものですか」
声の緊張のせいでぎこちなく応える。
『…………』
質問を間違えたのかと思い、泰平は話題を変えた。
「ところで、村沢望さんご存じですか? コピーライティングのプロダクションの代表取締役の方で、『マーケッティングチャンネルをデザインする法則』を出版されて、メディアにも何かと取り上げられている方です。ちなみに僕のメンターです」
やたらと粘土をこねるように両手を前に突き出しながら泰平が続ける。居心地の悪さから何か話題を振ろうと思って頭に浮かんだのが彼の話だった。
『私は彼が何者か知らされていないし、興味がないので分からない』
「だから、その、今言ったように――」返しに窮した泰平は腕時計を見るふりをする。
「彼は、今はネットビジネスでビリオネアです。リスクヘッジも巧みです。つまり、プロダクトローンチのプロフェッショナルですね。つまり、時間的、物質的、精神的自由をどれもっていて、港区の一等地に住んでいます。彼の勉強会とても勉強になりますよ。今度――」
泰平はスパンコールを全身にまとうように、実に様々な過剰演出を唇にほどこした。
『今の情報の中で一番伝えたい情報が何なのかはっきりしないが、どれですか』
「あ、それはですね、つまり、彼主催の勉強会で得るものは多いですよ」
『直接的にそのポイントを話しましたか』
話の着地点が見えない。
『いえ、「つまり」という言葉を多用されるので、結論かなと思って聞いてれば全く予想もしなかった新しいアイデアがでてくるので、興味深い(インテレサント)』
二の句がつげず、汗が額に浮かんでくる。
『それに。「しかし」じゃなくて「ただし」を使うべきでは』
「あ、あ……」
『「しかし」のあとを強調されたいように聞こえるが。どうやら聞いているとそうでもないみたいなので、この場合補足しているだけなので「ただし」を使うべきでしょう』
「なるほどですね。すばらしい、今度じっくり話をさせて勉強させてください」
苛々を隠すかのように作り笑いを浮かべる。なし崩し的に退散の意を表す。
「では、失礼します」
『最後に、ひとつ質問しても――』
泰平は無視することはできないので、立ち止まって彼の方を振り向いた。
『みなさん交換している、あの紙は、何ですか』
「深い質問ですね―」と泰平が武者震いしているかのように身体を揺らせて説明を考えている。
「あれは、いわゆるセルフブランディングの赤ちゃんです。つまり、赤ちゃんなので、まだ何の力もないし、スキルもありません。あれが効いてくるのは――」
『それからもうひとつ―緊張しているような顔ですが』
泰平は再び返す言葉に窮した。
『それならこのパインがいいですよ』と言って彼は茶色の瓶をタキシードの内ポケットから取り出した。
「食べ物の」
『パインの精油です』
「あーそういうお仕事でしたね」泰平は投げやりな調子で応えた。
『今、そのシャツは脱げないだろうけど、本来は肺のあたりに手に1滴とって塗るといいです。特に、公共の乗り物に乗ったあとや今日みたいなパーティーの帰りには』
「なぜですか」
『浄化する必要があるからですよ。緊張が高まった心臓を解放すれば心が戻る。本来の感受性が戻ってきます』
「緊張なんかしませんよ」と、ぎこちなく笑った泰平が鼻を瓶の口に近づけると、ただ臭い匂いしかせずに、顔を歪めるのを必死におさえて笑顔を浮かべただけだった。
名前を呼ばれたのを装ってその場をそれからあとにした―。
『そろそろ工房に戻るか、インキュバス。見栄の品評会にはもう飽きた』
出口の方に向かおうとインキュバスが立ち上がると、メフィストは反対方向へと歩いていく。インキュバスの呼びかけを尻目に、男女で談笑しあうグループに入り、泰平に向かって話しかけた。
『最後に、一言』
一同がメフィストと彼を交互に視ている一方で、マットだけは目の置き場が違った。
『そのボルドーのストライプのポケットチーフだが、君が醸し出す若くて未熟な青い感じにはとても不釣り合いで、まるでサーカスの団長だ。もうひとつ。サーカスの団長の特徴としてヒップが出過ぎだ。ジャケットの着丈が短すぎる。さらに、そのボルドーの靴下、まるで子供のピアノの発表会だ。せいぜい『エリーゼのために』でも弾けなさそうだが。それに君にはまだTVホールドは早い、陽気な感じを出すパフがいいところだ』
指摘し終わると、喧しい沈黙に咳払いで応戦する。
そのまま別れの挨拶もせずに窓からの夜景を一瞥してから、立ち去っていった。唖然とする彼を尻目に、マットが感心した眼差しをメフィストの背中に送った。
第2章 吊るされた女:The Hanged Woman
1
最終日。真琴亜望は目的地へとゆっくり向かっている。こそばゆくて思わず身体をねじった。先ほどから音符が乗っているような五線のフェミニンな風が肌を撫でるのだ。
パープルのフラットシューズは、ホテルを出る前に、聢と防水スプレーが振りかけられている。しっかりとした足取りだ。おかげで慣れない物思いに耽る余裕すらできる。黒と焦げ茶のプードル2匹に越されるのを亜望は余裕綽々と眺めた。
フランス・パリ6区―セーヌ川の左岸のサンジェルマン大通り。夏時間の午前11時を廻った。パリの5月は気まぐれな天気だで、東京に比べると気温が少し低い。
羽織っているライトネイビーのトップコートにパチンという軽い音がする。腕にこもった熱を逃がすために、袖を肘下の辺りまでまくりあげる。コートを着た女性と何人か通り過ぎる。キャサリン・ヘップバーンのように、少し大きめのサイズのコートをマニッシュに着こなす女性もいれば、『シェルブールの雨傘』のワンシーンのようなカトリーヌ・ドヌーブのフェミニンな着方をしている女性もいる。他にも、ジャストサイズやセクシーに着こなす女性も歩いている。
鬱蒼としかけた気分が晴れていく――。
サンジェルマン・デプレにあるラデュレのマカロンの店が、右手の先にみえてくる。どこかで交差するかもしれない人々が、カフェテラスでクロワッサンや葡萄酒やエスプレッソを飲みながら、真剣な顔をしたり、可笑しさで笑い転げそうになったり、待ち合わせしていたり、パリの街に溶け込む人間たちは、やはり素敵な趣がある―。
マカロンの店ならばシャンゼリゼ前の月白のエトワール凱旋門の前にもあるのだが、観光客が多い。耳障りではないが妙に落ち着かない。
店に到着するころには雨は止み、代わりに涼しい風が吹き始める。店内に入ると、頭がぐずぐずと不明瞭してきた。ピンク、グリーン、ブルー、パープル、ブラウン、イエロー……。そしてピンク、ピンク、ピンク―。
ジェルマノプラタン達の頬は、薄紅色のチークでもひいたように蒸気させている。どんな香水でも敵わない。亜望はさきほどの記憶を手繰り寄せた。教会の厳かな空気の主人である風光明媚なステンドグラスの、魚たちの鱗の重ね合わせ様な模様に似ている。
亜望の順番がきた。店員が何度も呼んだにもかかわらず応えなかったせいで、店員は少し怒っている様子だ。
中腰になる。その時だった。ガラスケースに仄かに反射していた太陽の光の束が、まるでブラインドを上から下げるようにみるみるうちに消えていく。蕩ける光の衝撃を亜望が気づいた矢先、ペールイエローの太陽が、身につけるミモレ丈の同色のスカートと混ざり合っていく。
ガラスケースの右端に鎮座するのは、柑橘系色で積み上げられたマカロンタワー。そのタワーの先端部分にはメレンゲの猫―むしろ怪物に見える非現実的な格好で入口方面を視ている。幻惑させる万華鏡の宇宙が広がる。外の鬱蒼とした低気圧が身体の中に浸透して蔓衍がるのを避けるのには十分すぎるほどだった。
ふと時計をみる。11時36分。メトロ4号線でセイントミシェルでRER―B線を利用して50分みておけば最終駅の空港に安心して到着できる。出発にはまだ時間がある。
亜望がふと我に帰ると、目の端に男性が入り込む。6年前に少し年上の親友と旅行で訪れたロンドンで何度も目にしたルートマスターとそっくりに赤い雨外套を着ている。長身の男性だ。
目の前の虹に目を戻し、そそくさと指で指しながら注文してその店をあとにして、小雨降る外苑通りへと歩いていった。
30メートルほど歩いたところで、大通りの遠くに視線を向ける。地元の人々がどうやら集まっているようだ。近くに車と、どうやら運転していた親子と小さい子供、右手にはピンクの箱のような柔らかそうなものを持っており、左手で父親らしき男性の手を握っている。その先を2人も人々も見ているようだが、何か事件でもあったかと思ったが、みんな拍手をしているようなのでストリートミュージシャンか何かだと予測して、行きかけた踵を返した。
帰国の飛行機まであと2時間。
パリ=シャルル・ド・ゴール空港の化粧室で、雨の湿気ではねてしまっていたくせっけを丁寧に化粧室で直す。化粧室を出てすぐに電子ボードを確認する。
15時30分発、全日航空217便のフランクフルト経由で成田翌日着の空港の出発ゲートで電子ボードに《DELAYED》の表示。亜望はため息を吐く。
一番近そうな左側のベンチに腰掛ける。ゴールデンウィーク連休も終了し、明日の朝早くから、クライアントとのコピーライティングの打ち合わせが入っている。遅刻=諸悪であり、遅刻を良い方向にとらえるという、南米のような常識はあの世代には皆無であることは容易に予想できる。
同じように明日に用事を控えた乗客たちがカウンターで何やら騒いでいる。遠くからジェスチャーをみただけで苛立ちが身体全身に表現されているのも無理はない。亜望もとりあえず状況を確認しようとノートとペンを持ってカウンターへと向かった。
思った以上に乗客は暴徒化していた。並んでいる亜望を力づくで追い越して前に押し進もうとする。薄手のレースニットに暴徒化人間たちのバックなどがひっかかって穴が開いてしまった。こんなことで怯むような亜望ではないが、滅入ることにはかわりない。途方にくれていると、後ろから悠長に艶のある低音でフランス語を話す男の人―。
亜望の上半身が硬直した。名状しがたい圧と揺れを一瞬だけ感じたからだ。背中越しだが違和感が消えない……反射的に亜望は全身に力を込めた。つま先から指の先まで右から左、左から右下と、揚力を得たり失ったりを繰り返して旋回していく。
亜望はゆっくり気づかれないように振り向いた。
『飛行機が遅れるの』男が訊ねる。
「機内トラブルもあるのですが、何より天候が悪化して、離陸できないんです」 血の気のひいたグラウンドスタッフが応える。
『ヴァイス! 天候は私の力の及ぶ範囲ではない』
「全力で整備士やスタッフが離陸の準備をしておりますので、いましばらくお待ちください」
亜望は交互に二人をさりげなく目で追った。その長身の男は周りとは対照的だ。特に怒った表情もしていない。
「これだけひどいネージュがこの時期に降ることも珍しいので、とにかく困ってしまって」
ガラス窓に叩きつけていたのは、風花とは呼べないほどの凄まじい風が運ぶ雨雪だ。
『名前は』と男が訊ねる。「キャサリンです」とスタッフは応えた。
亜望には2人の会話は分からないが、女性の顔を見て、彼がひどいことを言っているわけではないことは容易に分かった。
《それで、飛行機離陸しそうですか》
不安げな表情をわざとつくって、彼と視線を重ねた。すると無表情で、『2時間後ぐらいに着陸準備整。ミールクーポンは短時間なので出ないらしい』という返事だった。
ちょうど傍を偶然通った日本人の初老の女性グループも耳をそばだてて、伝言ゲームを始める。亜望は、2時間もあるのならゆっくりと免税店をみて周りたいと考えた。早く礼を言ってこの場から立ち去りたい。
《わたしちょっとお店を見て周りますので。どうも、ありがとうございました》
故郷の長月の凪いだ海のように、僅かな不協和音もしない逃げ口上だ。右足を後ろに引きながら、肩を自分の内側にいれるようにして斜にかまえ、自分と彼との間に帳をつくった―。
『いいや、私は御礼はいらないけど』
きょとん。目を合わせてはいけないと本能で感じ取って足下に視線を移す。ふと靴をみると、彼の靴ひもが解けていた。しかも両方。この場合どちらを優先すべきか? 2つの違和感。もちろん前者だった。相手を傷つけないように、いわば積極的回避の技を見せたと思っていたが、彼は気づかない。おかげでさまざまな感情がごちゃ混ぜとなる。
なんとか納得させ、同行することは断った。にもかかわらず亜望は彼のことが少しだけ気になった。自分と同じだったからだけではない。どこかで会ったような気がしていた。歩きながらしばらく考えてみる。
結局、答えより先に亜望に届いたのは、空港内の効きすぎた暖房のせいで火照った頭と、ゆるんだ金銭感覚と、カード利用枠という魔物の絶妙なチームプレイによるエルメスのケリーバックだった。
歩き疲れたので待合所のところまで戻ることにした。例の男はベンチに座っている。ひとりで近くのコーヒーショップで時間をつぶしていく算段で店の中に入った。
中の席は遅延する飛行機の搭乗ゲートへの案内を待つ人で満席でとれなかった。仕方なく近くの店の外の空いている椅子を探す。お土産でぱんぱんに膨れたバックパックを足元に置いてから、家族連れの前の椅子に座り込む。シナモンとコニャックのホットダークチョコレートをすする。ひとときの沈静をもたらされる。目を閉じて一息ついた―。
突然近くで複数の椅子が引かれる音がした。唖然とする亜望の顔を見て、彼がさらに爆弾を投げる。『どうやら怒っているようだが、生理の時期かな』
《今なんと》聞き返すと彼は同じ質問をする。
《は!?》亜望の少し赤みがかかった額に青筋を立てて怒った。
『正解みたいだ。インキュバス、彼女怒っているよな』
『左様のようです』話し掛けられた方の男の顔が引き締まった。
《誰が怒らせてると思ってんのよ》
どうやらアレルギー反応だ。慣れている手つきで、バックパックの前ポケット中から薬をとりだす。『それは』と男が訊いたが、亜望は無視をした。
空気が読めなさすぎる男ほど始末の悪い者はない。そういう男のことを亜望は「ヒブン」(生物非分解廃棄物)と呼ぶ。亜望の大人としての「身分」に無鉄砲さを閉じ込めてはみたものの、幼少のときからの他人への静かなる悪態を吐く癖は―それにはちゃんとした整然とした理由があるのだが―悪魔の前でも健在だ。
『アレルギー鼻炎の薬か、なるほど』
赤子の手を捻るぐらいいとも簡単そう言うと、バックから茶色いひとつの瓶をとりだす。
『これは葉と茎からの水蒸気蒸留のペパーミントのエッセンシャルオイルで、くしゃみや鼻水などの鼻腔や副鼻腔のあたり炎症、さらに胸のたりと肺の中でおこる呼吸器系アレルギー疾患をおさえる』
《大丈夫だから》と意思表示して薬を飲もうとバックからミネラウォーターを取り出す。
『そうか、ただその医薬品の薬にはある真実が隠されている。それは人類が植物から目をそらし、蒸留する煩わしさを嫌って、知識を十分ひろげていた最中に、科学、という世界を支配する学問に目がいきすぎて、それが経済、という概念と結びつき、いまや薬品会社というのは金儲けに走っているのが分からないのか』
《それがなにか》
「ヒブン」の説明によればこうだ―ほぼ全ての人間の身体の機能の質は生命にとって不可欠な肝臓に依存している。全ては肝臓の性能次第で人間の身体は健康にもなれば不健康にもなる。そして、それが感情によるものだと勘違いする者もいて、哲学や考え方に走る人間もいる。つまり、人々が経験する感情は肝臓に格納されている。ということは、肝臓は全ての感情の土台だ、ということになる。
鼻で笑ってそれから一切相手にしなかった。
2時間近く待って、ようやく搭乗ゲートに呼ばれるアナウンスが流れる。
亜望は焦燥感に意識を空にされたまま保安検査場に並んでいる。出国審査を通過後、15時30分発全日航空217便の成田行きの搭乗口の待合所のベンチに、どすんと腰を落とした。あたりを見渡す。「ヒブン」はまだいなかった。
機内への搭乗アナウンスが流れると、亜望も列に加わる。ようやく飛行機の中で眠れると胸を撫でおろしていると、何やらまた何かが起こったような気配がする。並んでいるところで左の列だけやたらと進み、亜望の並んでいる列がまったく進まない。ふと、横にずれるように首を傾けると「ヒブン」がなにやら乗務員と揉めているようだ。
遠くからみていると、女性のほうが眉間に深い皺を集めている。一方彼は涼しい顔。
まるで対岸の火事のように思ってみていた。しかし、次の瞬間にこちらに飛び火する。彼は乗務員と二人で亜望を視ている。その視線に気づいた「ヒブン」の連れの男も亜望に視線を送る。そして、女性が、亜望にむかって手招きした。気づかないふりをした。しかし女性の手招きはだんだん強くなる。仕方がないので素直に列を抜けて近づいていく。
『保安検査場を入ったあと、飛行機をみていたら搭乗券が入ったリュックをそのまま盗まれた。パスポートはポケットに入れていたんだが……』
《盗まれたんですか》
彼はただこくんと肯く。
《いまならまだ間にあうかもしれませんよ》亜望は関心を装った。
『気分転換しても? 久しぶりに人に囲まれたからなんだかいつもと違って』
亜望は目を白黒させる。
《あなた自分の状況が分かってるの!?》
『もちろん。こういうことだ』
彼は咳ばらいをしてまったくお門違いな話題をぽつぽつと語り始めた。
『喧嘩していたカップルに注目している間に盗まれた。その時間しかない。そもそもその2人の喧嘩の理由がよく分からないんだが―彼はそんなつもりはなかったのに、「君が勘違いしているんだ」と言って、彼女は「そういう風に聞こえたんだから、あなたが悪いでしょ! そう思っているから、そういう言い方になるんでしょ!」と怒っていた。そのあとは彼女は続けて「だいたい、この前の食事のときも、通る女の子を下かから上まで舐めまわすように見ていたでしょ! わたしのことを見下しているでしょ!」と言って彼は殴られたんだ。ここで分からないのは、彼女は昔のことで怒ったのか、それとも現在の口論のことで怒ったのか、どっちだなんだ』
蝉が騒めくような沈黙が周囲に訪れた。
《あなたちょっと、正直に言うけど、狂ってるの》
亜望は調和第一のバターナイフを片付けて、分厚い幾層にも縦にも奥にも積み重ねられたレンガの壁を蹴破り、奥の奥から滔々万能サバイバルナイフを相手の前でちらつかせた。
『違う。私はノーマルだ』表情を変えずに言う。
『狂っているのはどちらかといえ彼女のほうだろうな』
「お客様、わたしのことですか!?」
彼が隣でずっと立っていた女性乗務員の方を見ながら「彼女」と呼んだので勘違いしたようだ。
『彼を殴った彼女だよ』首を傾げて訂正する。
「とにかく、このままでは乗せることはできません。規則ですので他のお客様にもご迷惑ですので、とにかく調査しないとどうしようもできないので」
女性は毅然とした態度を崩さぬように言った。
『それなら、コックピットに私を乗せればいい』
彼は「これ以上のアイデアないだろう?」という顔を二人の女性に向けた。さらに続ける。
『マンフレート・フォン・リヒトホーフェン、その弟のロタール、ジョルジュ・ギンヌメール、滋野清武だって全員無類の葡萄酒好きだったが、何か問題でもあるかな』
たまりかねた乗務員が警備員を呼んだ。やがて警備員が到着する。恰幅の良いその警備員は彼をみるなり笑顔になった。
「この人は嘘はつかないよ」というと、「どういうこと」と乗務員は訊いた。
マカロンの店から出てきた亜望が目にしたひとだかりの子供の手をひいていた男性こそがこの警備員だと、のちに話を聴いてわかった。この警備が運転する車は彼に追突した。『大丈夫だから』と言って慰謝料も何も請求してこずに、挙句の果てにはマカロンを車から今にも泣きそうな顔をして心配そうに降りてきた少女に渡した。そう警備員が説明していると、今度はあのカウンターのグラウンドホステスが現れて、乗務員に事情を説明する。
「確かにこのお客様は搭乗券を持っていました。お客様の座席は26のFです」
そういうと徒に微笑んでみせた。証人たちのおかげで、乗務員も黙り込んで渋々彼は飛行機に案内した。
眉根を寄せて首を捻ると、ぽきっと乾いた音がした。風向きが変わったどころか、重力が急激に変化したのかと思うくらいの、なんだかよく分からない感覚にひどく疲れてしまった。
振りこもっていた雨もようやく解放することを覚えたようで、陽が差し込みはじめた。
ようやく機上の人となったときには、亜望は既にぐったりとしていた。聞こえるか聞こえないかぐらいのボサノバ風のサウンドに誘われるように、疲れ果てて亜望はすぐに眠ってしまった。
成田空港に着陸までほとんど眠ったままだった。飛行機の中から3層構造のアクリルを隔てた向こう側の空顔を入念に観察する。走り梅雨だった。
ゲートを通過して手荷物を受け取る。手荷物受取所の外には大勢の人だかりが待っていた。ヒソヒソ話をしているようだが、誰か大物芸能人でもいるような気配でもない。とりあえず安心して近くのベンチに座った。
ふっと一息ついて最後に財布やパスポートを確認する。立ち上がると、向こうの方に彼が見えた。
手持ちのバックからあのレインコートを出していた。袖を通すとひろい肩幅がいっそう際立ち、そして襟を立てた。立てた襟の先が重力に抗うようにふわりとカールした後ろ髪に触れる。
その背中からは30歳は越えている男性の多くが身にまとうあるものが感じられる。
何かしらの荒削りの企みと別の企みとが交差点で出会い、新しい形態の矯正された絡繰りを紡ぎだして、脳内の噎せる熱で溶かして蒸発させ、それを背中に織り込んでいるかのような、一定の執着心に苛まれたあの不仕合せ感だ。
背中から足元へ目線が映る。兄妹だろうか、子供たちが走り回りときどき目線が遮られた。首を左右に鶏のように動かしていると、自分の姿がおかしくなっておもわず失笑した。高身長というコンプレックスを持つ亜望が、映画館で前の人の座高が高くて観えずらいという「珍事」は今まで一度しかない。目線を下に向ければ、それと同じような経験ができるということに新鮮な驚きさえ感じた。
亜望が立っている位置から逆方向の出口に向かっているというのに、なぜだが、彼の足音の残響は耳で徐々に高まった。
だらしなく地面に小さな蛇のように這っている導線が亜望の意識を捉える。靴ひもが……まただ。しかも、あんなに大胆に。結んだ形跡がそもそも見受けられない。20メートルほど先の男にむかって失笑した。
出口に向かって歩く男は、頻繁に開く自動ドアのむこうから入り込む温かい南風の薫りを運ぶ、「風の商人」のように見える。亜望は自分へ何かを言い聞かせているように、肯定しているような否定しているように唇を固く閉じて首を左右に振った。
日本列島はうららかな春の陽気に覆われていた。
2
東京の東側にある日本橋茅場町は上空から冷たい空気が風が吹き込む皇居と、海からの「風の道」ができる隅田川に挟まれたエリアで、春先から秋の入口までヒートアイランド現象に捕まえられることがない。比較的熱帯夜の季節も過ごしやすい。
窓の下は神田川ならぬ隅田川。築8年。中古マンションを購入したのは3年前のこと。将来的な資産価値を考え、ファミリータイプ中規模のリノべートマンションを選んだ。
いつものようにぎりぎりに家を出た亜望はコーヒーチェーン店に並んでいる。やがて、やっと順番がきて、パリの空港の免税店で奮発購入したロエベの長財布からプリペイドカードを取り出し、朝のコーヒー代を支払う。プリペイドカードに3000円をチャージし、使い切ったら翌月までチャージしないようにルールで決めている。
決まった時間に家をでるため、近頃朝の8時45分という時間を確認する場所が決まっている。キャッシャーの奥のポンプ式のテロンギエスプレッソメーカーの上に掛けてある壁時計だ。たいていの場合ディカフェのコーヒーは時間がかかるので、5分ほどは待つことになるが、始業にちょうど間に合うタイミングなので好都合だった。
クリエイティブ・エージェンシー【écriture】が亜望が務める会社だ。【écriture】の大代表取締役は村沢望。彼は、大手広告代理店時代に担当した商品やコンセプトのコピーライティングがTCC(東京コピーライターズクラブ)最高賞など多数の賞を受賞した新鋭のコピーライターであり、退社後設立したプロダクションが【écriture】。
JR浜松町駅から増上寺方面に徒歩10分。芝大門2丁目の賃貸事務所ビルが立ち並ぶ通りの軒並み高いビルの最上階にオフィスをかまえる。
50坪の広々とした空間にフローリングの床。そして5メートルはあるコンクリートの壁。オフィスビルでは珍しいメゾネットタイプで、1階に各社員の個人デスクと2階は長いデスクのミーティングスペース、映写室、暗室、仮眠室、フリースペースがある。
そのプロダクションの制作部に所属する亜望は、村沢と同じ大手広告代理店のOLだった時代はクリエイティブ事業局の営業管理部に配属されていた。
亜望の大学時代はいわゆる劣等生だった。
そんな亜望でも、就職活動だけは首尾良くやった。広告代理店の就職面接で「好きな小説家はだれですか」と訊かれ、亜望は、浅黒い肌をしたやせ細った面接官にたいして、「村上春樹とレイモンド・カーヴァーです」と答えた。今考えてみても人を食ったような答だが、結果はまさかの採用だった。2人の名前を言うだけで一目置かれる時代だった。
今日は金曜日。朝鏡をみると、特にその日は自分がいかに男向きではない都合でできているかを考えた。夜更かしをしたせいで肌荒れと目のクマが救いようのないものとなって鎮座している。化粧ポーチから固形タイプのコンシーラーを少量だし、いつも以上に念入りに塗り、仕上げにフェイスパウダーを顔全体に叩く。思わず粉で咽る。これで、今日1日の化粧室への回数が増える覚悟をして出社してきた。
腰まで届く程度の長さの髪。海外ブランド靴のオーダーメイド会で思いきって10万近くしたが、コスパは悪くない5センチヒールをはくと日本人の女性の平均身長よりもだいぶ高くなる身長。3日絶食しないとはけるジーンズが少ない。夜中にコニャックのはいたチョコをダースまるごと食べても、20のときから肌寒い日のときの家着が変わっていない。それらのどれも未来永劫気にはしない。そんな思考も男向きではないことが、亜望はよく分かっていた。
「久しぶり」
肩を叩かれた。ハッと我に返る。急いで襟を正した。
藤島薫が立っていた。夏を先取りするかのようなネイビーのトム・ブラウンのシャツワンピースに同色のレースアップシューズを合わせている。アシンメトリーな片方のフロント部分が編み込まれたヘアスタイルで年齢よりおそらく5つは下に見える。
亜望は広告一課、藤島はデザイン一課所属で番組CMやラジオ、インターネットのサイトデザインを担当する。他にも立体ディスプレイデザインを担当するデザイン二課があり、藤島は会社のグラフィックデザイナーたちを統括するアートディレクター。亜望のようなコピーライターと常にチームを組んでクライアントのヒアリングを汲み取った企業広告や商品の広告のラフをいくつもつくる能力がある。
村沢の強い口説きで藤島は【écriture】にグラフィックデザイナーとして中途入社した。
コピー案や企画書をスポンサーの要求に応えて提出するとき、コピーライターの文章だけで提案することはまずない。つまり視覚表現案を添えることが求められる。藤島は当時アパレル業界のコピーでは知らない者はいないほど飛ぶ鳥を落とす勢いで名を馳せていた。大手広告代理店に所属する藤島を口説き落とし、自信の会社に引き抜いたことは、当時の業界では「村沢の変」として語り継がれているくらいだ。
2人はお互いの感性を理解しているのか、言い争いを亜望は見たことがない、
《つまらないものですが、お土産です》
「あら、そんなことしなくていいのにと言わなかった」藤島が摩訶不思議なものでも見たような顔をして応える。
《確かに、忘れていました! お口にあわなければ捨てていただいて大丈夫ですので。どうぞ》まとはずれな行動を指摘された気になって、急いで亜望は手を重ねておなかのもとへともっていき、おじぎをしながら修正にかかる。亜望はうまくかわしたつもりだった。
「食べ物を捨てるのはもったいないでしょ」
彼女の追撃の矢は止まなかった。
《おっしゃる通りです。処理はお任せします》
「なに、その人任せは。あなたでどうにかしなさいよ」
《煩わせて申し訳ありませんでした。今日午後に社長がいらっしゃるので、そのときのお菓子としてだしましょうか》となだめると「さしおりそれでよろしく」とようやく無罪放免となった。
《わかりました》
同期入社の連中が自分の夢に酔って辞めていく中、亜望がなんとか人間関係の悩みに首を絞められずに済むのは、ほかならぬと観察力と加減力の賜物だ。
亜望が連休中に溜まっていたメールを処理していると、村沢が到着した。
藤島はすかさず総務の女子に、声にださずに唇を読めとばかりに大きな口を動かして、コーヒーを3人分用意するように指示する。
藤島が村沢と2階への階段を上っていると、「真琴くんも」と呼ばれたので、資料を持って急いで2人の後を追った。
「真琴くん。この前のコピーライティングご苦労だったな」
村沢の言う「この前」というのは、彼の勉強会時々司会などもしてもらっている若手起業家のことだ。
「あれ以来仕事もうまくいっているみたいだ。ホームページのパソコン、スマホ、タブレットのデバイス別でもIMPもクリック数もCVもかなり向上したと連絡がつい昨日あった。彼もイギリスから帰国したらしい」
頑丈な角ばった胸の上にぴたっとジャストサイズのブルーのYシャツで収め、ネイビーの薄いチェック柄のスーツにドットのペイルブルーのネクタイを合わせている。先方の道西エステートコーポレーションの企業のイメージカラーに合わせた仕様だ。
普段、筋肉質の体型のわりに、長細い手足にワイドカラーシャツとブレザーで合わせ、下はジーンズというカジュアルな格好で出社してくることの多い村沢の「本番」へのこだわりには舌を巻く。ビジネスバックはエルメスのブリーフケース。普段はスマイソンを使用するが、交渉の入り口ではエルメスを必ず使用する。常にパソコンとノートと鉛筆と鉛筆削りしかはいってない。
鉛筆はドイツのステッドラー社のものときまっており、会社の社員全員に支給されるものだ。が、いまどき鉛筆でコピーを考える人間は社長以外にはいない。他の備品たちも日本製のものはほとんどないので、常に備品切れしないように亜望は監視しているくらいだ。
そして、その鉛筆をみるたびに苦い思い出がよみがえる―。
前の会社から引き抜かれるとき、土曜日の在宅で仕事中、大切な書類を会社に忘れてきてしまったことを思い出して、お昼前に出社した日のことだった。足音に気づいて村沢が振り向く。
「真琴くんか、休日出勤とはそんなに仕事はたいへんなのか」
資料置き場で何やら調べ物をしていたのか、手にフォルダーを持っている。
「そうだ、ちょうどいい。この前の続きをしよう」
亜望の動揺をよそに、社長は原稿用紙とステッドラー社の鉛筆を何もいわずに亜望の机の上においた。「90分時間をくれ」と突然言った。
「その分の残業代としてわたしが上司に指示をしておくし、必ず損はさせない」
今も愛用しているタグ・ホイヤー社の「カレラ」の文字盤を見ながら、いつものようにまばたきが多かった。亜望は「幸福」という題名の600字以内の作文を命じられた。
高校受験のときのように紙とペンだけがひろがっていた。顔を上げると起動したはずのパソコンがオフになっていた―。
《お役に立ててたいへんうれしいです》
亜望はコーヒーをお盆から受け取って渡した。
村沢の話す若手起業家のことを、亜望は〈スード〉(英語で〔偽りの、偽の〕の意)と呼ぶ。
とんがり靴。それもありえない反り返り方。学生時代に冬休みに住み込みのアルバイトをしていた長野県白馬村のスキーのジャンプ台を連想させる。 自意識を圧搾機に一定時間かけて、出てきた青黒い油脂を薄くひいたような唇から、赦しもなく弾けるように出てくる言葉の矢雨は、家族愛、学歴、職歴、性格、メールアドレスから電話番号、全てのSNSのアカウントまで続いた。
亜望は、社交性というものを大学時代に開花させ、ずっと研ぎ澄ませてきた。
ホステスのバイトをしていた頃だ。かわいがってもらった先輩に湊朋美がいた。彼女はそこで生きるしか道がなかった、学歴もなければ経済的援助も見込めない。親戚の場には顔を出せないし、何よりもというわけではなく、彼女は大学院を出ていた。それでも就職難ではなく、過敏性腸症候群、という目に見える異常が認められず、そこまで周りからも心配されずに、逆に精神論で諭される毎日に神経性胃炎を併発して散った。
教育は力を与えるものではなく奪うものだから、大学時代はとにかく遊んでお金を稼いで好きなことをしようと決めたのは朋美の存在が大きい数年前に、ちゃんと「上がった」(お水の世界での結婚の意)というニュースを風の便りで聞いて以来、特に連絡もとっていない。
〈スード〉の会社のキャッチコピーは以下のことに気をつけた。
まず、物静かな語り口のコピーを目指した。完全に女性目線で書き上げた。20代は身体の絶頂期、30代は身体の不調は寝耳に水どころか氷水でであるエネルギーの低下、亜望がもうそろそろ突入する40代はおそらく、それまでのケアがものを言う世代に入っていく。
ファッションでも同じことなのではないかと亜望は考えた。
次に、口調は一人称―あくまで女性の気持ちを代弁するような大それた気持ちでなく、自分の気持ちと女性という生き物との距離の取り方、さらには自分とファッションの取り方を少し脚色して色彩をコーティングしてから、まずラフを持っていった。
「いいんですけど、少し暗いというか、もう少し元気にできませんか? ほら、こうなんていうかもうちょっと軽く前向きに。分かりませんか? こう……」
丸く円を描くような手の動きに何を具体的に読み取ればよかったのだろうか。具体的なことを指摘できない未熟さを、前衛的な芸術家が舞台演出家気取りの抽象的注文で恥を上塗りしてくるようにみえて、滑稽だった。
村沢がコーヒーに砂糖を入れながら喋り出す。
「君も昨日帰ってきたんじゃなかったか」
煙草の臭いがふわっとする。禁煙して2年になる亜望にはさほど不快でもない。このたばこ臭にいやな顔ひとつせず話を聞く姿勢も村沢が目をかける理由のひとつだ。
《そうなんです。パリに行かせていただいていました」
「藤島さんが話していたからね」
日本を発つ前に休暇届の際にいつ帰ってくるかはもちろん報告の義務があるので別段不思議はないことだった。
「娘にも君みたいな女性になってもらいたいもんだな。愛嬌がなく調和を知らないからね」
と、その後、仕事の話と話の間に娘の愚痴が30分ぐらい続いた
《ひとり娘だったらなおさらですよね。いくら常に業績をあげている社長も、あまり顔には出せないので、娘さんもたぶん気づかないんでしょうね」
「社長、そろそろ。でないと間に合いません。もう下にタクシーはわたしがまたせてありますので」と藤島が割り込んだ。
村沢は瞳を右上に2秒ほど止まって、何かを思い出すように再び喋り始めた。
「わたしの話にいつもつきあってくれてすまないな、真琴くん。いや……親父がよくおれをホステスのいる店に昔連れて行ってもんだから、いやなとこ似るんだろうな」
語末で同意を求めるように藤島の方に目を向けた。
「そ、そうですね」スケジュール帳を閉じて、藤島は一瞬鼻白む表情をみせたあとすぐに、左手で右側の再度の髪を右耳に静かにかけて整えながら不器用に微笑んだ。一緒に笑ってはいるが、一瞬にして笑顔が消滅する。
村沢は九州熊本の出身で母親を幼い時に亡くしている。父親がたたき上げで当時和服の訪問販売のビジネスで仕事の裾野を広げ、遠方まで出張にいくことが度々あったらしい。父親譲りの機会への全力投げ込み(フルスロットル)は、文才よりもむしろ力が込められているのではないかと、時々末恐ろしさを感じることが亜望はあった。
村沢はコーヒーを途中まで飲んでから立ち上がった。
「その前にきちんとなにか食べていこう。こういう季節だと食欲も沸かないもんだが、ちゃんと気持ち悪くても食べておいた方がいい。うなぎを食べに行こう」
亜望と藤島は微笑んで同意を示す。村沢は部屋を出ると、まっすぐに「コーヒーうまかったぞ」と言葉をかけた。
亜望は資料を集め、念のため一度トイレで化粧をチェックに向かう。蛇口のある方の大きな鏡だと誰に視られるか分からないので、個室に入ってコンパクトミラーを開く。
子供の時に、父親にテクマクマヤコンコンパクトを買ってもらってからというのも、とにかく呪文を念じ続けた。ほかの子供たちは遊びの一環としていたわいもない魔法使い遊びに講じていただけだが、亜望は半ば真剣だった。自分でない誰かになりたくて、いつか神通力のようなものが宿るのではないかと般若心経を唱える僧侶のように毎日欠かさずトイレで念じ続けた。
(ラミパスラミパス、ルルルル~)呪文をしょうがなく胸の中で唱える。ヨッコイショ、という呪文を胸の中で唱えて、外に出た。
外は故郷とは違い生温く偽善的な風が流れている。東京の四角い空の上空の雲の流れは早かった。
3
泰平は昼過ぎに起きるとパソコンと携帯電話2つとデバイスをバッグにいれた。村沢の会社に行く準備にかかる。イギリスのお土産も含め、さらには村沢の部下の真琴亜望にお土産を持っていくためだ―バーバリーのスカーフ。
ウォークインクローゼットから、チャコールグレーのストライプのジャケットと無地のピンクのシャツを取り出す。それからストレッチタイプのベージュのチノパンも。素鏡を見るまでもない。玄関に行き、革素材の黒のスニーカーを履いた。
会社員時代は考えられなかった。会社内のドレスコードで、役職のついていない平社員は無地のスーツとシャツ、そして靴は黒のストレートチップと決まっていた。一度、ウィングチップの靴を履いていったときに、上司のねちねちとした注意は2時間にわたったのを、昨日のことのように覚えている。
「ごぶさたしております!」
村沢たち3人がタクシーに乗り込もうとすると、勢いよく遠くから規格外の満面の笑みを従えて泰平は近寄った。
「おお、森川くんか」
「もし、ご都合悪ければ出直しますが――」
「今からちょうど出かけるところだったんだが。君も一緒にランチにいくか」
「すみません。お伴させていただきます!」
泰平は藤島と亜望と一生に後部座席に乗り込んだ―。
タクシーの狭い車内はすぐに、二人の香水で満たされた。泰平と村沢は同じコロンを使っている。泰平の方が「メンター」とあがめる村沢の香水をリサーチして真似たのだ。ボンド・ナンバーナインのB9オードパルファム。圧倒的な香りを放つサンダルウッドやムスクのベースは男の権力を演出するのには最適だ。自分には不釣り合いな気もしたが、取締役社長であることには変わりはないと開き直ってからは、毎日首元と足首につけている。さらに一週間に一回はクローゼットにスプレーしている。
「そうだ、真琴さん! 本当にありがとうございました。これロンドンのおみやげです」
ぎろりと彼女が隣を窺った気がしたが、気に留めなかった。
結局、ランチはほとんど泰平が司会者かといわんばかりに空気を飲んだ。食事中に2度携帯電話を持って立ち上がり、最後には店員に「記念」写真まで取らせる独壇場だった。
去年の秋。ちょうど北東の冷たい気流が都会に流れ込み秋霖が十一月初旬にようやく終わり紅葉前線にバトンタッチされた頃、2人は会社の会議室で初顔合わせした。
仕組んだのは村沢だった。
出勤する途中の目抜き通りに植えられたカエデの葉も落ち着いた黒光のする赤に変身しており、行き交う人々もマフラーが目立っていた。明け方の最低気温が10度より低くなったのだが、昼頃には、都心は高気圧に覆われよく晴れていた。
亜望の故郷の岡山県の津山盆地は、秋から初冬にかけて濃い霧がかかりやすく霧の名所とされている。母の故郷の熊本県人吉も同じような地形で、濃い霧を見る度に母は朝から機嫌が悪かったのを、歩きながら亜望は思い出していた。
会社に到着し、入り口の右側にあるハンガースタンドに、ドゥロワーの深みのあるイエロートーンのコートを掛け、自分のデスクに到着すると、すでに泰平は会議室で村沢と談笑していた。
プロジェクトで初めての結果をだしたのは少なからぬこの泰平だった。
胡乱の言を並べながら社交性を過剰演出させた笑顔は、一度嫌悪感を覚えたら忘れることはできない。一言で言い表せば、〈自分の作り上げたレゴブロックの世界でぶらぶらとぶら下がりを決め込んだ男〉だ。
「真琴くん、こちらが勉強会で非常に熱心な森川くんだ」
2人はお互いの進入領域を探るように全身を隈無くスキャンした後で軽い会釈をした。
亜望は素早くラップトップパソコンをテーブルに出す。
《宜しくお願い致します。お力になれるかどうか最大限ご要望にお応えいたしますので、おっしゃってください。クライアントさまに助けられることも多いぐらいの人間ですが、精一杯させていただきます》
「じゃあ、あとは打ち合わせたのむよ」
村沢はそう言うと会議室を出て行った。
「なかなかプリミティブな色の靴ですね。すごく良く似合ってますよ」
泰平の一言目はファッションに関しての褒め言葉だった。軽く笑ったあと、ノートパソコンを出してインタビューにとりかかる。
《まず、会社の方針についておきかせいただけないでしょうか》
「センス、ヴィジュアライズ、そしてクリエーション、最後にハッピネス……これがわたしの経営方針です。人間臭いと思われるかもしれないけど、僕は頭も良くないし、一流大学出ているわけでもないので、人間性で勝負するしかないんですよね」
自分でハードルを上げる人間に、そのハードルを越えられる人間と遭遇したことが亜望はない。おそらく一生ありえないとどこかで確信している。
「いまわたし達の生活には多くのスタイリストが欠かせません。わたし達の生活空間はそれだけ毎日広がっていき、スタイリストってものすごく重要だと思うんっすよ。家具でも、フードでも、ブライダルでも」
どうやら消化に時間がかかりそうな人間だと感じた。野放図に話す内容をかいつまむと、苦労話だった。
《森川さんはSNSにも注力されていますね、なぜですか》
主導権を握られまいと誘導する質問を投げた。
すると彼は主役が脇役に控室で話し掛けるような調子で笑った。さらにジャケットの前を4本の指でつまんでぱちんと弾く仕草が癇に障った。
「VMDの一環でもありますね」
とにかく横文字を遣いたがる男だ。
「そちらには業界で有名なアートディレクターの藤島さんもいらっしゃいますよね」
声が少しうわずっているところから察するに、どちらかという藤島のスキルに期待しているとみえなくもない。そもそもいまどき視覚化が優先の広告業界において、コピーライターの役割は見直されているご時世なので、亜望は質問には別段腹も立たなかった。
相手のことをもっと深く知りたい、という気持ちが決然と萎えてくる。これ以上萎えてきては仕事にならないと、背筋を伸ばし直し、ジャンヴィトロッシのくすんだブルーのパンプスのつま先をコツンと一回床を蹴った。
「そこで、今回コピーライティングでは、会社の社名でもあります《女性に火をつける!》みたいな感じで。こう、自信をなくした女性というか疲れている女性をなんとかファッションに目を向けさせてあげたいんです」
ファッションと自己効力感は比例する。そして、一度褒められて気分が高揚すると、さ脳の報酬システムが機能する。よって、リピーターも増える。間違ってはいない気がする。
やっと話が終わったかと思うと、「ここにわたしのポーとフォリオをお持ちしました」と言って亜望の前に差し出した。結局、最後までこのポートフォリオには目を通さなかったのだが……。
「目標は年商1億にまずのせることです。集客数を前月比120%にはもっていきたい」
目の色はずっと輝いていたが、野放しという印象だった。
「マックスで幸せになって欲しいと本気で思ってます。クライアントの方が喜んでくれるのならほんとになんだってします」
まず目の前のわたしが嫌いな男性のタイプをリサーチして出直してこい、と密かに意地悪い笑顔を胸の中で浮かべた。
その後もしばらく〈スード〉のほかほかと湯気がでて蒸し暑い演説は続いた――。彼の手の動きは熾烈をきわめていた。直線的に動くかと思ったら弧を描くように手の平が帰り、指で空中のある打点をうつようにしたかとおもえば、それをなぞって沈めるかのような、指揮者の物真似をする。
《自分の身だしなみがなってないと、そういう全力を尽くそうというモチベーションもあがらないですよねーたしかに》
「その通りです!」と、クイズ番組の司会者のような歓心を買おうとするような言い方だ。
《どうもありがとうございました》
予定の終了時間を数十分過ぎている。
《よく理解できました。早速ご提案を一週間以内にさせていただきます》
パソコンの画面を自分の方に戻してシャットダウンしようとした。彼も時計をみて立ち上がろうとする。
《そう言えば、イギリスに今度行かれるとか》
「ええ、同伴、というか一緒にコーディネートにいきます」
《いいですねー。マッキントッシュの店は分かりますか》
一番好きなブランドだ。
「マックですか。えっと、アップルストアはイギリスで必ずどこかあると思いますけど、自分もアップル使っているので、調べとかないとまずいですよね。いいアドバイスありがとうございます!」
ただ笑顔で出口の扉を開けた。
〈スード〉の背中を見ながら思い出す。大学時代一度だけ初回の講義に出席した「マスメディア論」という講義を思い出した。あの講義が、史上最低なぐらい妙味に乏しく、何の役にも立たず、時間つぶしにもならないほど気持ち悪くさせるものだった。まさかそれを更新するものがあろうとは夢に思わなかった。
第3章 月と魔術師:The Moon and The Magician
1
岡山県総社市の中では新興住宅街と呼ばれる地域に亜望の生家がある。亜望が生まれた年と同じなので築39年ということになる。亜望は長女として、瀬戸内海式気候の地域で育った。中国地方南東部に位置する岡山県は、全人口の半分近くの日本人が四国と間違うほど、名前ではなく地理的な知名度の低さは有名だ。亜望が育った総社市は、岡山空港からでも岡山駅からでもタクシーで約30分というまずまず都市化が進んだ市であり、そこまでの不便を生活で感じることはなかったものの、一周見渡しても山しか見えないところが玉に瑕だった。
亜望が岡山市内の公立高校の英語科に入学して半年ほどたち、夏休みに入る直前のある日の夕方時分に事件は起きた。
父が会社の定時よりも早く帰宅すると、大袈裟なくらいに母の美沙世は、洗濯物を両腕一杯に抱えたまま驚いた。少しの間、驚きに興じていると、父は何も言わずに、テーブルに座る。急いで母は少し早めの晩酌用の瓶ビールと鰆のいり焼きを出した。目の前に出されたままいつものように無言で夕刊を開く。数ページパラパラとめくると、「そこに座らんね」と台所にいる母に声をかけた。母を座らせると、しばらく口を真一文字にして考え始めた。外では天照雨が地面をたたいていた。
あまりに長い時間そうしていたので、たまらず「食事の支度をします」と席を立とうとしたその瞬間、ぽろっと言った。
「気鬱病と医者に診断されたがー。今度おめぇを連れていかんと。説明を聞いてもらいたいらしいじゃ」
「気鬱病? なんですか、それは」
「詳しいことはわからんが、別にたいした病気じゃない。心の病だと。とにかく家族が話を聴かないといかんらしいから、おめぇ一緒についてきてくれ。来週の火曜日の朝に行く」
美沙世は一瞬返答を言い澱んだあと、方向転換して一笑に付そうとした。「心の病」という言葉が幼稚に聞こえたに違いない。
それからが不幸の連鎖だった。不幸と呼ぶにはあまりに度を越えている。気鬱病が深刻な鬱病へと移行し、やがて認知症へと看板を変えていった。
今年75歳を迎えた隆太郎は約3年前に大学病院で【レビー小体型認知症】と診断されている。もともと女性よりも男性の方が2倍発症率が高いとされる認知症の一種だ。しかも、アルツハイマー病より進行が早い。
一方、飛び跳ねた髪の毛のような差支えをも解消することさえも厭うような人が亜望の母親の美沙世だ。それに加えて幼児性が成長しても抜けなかった母は、もちろん娘どころか隆太郎の面倒をみるほどの母性も自己犠牲の感覚も元来持ち合わせたことがなかった。それゆえに、介護のストレスからアルコール中毒になり、介護に疲れた母は1年前、凍った路で足を滑らせて入院後、次から次へと併せて病が発覚し、3か月後には病院で亡くなった。
亜望は母親が死んだ、あの蒸し暑い夏の日のときのことを片時も忘れたことがない。
その病室での悪態の矢が、今でも胸から抜き取れない。
「この世は不公平たい―神様なんておらん。あんたがそれば一番よく分かっとろうが。分かっとろう」
亜望は今でも何のことなのか分からない。
「金があれば幸せになれたろうし、なかったけん、せんでもいいはずの苦労ばしてきた……わたしに生きる意味なんてなかったとよ。あんたもそうたい。わたしが産んでやったけん、分かるばってん……あんた幸せになんてなったら……罰があたるよ」
苦しそうに咳き込みながら言い終わると、「これで、おむつば買ってきて」と言われ、当時は珍しい自動販売機の婦人用のおむつのSサイズを購入を亜望は頼まれた。言われたとおり自販機の前で札を入れようと悪戦苦闘していると、ふっと気配がした。背中が重くなる。急に廊下が慌ただしくなった。病室が地震のように横揺れする。サンダルの音が短い間隔で廊下に響いた。
最後の心温まる言葉を交わすまでもなく、母は逝った。
亜望は、自然と涙はでずに、虚無感がどっと押し寄せてそこに膝からついた。ショックで膝から崩れ落ちたと思われたので、周りの看護師が椅子へと擡げて座らせてくれた。が、欲しがっていた虚無感におそわれて力が抜け切っただけだった。「やっと死んでくれた」というのが偽りのない気持ちだった。そして、その気持ちが母娘関係の証明書のようなものだった。
しかし、血がつながった親子が初めて言葉を介さずに意思疎通に成功したということなのか、チっという大き目な舌打ちが―冷静に考えれば聴こえるはずはないのだが―亜望の耳には確かに聞こえた。プラスチックを燃やしたときの臭いがした。母からの容赦ない最期の厭み以外の何ものでもなかった。決定的な、救いようのない、それでいて安堵感を与えるような音。幸福との離別の鐘の音だった。
「幸運を祈る」―隆太郎の言葉の言霊はどうやら自分を守ってくれるどころか呪っているのかもしれない、とこのとき初めて強く感じた。
2
東京都千代田大手町の1丁目の四叉路を神田橋方面に3分ほど歩いたところに、道西エステートコーポレーションの自社ビルディングがある。
戦後まもなく創業。その後、不動産の売買、仲介にはじまり余暇施設の運営を経て、現在は従業員数600名を超え、連結では7000人を超える社員を抱える。東京を代表する一大オフィスビル開発、賃貸、管理を行う会社だ。
亜望たち一行は、ビルの30階でエレベーターを降り、左に20メートルほど歩いた中会議室のL字型のロングテーブルの一辺の後ろで立っている。ふと窓の外をみると、オフィスから眺める外は狐の嫁入りの翠雨が走っていた。
「ご挨拶よろしいでしょうか」
その男は、昨年決算期の改編により、これまであった宣伝部という部署を総務と合併後、の総務広告一課部長を任せられている浅倉実と名乗った。
村沢と藤島に挟まれるような形で亜望が真ん中に座った。
「早速ですが、まず今回の規模をご説明させていただきます」浅倉が丁寧な言葉で喋り始めた。
道西エステートコーポレーションは、浦和駅周辺の再開発にむけて、エリアで不足するところの大規模オフィスやグローバル対応の施設群を計画している。さらに、埼玉にも人口を流すことで、東京の行き過ぎた過密を解消する狙いもあり、空港や駅から人口を流してインバウンドの拡大も期待している。
「――アジアからの訪日外国人の数は急増を続け、海外投資家の呼び込みにも力を入れ、グループを挙げて国内市場の活性化に努めています――」
ちらりと銀色のテーブルに似つかわしくない物体が視界に入る。彼は眉間に皺を寄せる。亜望はクライアントが求める方向を完全に把握するために、事前にボイスレコーダーで録音することの許可を得ている。浅倉が咳払いをしてから再び話に戻る。
「英国式庭園造りには他社の協賛も仰ぎます。そこに、無農薬農家の方々や彫刻家やパブリックアーティストも国内国外がら募集を行う予定です。景観や環境を体感をできて普通ではない毎日が始まる。そのようなわくわくするようなコピーライティングをいただきたいんです」
熱が伝わってくる口調だ。亜望も自然と力が入ってくるのを感じる。ついつい肩に力が入って、何度かメモするシャープペンの芯がぽきっと折れた。しかし不安の方がまだ勝っている。
「こちらの真琴をリーダーとしてご提案をすぐにさせていただきます」
商品やサービスのコピーは今までやってはきたものの、会社全体が会社のメッセージを依頼するのはコピーライターにとっては花形中の花形の仕事だ。誰しもがこの道をとおるまでに、数十年以上かかるといわれる。しかも、通常競合コンペで勝ち抜かなければいけないのだ。それを、たかが留学仲間だというだけで村沢を指名する村沢の人を引きつける魅力とはいったいどれほど畏怖すべきものなのか想像もしえなかった。
「く、しゅん」オフィスに入った瞬間からどうも鼻と相性が合わない。必死に鼻水が落ちるのと戦っていた。鼻をすするたびに、頭痛がしてくる。
「いいタイミングでくしゃみしたな。どこの国の返答の仕方なんだ」
村沢のフォローのおかげで、亜望は一同に目をくべて会釈する。他の2人が顔を見合わせて少し騒めく。
「こちらが真琴さんですか――」彼は腑に落ちない気持ちを眉に潜ませた。
「いや、イメージしていたのはもっと、こうぎらぎらした方と言うかキャリアウーマンという感じの女性でしたが、雰囲気おとなしそうで、あまり気取ってない感じがいいですね。弊社の今度の複合施設ビルの建設のコンセプトと合います」
無理やり褒められているような気もしたが、とりあえず笑顔で応対する。
「分かりました。大賛成です。広告とは基本的には能動的にはだれも接触はしませんからね。気取らないからこそ目を引く。そのビルを利用する自分自身の、家族の、恋人の、それぞれのイメージが簡単に持てるようなボディコピーを目指します」村沢の言葉にも熱がこもっている。
緊張した面持ちで浅倉が「しかし」と言った。
「いまさらコピーライティング、というのが正直な気持ちなんです」
驚いた様子もない村沢は同意を示そうと大きく肯いた。
「SNSやインターネットを利用したITマーケティングのプロにコンサルしたほうが数倍結果が出そうだという意見も多い中、もっとも人間的な手法に今回はかけてみたいんです」
浅倉は視線を亜望に移した。
「これまで、真琴さんが担当されてきたコピーどれもすばらしかった! 製薬会社や商社、医療機器メーカーなど、ゆっくり語りかけられているようで、親密さがどの文章にあり、小手先の器用さで化粧をした文章ではなく、素材で勝負してくるあたりの文章の配置が秀逸でした。現実的で嘘が少ない。特に、アレがよかったですね――介護付有料老人ホームのコピーです」
亜望の胸は思わず高鳴った
「《いのちは生み出すより、育てる方がはやい、そして老後はまたゆっくり生み出したい》でしたよね」
亜望は恥ずかしそうに頷く。
「あのボディコピーの物語が非常に感動しました」浅倉は、亜望の広告をみて、自分の母親を老人ホームに預けることを決めた。仕事柄、マーケティングとはいわば「欺す」ことだと心得ているはずなのに、そんな一般人のよう対応が彼の誠実さを象徴している。
「今日のようにミーティングで話をされてから決められたと思うし、あれにオッケーサインを出すと言うことは、おそらくそんなに酷くない老人ホームだとも思えました。あそこに時々息子たちを連れて行きますが、息子たちに母は色々な話を聴かせるんですね。まさに、ゆっくり何かを生み出すように。紡ぐように……少々話がずれました」
彼は亜望に向かって微笑んだ。亜望の視界はみるみるうちに歪んでくる。涙が頬を伝っていくのも厭わないほどに聞き入れていた。藤島がすぐに気づいてうやうやしくハンカチを差し出す。
《本当にありがとうございます》
「資料だけでは分からない御社の思想がクリアになりました。貴重なお時間、誠にありがとうございました。早速ラフにとりかかり1週間以内に提出させていただきます」村沢が亜望の代わりに締めの挨拶をした。「最後によろしいでしょうか」と村沢が喋り始めると浅倉が立ち上がる隣の2人を制するように手をあげた。
「こういうことを言うと驚かれるかもしれないし、もしかしたら常識から逸脱しているかもしれません」と、前置きを十分に置いてから続ける。
「企業ブランドを前面に打ち出すという特命を司っている委託になります。こちらの真琴ですが、ご不明な点はできる限りで構いませんのでEメールでやりとりさせて頂いて宜しいでしょうか」
そう言うと、村沢は頑丈な体躯を折り曲げて慇懃に頭を垂れた。一同はお互い目だけで会話しながら村沢と亜望を交互にみた。
「あ、真琴さん!」
建物の正面玄関まで3人が差しかかったところで浅倉が声をかけた。振り返った二人につられて遅れて振り向いた亜望は2人を先に促した。
「すいません……」
表情に雲がかかっている。早速船出したプロジェクトがもう難破だろうか、と不安が一瞬広がった。なぜ謝られるかそもそもわからないが、とりあえず笑顔を作る。
「わたくし、実は、先ほど、話をした時から気になっていたことがありまして」
《何ですか》
急いでバックからペンとメモ帳を取り出す。
「母からよく聞いていたのですが……」
予想だにしない登場人物が出てきたので亜望は少し面食らった。
「母は若いとき、父と結婚した当時、正確に言えばずっと前からそうなんですが、卵巣膿腫でした」
亜望の顔の筋肉が固まった。
「やはり、ですか」
心臓が止まりそうになった。生唾を飲み込む。
「真琴さんお痩せになっているのに、若干下腹部だけ膨れていますね。座っているときに下腹部にずっと左手を置いていた」
とりあえずペンを走らせて仕事の話を聞いているふりをした。
「――最初はご妊娠かとも思いましたが……」
太字で【妊婦にもやさしい街づくり】とペンを走らせる。
「あの老人ホームのコピーの言葉の選択が腑に落ちたんですよ」
相手の洞察力に感嘆するべきか、プライベートなことを詮索されていることに怒りをぶつけるべきか困惑した。どちらにしても、恥ずかしさで頬が紅潮していることに変わりはなかった。
「きっと命に執着してなさそうで、こだわっている? そういう人が考えたんだと。わたくしの悪い癖なんです」
言い終わると、ぽりぽりと頭を掻いて一笑した。
《癖》とペンを走らせる。自分でも何をしているのかわからない。動揺は動揺を越え、心底の薄氷が割れかけている。
「どうでもいいことを深く考え込みすぎる癖です」
反対に彼は自分が何を言っているのかをちゃんと分かっている。それでいて判断を託すような口調なのだ。
「―よくいろいろな出来事に意味を見い出そうとするんです。世の中のあらゆる細部に神が宿っていると信じています。そして、その点と点をつなげていく癖があって。よく同期からも想像力が豊かすぎると揶揄されていたのですが……これは、わたくしが話さなければいけないのでないかと……そうしなければ神の怒りを買うのではないかと。すいません、少々後半はひかれるかと思いますが」
胸の内を見透かしたような目をして言った。
《いえ……そんなことは――》
バッグの中身を想像する。御守りが何種類も入れてあるポーチがある。伊勢神宮、出雲大社、晴明神社、厳島神社、さらには住吉大社の石まで入っているのだ。スピリチュアルな力を信じていないわけでない。すがれる物には全部すがる。
「すみません。話が長くなって」
遠くの村沢たちを横目で見て、深々と一礼をする。
「それで、母は、わたくしを産んでいるので、ちなみに兄弟があと2人下にいます」
何を言わんとするのか、亜望にもだんだんと想像がついてきた。
「母の話です。『魔力で治療してもらった』と言っていたんですよ。『病院の薬?』と聞くと、首をふるだけで……結局、誰の施術を受けたのかは答えなかったんですが。たったひとつだけ思いだしたことがあるんです」
亜望も村沢たちを気にして作り笑顔で肯く。
「ある人物に、治療してもらったと、言ってました」
興味を持たれているかどうか確認するために、覗き見るように亜望の目を見つめる。
「その人物は、医者ではないようなのです。代々、その特別な治療をしてくれるらしく、気になって以来ネットで調べたんですが、まったくそのような情報にはヒットしませんでした。魔力というので、普通の薬とか手術ではないようです。鍼師とか、そういう東洋医療の先生かもしれませんね……」
曖昧模糊としていて何の参考になるのか、間違った期待を抱くことだけは自分の哲学でしたくはなかった。
何事もなかったかのように笑顔で《お気遣いありがとうございます。たいへん参考になりました》とだけ亜望は告げた。2人の後を駆け足で追おうとした。
「最後に!」
浅倉が大きな声で遠ざかる亜望を呼んだ。気配を感じて振り返る。
「母が言ってました。『神に最も愛されたが永遠の罰に処せられた存在が目の前に現れた』と。それはたしか昭和47年……1972年だと言ってました。オカルト的ですが、そんなことを言ってましたので―」
神経質そうな引き笑いで雰囲気を和らげようとしている。行きかう人々が何事かと2人を訝しむような目で見つめている。彼は、柔らかい調子で、お節介に聞こえない、人の心にそっと足跡をつけるような表情でお辞儀をした。亜望は疑心を少しだけ捨てようと思った。
村沢がハイタッチの構えを見せる。参考資料の入った紙袋を手から肘の関節にところまでスライドさせて、亜望は応えた。地面はまだ濡れている。
「これで今後独立できるほどの実力をもつか、そうでないかが分かる仕事だ」
村沢は、過去の自分の経験をなぞるように、首を上下に何度も振りながら、自分で言い聞かせるように言った。
《社長、コーポレートメッセージとは正直驚きでした》
「話してなかった。だって、面白くないだろ」
至極理にかなっているだろ? といいたげだ。出し抜かれた亜望は釈然としない。
「事前に知ってしまえば、ネタバレになってしまって何も面白くない」
彼の普段からの哲学のひとつだ。今の世の中情報の伝達速度が早い。生の感情を抱くことが難しくなっている。オンタイムで喜んだり、泣いたり、ショックを受けたり、うれし涙を流したりなんていう当たり前の感情を、いまの世の中が忘れつつあることを常に危惧している。
「真琴くんの驚きも良い例だ」ちらりと藤島に同意を求める視線を投げる。「それは、純度100%の裸のままの感情だからな。そういう感情をちゃんと生のまま保存して、読んでくれる人間がそのまますぐに解凍できてしまうような―そんな鮮度みたいなものが、言葉には必要だ」
沈黙を挟んで肯いた。
「今回のメッセージを読むのは商品を買う人間だけではないだろ?」
《他に誰かいるのですか》
彼はおもしろそうに黙った。
「決まってるでしょ、ここの社員よ」と藤島が割り込む。
「その通り」
「コーポレートメッセージは社訓より大事よ」
藤島は背筋をピンと伸ばして話す。聴いている亜望は村沢のときより緊張を強いられる。「社員は自分の会社の社訓にプライドをそこまで感じることができないが、自分の会社が外にむけてどういうメッセージを放っているかは、意外に気にしてるものだ」村沢は目を光らせて言った。
いわゆる対外的な自社ブランドの打ち出し方がダサかったり、まったく実情に裏打ちされない偽善的な言葉には意味がないことだと亜望は理解した。
仕事は自分に権限がある限りたのしめる。
揺らぎ始めていたものが胸裏によみがえってきた。にもかかわらず、まだ恐怖心の方が強い。2人を交互に視る。
《ご期待に添えなくて申し訳ないんですが、まだ早いかと思います》
主張するには躊躇したが、予想していたよりスムーズに表現できた。
先の自分の安定した生活が脅かされることのほうが怖い。クビを宣告されることはなくても、自主退職に圧力的にもっていかれるのだけは、もうこりごりだった。
「勘違いしてるようだな。『まだ早い』なんて、この案件を見逃したらこの次はない」
村沢が不愉快な声で満足そうに眺めている。
「いつだって幸福の前髪、不幸の尾ひれ、というところだ。何でも全然自分が準備してないときにやってくる」
準備が整っていないという言い訳をひっこめ亜望は了解の旨を伝えた。
「藤島くんも手伝ってくれる。明日返事を聞かせてくれてもかまわない」
彼は態度を軟化させるようにわざと気軽に言った。
「ただし、これだけは請け合う。この仕事でこれまで以上に自分のことが分かることになる」
《どうしてですか》
「これまでは商品をいかに客観的に客層をマーケティングして書けばよかった。いわば、そういう商品自体のコピーというのは『人格』は必要ない。売りたい層に届けば、それが一番だ――」
要は、伝わるか伝わらないかの勝負だ。なるべく多くの層の人間に共感してもらえる感覚をもちあわせていることは自覚している。
「しかしながら、今回の案件は、真琴くんの『人格』が否応なしで出る。しかも、今まで以上に強烈に」
亜望は、浅倉の話を思い出していた。そして、初めて気づいた。自分以外全員に「試されている」ということを。
図星だった。「信頼できる」と言われたときにうれしさと同時に自分のそれこそ『人格』が知られたような―あるいは、犯されたような―ある種のそれを自覚できなかった自分に後悔が募っていた。
赤の他人に自分を詮索されたくないし、知って欲しくもない。自分の『人格』が、自覚しないまま外に飛び出て好き勝手に自分のことを知らしめていく……そんな案件をどんな顔をして臨めばいいのだろう。亜望にはどうしてもすぐに答えの側にはいけなかった。
長くても15文字前後のキャッチフレーズを考えるために、400字詰めの、あの胸を締めつけるが同時に意欲をかきたてられる原稿用紙との対峙する日々が始まることを、静かに覚悟した。
3
東京駅メトロ銀座線・表参道駅から青山通りを東に数分歩くと、村沢早紀のサロンの看板が見えてくる。好立地に立つビルの4階。サロン激戦区の青山でフラッグシップ店を創業して5年になる。今ではJR表参道駅周辺に1店舗、目黒、渋谷、池袋、浜松町、恵比寿、有楽町と合計で8店舗を展開する大盛況をみせていた。
「森川様、本日は2時間のリラックスコースで予約を社長から承っております」
外はバケツをひっくり返したような大雨で、東京の人間全員が雨に制限された言動をしているというのに、受付嬢のヘアスタイルは一点の乱れもない。その輝くようなきめ細かな白い肌に化粧はうっすらとのり、ファンデーションの壊れはどこにもない。泰平は思わず、その白さに息をのんだ。
「すみません。道が混んでるようで、30分前に出先からタクシーに乗ったとは連絡がこちらにあったのですが……申し訳ありません。先にお部屋に通しておくよう言われておりますので。お部屋ご案内いたします」
彼女の後ろの時計に目をやる。
「あいかわらず社長忙しいみたいだね」
「お陰様で村沢は講演後の取材や質問が相次いだようでして――」
ふと、今日は銀座の公民館で講演だったことを思い出した。泰平は3日前に直接メールで知らされていたのを忘れていた。「今日のことだったのか」と内心つぶやく。
後頭部で小さな団子をシュシュで止め、前髪はきっちりと左のサイドに向かって流され左耳の斜め上あたりでピタッと流れてヘアピンで止めている。濃い襟足の遅れ毛がなんとも成熟の一歩手前の瑞々しさの最後の滴を宿した優艶さと共犯している。
泰平は、下の毛を想像していることに気づかれないようになるべく性とは遠い話題を振った。
話を聞きながら泰平は悟られないように桂木早苗という名の受付嬢の顔のパーツを観察する。目は薄めのアイシャドウがアイホールに広めにのっており、一方白のアイシャドウが涙袋にしっかりとのせられており、目尻には濃いブラウンがのっている。そして、黒のアイライナーが太めに目じりの先の下までひかれておりタレ目が際立つ。
「さっきから気になってたんですが、あいかわらずおしゃれですねーそのネクタイすごくかわいいです。憧れなんですよ。ここで働いてる女子たちの間では、森川さんは」
褒められているネクタイは婚約者が選んだ。
それから彼女はダイエットも本やDVDを購入してはすぐ止めること。料理の学校も明日から明日からと先延ばしにしていること。ハーブの苗もすぐ枯らしてしまうことなどを、雲の流れのように緩慢な声調と溶溶たる抑揚の言葉遣いで喋った。「女子力低いんですよね」とぼそっと言ったあと、またくすくす笑う。アニメーションのような笑い方だと、泰平は思った。
自動扉の音がした。早紀が戻ってきたようだ。
――安心している場所と、不満な場所が心の中で衝立もなく混ぜ合わさる。後ろめたいと思いながら自分と向き合っていることにどこかで我慢がならなかった。その困惑が同時に愉快だった……。
じめっとした車内の空気を消し飛ばそうと、早紀は左フロントシートに乗り、冷房をマックスで一気にかける。そのまま駐車場を出た。帰り道、地面に大量に舞い散った青緑の葉を自動車で轢いていくぐらいの罪の意識しか泰平は持ち合わせていなかった。
いつもより落ち着かない。部屋が知らぬ間に違う主に憑依されたように無愛想だ。無地のシャツをベッドの上に脱ぎ捨て、クローゼットにベストを掛ける。香水の残り香を感じると、瞬間的に扉を閉めた。時計の針は10時近くになっていた。
早紀のサロンから自宅まで東名高速道路の連結する首都高速3号渋谷線を利用すれば30分ほどで到着する。それにもかかわらず1時間ほどかかったのは、メフィストの工房を訪れたからだ。住所通り訪れてみたのだが、1階のエレベーターの利用方法がわからなかった。待ってみることにした。が、他にビルに入っているテナントからの人の移動もない。仕方なくしばらしくして2人は車に乗り込んだ。
シャツを洗濯機に放り投げる。洗面所で念入りに顔を洗う。洗顔剤の濃い香料が、もうさっきまでの燻っていた罪の意識をもみ消した。
成功した……鏡に映る男を軽蔑と尊敬のまなざしで見た。よくここまできた。もう少し。まだまだ成功したい。
マンションのインターホンに呼ばれる。午後10時37分。「おまたせ」天真爛漫な笑顔をみた瞬間だった。泰平は一気に服を脱がせた。
レースのカーテンの模様の間から漏れる月明かりが、2人の裸体にまだらな影をつくる。
日付が替わるまで抱きしめたのは、三日月の下の顔のない誰かだ。
4
仕事を引き受けてから1週間が過ぎようとしていた。焦る気持ちが亜望の顔に色濃く出ている。必要以上に緊張しているのか、なかなか言葉が降りてこない。気負い過ぎなのかと思い、リフレッシュの方法に頭を巡らす。
ふと亜望はパソコンを起動した。ココアを一口すすってから、記憶の片隅をたたく。長方形の箱の中に「湊朋美」という文字を打ち込んだ。
スクロールしていくと、朦朧に覚えていた記憶とつながるサイトがある。確証を得るために、しばらくホームページ閲覧する。スタッフとチャットできるようにデザインしてあるので、利用してみることにする。
チャットを送ると、すぐに返事がきた。しかも彼女からだ。
――しばらくやりとりした後、再会の場所と時間が決まった。
寝る前ゆっくりと頭の中で悪戦苦想をする。縁の濃淡で人間関係の期間は定まるとしても、女友達は気を使わなくなったら終わりだというのは、これまでドラマや映画でよく描かれてきたが、唯一誇張していないテーマだと亜望は思う。
男性との密度の濃い関係を女性とも持てることはあまり知られていない。これは意外に重要なことだ。自分を補完してくれるような女性。自分にないものを埋めてくれる女性。そういう友達がいれば男性などは必要ない。
「アートの方だけど、社長に、なるべく競合と似せるようにしてくれって言われてるけど、そうするとわたしの仕事は、ほぼこれで終わったことになるけど、いいかしら」
藤島は有無を言わさぬ態度で報告調で言う。
《えっと、社長が言ったんですか、競合先に似せろって》
挑戦状をたたきつけられた気がした。おそらく、社長の考えでは、アートの違いで逃げるなというメッセージであり、コピーライティングのボディーを含め言葉で勝負しろと言われているに違いない。
もちろん、悲観するべき条件ばかりではない。新聞全頁広告(全15段の大きさ)なので、注目率は高くはなる。しかも、大手のコーポレートなのでなおさらだ。しかし、ホームページや電波やCMに乗るわけでもなければ人気雑誌に掲載されるわけでもない。人々が行きかう駅や電車の中刷り広告でもないのだ。「相手」は印刷媒体の大御所の新聞だ。
新聞を読む人の中では、広告欄に目を止める人は約20%。その中で、キャッチフレーズで目を止める人が同じ20%。さらにその中でボディコピーまで読む人が20%いる。という話を、村沢は道西エステート・コーポレーションからの帰り際話した。ということは、単純計算で、100人分を読んでいて、広告を読む人間は20人。そして、キャッチフレーズを読む人間は4人。ボディコピーを読む人間は0・8人ということになる。つまり100人に1人読むかどうかだ。それなのに……。
イメージを醸造するためのコピーなのに、イメージが陳腐ということは、どんなコピーも陳腐なものとなるということではないのか。
良いデザインから、悪いコピーが生まれることはあっても、悪いイメージから、良いコピーは生まれない―これがこの業界の智識だ。
怒りと焦りがごちゃまぜになった風呂につかっている気分だった。
考えがまとまらず、黙ったままでいると。藤島が苛々しながら話しかける。
「で、これでいいのね? ここに置いとくわよ、あとは、あなたが責任持って進行させてちょうだい。わたしは、これからクライアントの個展に顔出してくるから、今日はそのまま直帰するからね」
《分かりました、お気をつけて》
「言われなくても、気をつけるわよ」
自分の考えに集中を戻す。
アートがかぶるということは、基本的にきれいか爽やかなタレントをイメージにしてもコーポレートの想起率はあがらないことになる。アートはいいとして、とりあえずメッセージを考える。
会社の「今」とは何? 「社会問題」は何?
単純に売るために、商品やサービスの良い面だけをコピーライティングする場合、やり方は3通りある。
1つ目は、単純な論理的アピール。
原因と結果を明確にしながらそのサービスや商品の必要性を相手に納得させていく。必要なことは、論破をされないだけの重要性をアピールすることだ。
コピーライターは「例示」を説明することで「主張」を支持すると思い込んでいる。これは至極当たり前のことで、自分の主張をどういう例が支持してくれるかを考えているわけだから、その例が見つかった瞬間、ほぼ説明不要の例示が出てくることになる。しかしながら、亜望はここで敢えて、必ず「例示」がどのように「支持するべく例示」に見えるかをなるべく説明口調にならない程度に手短に織り込むようにしている。つまり、「例示」は自らを「例示」だとは説明できない。なので、ちゃんと「主張」に寄り添えるかどうかを説明してあげるのだ。要するに、相手に期待していない―だからこそちゃんと分かるように説明する。
2つ目が、国民性へのアピール。
いかに自分が書いてきたことが重要な結果につながるか―そこで拡大して社会問題の解決になることをアピールするわけだ。「人種問題を解決することがどう重要なのか」という問いに対して、それが「人間的に正しいから、倫理にのっとっているから」と至極当たり前の正論を人は嫌う。日本人独自がもつ、集団アイデンティティに訴えかけるようなアピールにつながれば、これが2つ目のアピール方法になる。
たとえば、日本はものづくりの国、アニメの国、健康大国、高度な科学秘術、和食、犯罪率の低さ、などという日本人ならば誰もが誇りに思っていることが、現存している問題により脅かされてしまうというアピールをするのだ。アメリカのようにそこまで憲法というものにたいして日本人は自分との間に結束をみつけられないし、神話や聖書に明るいわけでもない。そうすると団塊の世代、「戦後」というノスタルジックな集団アイデンティティを刺激するような言葉を演出して、アピールする。この2つ目の方法は介護老人ホームのコピーライティングで使用した。
最後の3つ目が森川泰平の会社のコピー。
彼の会社のコピーライティングは相手の感情に訴えかけるようなアピールなので一番楽なものだった。つまり、喜怒哀楽、特に悔しいとかマイナスの感情を代弁することで、相手の感情と同目線に立ち、一気に解決していこうぜ、というような女性ならば誰もが好きなサクセス・ストーリーを先取りするのだ。
《生きる素振りは秘密の空間から
今日の戦略と明日の戦略はきっとちがう
すぐに疲弊れる世代だから
気配り、愛嬌、ごますり、女の武器、いす取りゲーム
―仕事って我慢大会だったっけ?
今日の都合と明日の都合はきっとちがう。
考えすぎて終着駅、決められなく復路小路
これから笑顔おう
ひとりひとりが誰かの英雄だから
わたしの絵柄に空高く舞える翼を
連綿と途切れない女盛り
この瞬間も、ほら、煽って欲しいから
わたしの時間も世界も修理してよ
寵愛されるべき女性たちを喝采の舞台へ》
コーポレートメッセージはこういう合わせ技が、全く下敷きとして持っていないものが必要とされる。分かっていても、自分ができるのは3種類であることに内心苛立つ。仕事がはかどらずまた就業時間が終わった。
1週間後の水曜日。梅雨晴れの日に亜望は朋美と待ち合わせをした。
夕暮れ時。JR日暮里駅で降りてから千駄木方面へ歩く。徒歩5分の谷中銀座は食品・服飾・飲み所、生花店などが立ち並ぶ。長屋のように所狭しと並んでいて、買い物客や仕事終わりのビジネスマンたちで賑わっていた。
濃密に軒先にならぶネオンや提灯は悠長に街と人に溶け込んでいる。清々しい。少しだけ背筋を伸ばして顔をあげて歩きたくなるような街で、風情ある河原や愛嬌たっぷりの太い異性のいい女性の声が響く。
衒いのない大人のカジュアルな店がいいからと、メキシカン料理とテキーラが飲める女子でも入りやすい店を選んだ。
予定時間の5分前に亜望は店の前に到着した。案の定相手が遅れることは分かっていた。
しばらくすると携帯電話のバイブが鳴った
《ごめん、ちょっと待ってて!》
―それから約15分。川の下流の水面近くを直線的に飛んでいる鳥のように、すり足気味で彼女が亜望のもとへ直進してきた。ピンクベージュのひざ下までのスカートがふんわりと跳ねる。
「ごめん!」亜望の目をしっかりとみつめて右手を顔の前に持ってきて、そのあと、同じ言葉を早口で翡翠が鳴くように5回繰り返す。深々と頭を下げると後頭部でくしゃっとした髪の毛先がふわりと揺れた。
亜望は象牙細工のように目を細めてほほ笑んだ。眼輪筋を久しく使っていなかったので、ほほ笑んだあと、少し目じりがつっぱるような違和感は覚えたぐらいだ。
店に入って予約名を店員にみせると、角のテーブルに通された。ビールを2杯注文する。乾杯すると、彼女の首元の細いチェーンのネックレスの王冠のチャームがぷるるんと揺れる。亜望は半分まで一気に飲み干すと、頭の中で賑やかなひらひらした音がなり、下町の仲間入りを果たした。
暑くなってきたようで、彼女は手首をさらにまくった。一層露出部分が増える。
亜望と彼女は2人で仕事で貯金したお金を飛行機が安くなる時期を見計らってヨーロッパ旅行を慣行した。バックパッカーに近い状況だった。というのも、宿はその日泊まれるところに殴り込むように安く泊まっていたからだ。イギリス観光したあとは、そのまま電車とバスを乗り継いで南仏のコートダジュールを観光し、スペインを訪れた。最後にイギリスに戻ってくる。11日間の旅程を汲んだ旅だった。
「ねえ、今度うちのヨガくる? くる? きてみたらどうかな」
少し考えてから亜望は参加する意志を伝えた。
それから1時間後に会はお開きとなった。
日中の雨は止んでいるが微かに霧がかかっている。火照った顔には丁度いい小糠雨だが、次第に無断で丸い鼻先を誰かに撫でられているようでくすぐったい。
マンションのメインエントランスにつづくコリドーを渡りながら携帯をバックから素早く取り出し、画面をみて、指を動かす。《ごちそうさまでした! 今日はすごくたのしかったです! ヨガ、今度絶対行きますね!》
突然、背中で自動扉が起動する音がした。コツンコツンとヒールの音がマンションのフローリングの大理石に響く―。
やがて人の影が大理石の上に落され、亜望の足に被さった。抜け出したくても抜け出せないような物言わぬ影が生きもののように、両くるぶしをつかんで離さない。
少し間をおいてから斜にかまえて振り向く。ゆっくりと目線を両足から影の大元まで上げた。そこには女性が立っていた。
「久しぶり。え、ちょっと前より太ったんじゃない? 皺もちょっと増えたよね」
影が喋っていた。その影は亜望の顔を覗き込むように前傾姿勢になっていた。
低く亜望を支配しようと意気込んで選ばれた声色のように、そこには白石菖、旧姓不動田がまさしく不動明王のように仁王立ちしていた。
相手の名前を胸の中でつぶやくのがやっとだった。驚きからではない。ただただ、波立つ未来が先に見えてしまった気がしたからだ―手足を縛られて、口にはガムテープが貼られて、ただただ自分の中の自分を諦めていく。空気が刃物のように耀りながら、亜望の胸にじりじりと突き刺さった。
話は前の職場に亜望が務めている頃にさかのぼる。季節は梅雨の頃の6月末。
「雨だねーこりゃ、やみそうにないな。昨日より一段と強く降ってる」
白石秀弼がスラックスの裾を前屈みで折り曲げながら言った。
どうしても婚約者のことで相談したいことがあるからと言われたので、渋々付き合ったのはいいが、彼から婚約者の悩みなど一度も出なかった。
《ごちそうさまでした》
「ちょっとこれはまずいから雨宿りしていこう」
《いや、今日は帰ります。ごちそうさまでした》
送り梅雨と酒と既婚者の三拍子が揃ったら、いくら抗ったところで「理性」から伸びた手足は剪伐される。残った肢体は這うように脱皮を図るほかなかった。
――ベッドで眠る男を無視して、鏡の前で最低限のメイクだけして、髪を整えた。ロングスカート風キュロットパンツをベッドの下から拾い上げると、気分がさらに萎えた。普段は着ない白だったからだ。細ピッチのストライプ柄のローン素材を利用したブラウスも白なのは、梅雨が最盛期を迎える時期で、雨の降り方はあまり強くはないが、カビが喜ぶくらいのじめじめした天気が続いたからだった。おかげで、生乾きの臭いが大嫌いな亜望はここ数日ドライ洗濯が停滞していた。
フェイスラインから鎖骨のライン、腕から脇腹のライン。あばらからウエストのラインへと視線を這わせて、自分という恥ずかしい生き物がきちんと白の洋服に隠されているかどうかを確認して部屋を出た。
水の滴る傘はまだ扉に寄りかかって濡れていた。
菖の結婚式は亜望と彼がホテルに行ってから、青山・表参道のゲストハウスで2週間後に執り行われた。純白の高級ウェディングドレスにお色直しは怒涛の3回。ただ食事がすこぶるおいしくなかった。
事件が起こったのは、ゲストハウスの更衣室で普段着に着替えた後、2次会への参加を断り、気分転換に映画を見に行く途中だった。
翌日会社を休んだ。
病院で医者に言われたのは妊娠2ヶ月。間違いなく相手は秀弼だった。
そこからの亜望の決断は早かった。退職届を出し、過去から逃げ出すように仕事を辞めようとした。それ以来タバコをやめていた。毎晩眠れず、転職活動をできる状態ではなかった。中絶するのが当然だが……そんな簡単な決断がなぜか取れない自分を痛めつけるために自分の手をライターの火で炙ってみたり、頭を壁に狂ったようにぶつけてみたりした。
2週間後にようやく意志が決まって病院に行くと、すでに心音は聞こえなかった。
5
スタジオの名前《anela》とはハワイ語で「天使」を意味するらしい。甘酸っぱい体臭と無味無臭の銀イオン。亜望の心臓が脈々と動く―。
「それでは胡座をかきます。座骨を立たせて、頭は天井に糸でひっぱられるようにして、あごは少し引きます。目は斜め遠くを見て、落ち着いたら、徐々に目を閉じていきます」
普段ストレッチをまったくしない肋間神経痛持ちにはこのポーズだけですでに肋骨の辺りに痛みが走った。
着替え終わってロビーで待っていると、朋美がカウンター左のオフィスから出てくる。亜望はバックから財布と銀行通帳を取り出してカウンターで入会申込書に記入した。ひと月で1万円は高いと思ったが、もとをとろうと思って自分のことだから必死に通うだろうと思いなおした。
スタジオのすぐ近くのオープンテラスカフェで、亜望は風にあたりながらアイスコーヒーで一息ついていると、向いあわせに男が座った。亜望は驚く暇がなかったくらいだった。
背格好さえ上々だが、顔は暗いし、笑顔がない。太くて短めの眉も顔の濃さを引き立たせている。どちらかと言えば、西洋的なのに切れ長のしょうゆ顔が亜望の好みだ。ナンパならよそでやって欲しかった。今はそれどころではなく全身に力が入らないのだから。
朋美が遅れてやってくる―。
「あれ、亜望ちゃんこの方とお知り合いだったの」
亜望は躊躇して曖昧に肯いた。
「どこでお知り合いになられたか聞いても大丈夫かしら。なんか、おばさんになると好奇心だけが強くなっちゃってねぇ」2人を愉しそうに見ている。
「むかしはこれでも引っ込み思案だったんですよーおほほほ」
彼に向かって話しかける。
『パリの空港で、パスポートなくして騒いで……周りに人だかりができるぐらいに。それで、怒られて、でも結局パスポートなしでも飛行機に乗れました』
「……亜望ちゃんがそんなミスするなんて珍しい! 盗まれたの」
『でも、どうにかこうにか帰れました』
日本語には欧米の言語と違う主語が必ずしもいらないから、相手は自由に誤解を楽しめる。亜望は否定するのも面倒だったのでほっとくことにした。探偵のように銃の形をした手を静かにあごのところに向かって、何やら好奇心に餌をあげながら彼女が思考している。
「で、どうだった? 初めてのホットヨガは。脂肪も燃焼して、血液の流れもよくなってるし、顔色前よりよくなってるみたいだね」
彼女は丸テーブルの2人の間に座って、ホットのルイボスティーを注文する。
亜望はくすぐったい思いがした。
《ほんと温かったね。冬とか最高だと思ったよ。冷え性も治りそう》
亜望はもともとが貧血で低血圧症なので、冬になると毛布2枚に掛け布団を使う。それでも長時間眠れないこともしばしばだ。
「ストレスとか更年期で女性ホルモンの分泌が乱れる時期があるから、冷え性が月経困難症とか膀胱炎も誘発しちゃう恐れもあるから、なめないほうがいいよねー」
亜望の唇がみるみるうちに色をうしなっていく。末端冷え性の亜望には自力で身体の中に「熱」を作ることが得意ではない。それなのにアイスコーヒーを注文してしまった―。
「やだ……話し過ぎよね」
亜望は微笑んで首を振った。
「帰ったらお風呂ゆっくり入ってね。だんだん自分の中で関節操作をうまくできるようになると身体もスパークしやすくなるんだけど」
手を素早くすりあわせながら彼女の話を聞いていると、彼女はバランスボールや体幹の鍛え方などを愉しそうに話した、彼女は後頭部をみせているので気にはならないが、この2人の会話の間も彼は自然にそこに座っていた。
そのとき彼女の携帯が鳴った。「ちょっとごめん」といって席をたつ。
『さっきから、唇の色が紫になってきてるがもしかして寒いのか』
《あ、大丈夫です》
『君』といって男性の店員をさして、ブランケットを持ってくるように彼が頼んだ。男性の店員はお世辞にも愛想がいいとは言えない態度で応じる。
ブランケットか運ばれてくると、すぐに彼は膝の猫のうえにかけた10段ギアの自転車を乗りながらギアを変えるときに響く不協和音のような音をならして2人のテーブルの周りの空気が揺れた。揺れたの鼓動が揺れたのか区別がつかない。2つの理解できないことが、1度に起こって亜望の頭は無秩序状態に陥る。
『んっ』人差し指を目の前で左右に振った。
《い、いや……何でも》上がったままフリーズしていた片方の眉を静かに元の位置に戻す。
少なくとも話しの流れから自分のためにブランケットをとった、と亜望が予想していたのも無理はない。それにいつから……今まで猫なんていなかったはずだ。
膝の上にひいたブランケットを前足でモミモミしている。高級なじゅうたんでも触るようにして彼はその猫を撫でた。白・茶色・黒の三色をしている三毛猫……オス? メス?
《メスなの》
『いいや、オスだ』
猫好きな亜望は、オスの三毛猫が珍しいことは知っている。しっぽをピクリと動かして、翡翠のような色の眼で亜望を視界に捕らえたようだ。
『話を替えるが、さっきの話を聞いていると、身体が冷えやすい体質だと思うんだが』
そう言うと例の鞄の中から二本の瓶をとりだした。
《……この前のペパーミントですか》
意識は半分まだ猫に向いている。
『身体を冷やしたいのか? ペパーミントは身体を冷やすよ。夏の暑い地域でのお風呂とかに入れたり、シャワーをあびるときに下に2、3滴垂らしておくのも気持ちいい。それに、お風呂上がりにペパーミントオイルでヘアマッサージも気持ちがいい』
三毛猫は今度はメフィストの手首あたりに顔をスリスリとこすりつけている。
《あの……ごめんなさい。どうしても気になっちゃって。それ、オスの三毛猫なんですよね? すごく珍しい》
彼は質問には応えず、話を戻す。
『それでこの2つの瓶だが、こっちがジュニパーでこちらがゼラニウム。ジュニパーを4滴、ゼラニウムを3滴お風呂にいれると身体が温まりやすくなる』
《ゼラニウムとジュニパー》
『それは質問? 鸚鵡返ししてるだけなのか』
《ゼラニウムは聴いたことがあったけど、ジュニパー? それはないなと思って……》
『このジュニパーのエッセンシャルオイルは果実を低温低圧で水蒸気蒸留して抽出したもので、ヒノキ科の仲間だ。従来の使用方法としては、ジュニパーベリーの束は、中性の時代魔女を追い払うために戸口に掛けられていた――』
ぐっと興味をそそられて、アイスコーヒーに思わず2つもガムシロップを入れそうになった。
『ジュニパーは利尿剤として何世紀にもわたって使用されてきた。最近まで、フランスの病棟では、感染から保護するためにジュニパーとローズマリーの小枝を燃やしていた』
《どんな香りなの》
何も言わずに彼は瓶を亜望の鼻先に近づける。木のフレッシュな香りだ。
『あ、ひとつ……君には腎臓には疾患はないね? 診たところ問題なさそうだけど』
《腎臓? 特にないと思うわ》
『腎臓に疾患を抱えている人間は使用は避けたほうがいいから』
《誰にでも効くわけじゃないんだ》
『そう。芳香だけのためならどれも全て問題ないが、皮膚の中にいれたり、経口摂取する場合は、血液の中にはいって体中を巡るから』
《なるほどね》
『ジュニパーはさらに否定的な影響をはねのける力がある……』
彼は、少しばかり思い出したいことがある、というように、目をぐるりと回した。
《どうかしました》
『いや、何でもない。人とか場からネガティブな影響を受けたときにサポートしてくれるから、そういう意味でも入浴時にオイルを入れるのに向いている』
彼の説明によると、ジュニパーはフランス、イタリア、ハンガリー、カナダが主な産地の常緑樹で、手足の冷え、むくみ、腰痛、強壮、浄化、リウマチ、痛風、坐骨神経痛に効果がある。ジュニパーの実は3年の間に緑から青、そして黒へと色を変える。西洋ネズともよばれお酒のジンの香り付けにも使用される。
《あと、これゼラニウムでしたっけ》
『ゼラニウムは―』
《ちょっとその前に注文しないんですか》亜望彼の話を中断した。彼は無表情で肯く。するともう一度店員を呼んだ。注文するわけでなくただのお湯をくれるように頼んだ。お湯なので「そういうものは置いてません」という逃口上もあるはずもなく、5分ほど血液循環改善と皮脂のバランスを整える効果のあるゼラニウムの説明をしている間に、さきほどの男性店員は、ハーブティーポットにお湯だけいれて嫌そうに持ってきた。
『―あとは、せっかくこの時代だから科学的に説明すれば、免疫細胞を活性化させ、癌細胞を死滅させる。癌細胞は高温が嫌いだから』
彼が精油を入れたお湯を静かに飲みながらゼラニウムの長い説明を終えた。
『もし治療ということだったら1年ぐらい週に2回ほど工房に通う必要がある』
自分の時間が拘束される危険性を本能的に察知した亜望は《いや、それは結構です》とはっきりとつっぱねた。
『じゃあ、今度一度だけ工房に来るといい』
相手に深入りしない態度が蹌踉めく。
《それならば……》
『前もってあれこれ考えすぎると、行動する気力が失われる。行動することは一度思考を止めることになるから。穴だらけの大地に一歩を踏み出して、穴におちたら笑えばいいじゃないか。宙を浮くように歩いたって、不安に襲われながら生きるだけだ。現在だけでも生きるのはたいへんなのに、過去の不安や、まだ起きるかどうかもわからないことを心配して生きてもしょうがない』
彼は悠々と語る。
執拗な講釈にいい加減亜望は限界だ。《詮索しないでくれますか》
『何をそんなに狼狽えている? 様子が妙だ』
《狼狽えてるのはそっちでしょ? これが普通だけど。質問の答えになってないし!》
今度は亜望の番だ。少々僻みっぽい女に映るかもしれないが、この際どうでもいい。
上着を手に取る。それから二度と会いたくないと胸に誓った。
空は急に雲行きが怪しくなって、積乱雲に似た雲が頭上に停滞してきている。どどどっと雷が響き、あちこちで、「げ、傘持ってきてないよ」「もうそろそろ出ようか」などと話すグループが見受けられる。やっと朋美が戻ってきた。
「あのね、ごめんごめん。実は、子供が熱だしたって。このタイミングで申し訳ない」
帰り支度が済んだ亜望は《大丈夫》とOKサインを作る。彼女が3人分支払ってから、小雨の中走って「また連絡するからね!」と手を振りながらスタジオに戻っていくのを亜望は見送った―。
『工房にはこの猫もいるから、会いたくなったら来るといい』
小走りでスタジオに戻る彼女の背中を視ながら彼が言う。
《たぶん、行きません》
バベルの塔が群れ聳える都会特有に降る雨は、「雨」とは呼べない。
ふわふわと降り出す忌々しい水の舞に過ぎないのだ。親水的な人間でさえ、その雨には辟易とする。傘をささなくてもかまわない気もするが、傘をささないとやはり濡れてしまう。しかし、傘をさしても高層ビルに邪魔された雨は横から降ってくる。傘の意味がなくなる。
『傘、使うかい』
亜望はタクシーが拾える大通りまで雨の中を避けるように小走りして、そのままタクシーに乗りこんだ。振り返ろうとも思わなかった。
まるで呼吸しているかのような打ち込みの壁に、アースカラーのトーンが優しく包み込んでいる。アートの展覧会のような装いに見えるのは、ガラスとカーテンをすかしたあとに弱まって室内に届く光の演出によるものだろう。零れてくるその光の手腕に亜望は思わず感嘆の息を漏らす。
妙なことに部屋の両端の窓から太陽の光が部屋の中にこぼれている。おまけに、入り口のドアにある窓から光が部屋の中に降り注いでいる。しかも、キッチン空間から繋がった形で8~10メートル四方の空間が拡がっているにもかかわらずだ。
太陽が複数個ある次元ならばなんら不思議はない現象だが、亜望は自分を縄でしっかりと常識と社会通念上の良識にしばりつける窮屈さをもってして社会と迎合するよう生きているので、唖然とした面持ちで、肚の底をつっつかれるような心持ちで部屋の中央に進んだ。
彼女が部屋の中央のソファに腰掛けるように指示されると、視線が変わった状況でもう一度四方を具に観察してみる。大谷石を組んで作られた薪ストーブスペースが彼女の目を釘づけにさせた。各の方向に数秒固まって把握に時間をかける。
入り口から正面の先の窓の近くのロンドン塔の時計台のようなものが、千手観音のように東西南北全面に時計が重厚にはりこめられている。中でもとりわけ奇妙なのは、地球儀だ。
薄く茶色がかかった、表面にいくつもの汚れや傷があるが、北米大陸のすぐ東側がアフリカ大陸でさらにその南側にアジア諸国があるといった、その他含めて6つの大陸がまるで人間の脳の小部屋のようにそこに位置している。その前には、アルファベットで、真鍮で作られたインテリアのアルファベットがあり、The Morldと並べてある。WとMが反転しているのだ。奇妙に感じたが、Mの上の部分から鳥の置物がそのままつながってきちんと斜め上を見ていることから、正しい配置だと判断できる。
屋根裏部屋風のスペースが木の階段を上ったところにあって、吹き抜けに勾配天井の登り梁が走る。そこには黒い女性のくびれのような曲線のハイバックチェアがひっそりと置いてある。
『どうぞ、好きなところに座って』
メフィストはそう言うと、ブラウンシュガーのような塊を見たこともないようなまるで魔術道具のような楕円形の網の蓋が上からしてある容器に炭を入れて、その塊を上に置いた。すると煙が立ち昇った。
《あの、ここは開店して何年ぐらいなの》
香りには言及せずに訊いた。
『子供の時に祖母が教えてくれたんだが、16世紀からだ』
《コレ、変わった絵ね》壁に飾られたカラフルな絵を見て訊いた。
『剣に記されているのは中世のドイツ語だ』
彼女が目にしている絵はバルディング・グリエンによる木版画―七つの大罪。そのほか、所狭しとギュスターブ・ドレの木版画や、ロシアの画家コンスタンティン・ソモフの「夏の夢」、鍵の束をフクロウの置物が口にくわえていたりする。
『フランスでは何を』
予期せぬ質問を、初めて見るようなインテリアに放射状の注意をもっていかれている最中に浴びたので、必要以上に―まるで疚しいことでもしていたかのように―彼女は驚いてしまった。
急いで取り繕うように、人差し指を顔の前で天井に向かって伸ばす。
『何かの研究や魔法使いの修行にも見えないし、芸術家にもみえなかった』
《そういう理由じゃないとフランスに外国人が訪れちゃいけないの》
道路側の窓から差し込む光を眩しそうに手で避ける。
『ほかに理由が』
《もういい。苛々してくるから》
『屋上に行ってみよう』
メフィストの提案に口をあんぐりさせる。伝わらないもどかしさを通り越えて、清々しいほどに不愉快さが増したように笑った。
そんな彼女の返事も待たずに、来るときに乗ったエレベーターに向かう。好奇心の誘惑に勝てずに、矢も盾もたまらず静かに後を追いかける。急な階段を数段上がると、屋上に続く非常口の重たい扉を開ける―。現実と地続きな景色たちは悉く身を隠した。
絹で囲われた別世界の体験が、その細い糸で亜望を包み、飲み込む。目に飛び込んできたのは魔法の絨毯が敷かれたような一面のハーブ畑だった。
建物の中に入ってくるときには想像もつかなかった。屋上の形からみるとビルはコの字型をしている。昨晩の雨の残りで湿っていた空気が、次第に強さを増してきた太陽の光に乾かされ、目の前の花やハーブたちの葉が光のプリズムを作っている。
小型のビニールハウスの中では、果実が成る木々が十分に生育しており、故郷の小学生時代によくいった桃狩りを思い出す。素人目と鼻で判断しても、ローズマリー、ミント系、グレープフルーツだろうか、ラベンダーにバラなどいくつものハーブが育っている。ハーブとハーブの間には、日よけと雨傘を兼用しているガーデンパラソルがオープンのエリアとクローズのエリアに分かれている。おそらく植物の特性をいかしての配慮だろうと想像した。
しかも、さらに不思議なことに、四方八方に太陽を遮るものがなく、そして窓という窓がビルというビルが視界の範囲に入ってこない。
2人が立っている位置は誰の視界にもはいることはないのだ。それは、おそらく衛星で見ても2人のいる世界は見つけられないかもしれない。誰も、勝手に見ることが許されないような秘密の庭―エデンの園―。
目一杯四季の移り変わり―季節の万華―を愉しみながら自然を相手にして生きているのだろう、と亜望は千朶万朶のハーブたちを心の中で想像した。
一体、なんて名前をつけたらいいんだろうか……。草花たちを触れながら、感じたことも分類化もできない感情に手古摺る。ふと、共感を覚える―ずっと前からこうして変わらず生きている、そんな時間を越えて、きっと、自分よりも年齢が古い植物たちが生きているのではないか……。
亜望がゆっくりとかみしめている間、一方メフィストは黙って亜望をおいて、Myrtuscommunis、というカードが差し込まれたハーブの香りを嗅いでいる。
彼と目があうと、『こっちへ』と目で合図された。亜望は素直に歩いていく。
『マートルだよ。愛の女神アフロディーテ……あいつのママ……じゃなくて、クピドーの母親の神木とされている』
《どこかで聞いたことがあるような。結婚式のリースに使われるやつだっけ?》
『その通り』彼が感心した様子で言った。
『これが。ベルガモットミント、こっちが、ミント・マリーゴールド、これが、スペアミント、そしてこれがアルベンシスミント、これが、あっ……』
亜望はミントに近づけていた顔を戻して、彼の目線を自分も追ってみる。すると、カフェで会った猫がぽつんと小さなラベンダーンブルーの色をした小さな花が穂状に咲く植物のところで沐浴の最中だ。
自分の前足で頭をこする猫ならではの仕草に落ちてしまいそうだ。
『それは、ラベンダーに花が似ているが、ブルーキャットミント。ほかのミントと違って、ハーブティーやハーブウォーターや精油には蒸留できない観賞用だ。まぁ、その猫のため、というところだな』
《この猫、ほんとかわいいぃ! このおてての肉球がもうたまらなぁい》
『君はハーブより猫か……』
《猫の方が癒される》
すると彼は立ち上がり、グリーンの光沢が施してあるガラス製の霧吹き器をとりだして、ハーブに散布しはじめた。
『目に入ったら危険だからその猫をつれて風下はさけて、あそこのベンチにでもすわっておいて欲しい』
亜望は可笑しいくらいに厳かに猫をだきしてめてベンチに避難した。
初めて抱き上げられる相手なのに猫はおとしなくなされるがままだ。亜望の胸に抱かれるのに任しているように見える。両手で抱きかかえて自分の顔のところに猫の顔を近づけると、猫は亜望の口のところに鼻をちょこんとくっつける。
しゅっつしゅっしゅっ。しゅっしゅっしゅっ。ふわっ。猫の耳がぴくりと動く。亜望の鼻も。農薬にしては嫌な香りひとつしない。むしろ良い香りがしてくる。
亜望は相手に気づかれるようにベンチで大きく2、3度手を振ってから問いかける。
《それ、農薬じゃないの》
『農薬』彼は意外そうな顔をした。
『農薬は少しは使うが、これは農薬ではなくて虫除けだよ』
《虫除けなんだ。なんかスパイシーな香りただよってきたから。なんだろ、香辛料みたいな……甘さもある……シナモンみたいな》
『鼻がいい。この中には、シナモン、グローブ、ローズマリー、ユーカリラディアータ、オレガノのエッセンシャルオイルをブレンドしたものがミネラルウォターに入っている』
《へぇ、そんなことにも効くんだ》
『グローブにはふさぎこんでいる気持ちを開放する効果がある。その点に関しては、ジンジャーやシナモンバークなどおスパイシー系はそういう効果がある』
彼は、足下にしっぽをピンと立たせて近づいてきた猫を抱きかかえて、グローブの説明を続けた。グローブは、ペストの蔓延した15世紀に死体や死にかかった人から物を奪った盗賊が身を守るために使用したらしい。
《あと、ユーカリなんとか、とか、普通のユーカリと違うの》
『ユーカリには、主に、ユーカリグロビュラス、ユーカリシトリオデラ――あそこのあたりがそのエリアだ』
そう言って、彼が、屋上の手すり付近の一画を指さす。亜望はその方向に目をやる。そしてまた目を彼の指に戻す。なかなか綺麗な指だ。
《あ、はい。行ってくる》
指図されるがままトコトコ歩いた。跪くと、いろいろな種類の葉があり、そのどれもが同じようで違う香りだし、同じようで違う葉を揃えている。
雲が差してきた空の下で亜望は小学生の女の子のように観察した。
『そろそろ下にいこう』
しばらく経った後、彼は亜望の背中を優しく叩いた。
だれか人の気配―。
女性が工房の扉の前で待っている。髪の色や後ろのシルエットの肉付きからスリムで、しかも見られる仕事をしていることがありありとイメージできる。
「あ、お待ちしておりました」
メフィストをみて彼女は弾けそうな笑顔を向ける。
「あっ、先約でしたか、出直した方がよければ出直し……たいところなんですが……」
『あーあなたか。例と同じものを』
「はい! 宜しくお願いできますか」溌剌と応える。
『まず中へ』
彼は奥のもうひとつの部屋に足音も立てずに進み、それからしばらく出てこなかった。
彼女は勝手知ったるのか、椅子にも座らず、ずっと、部屋中にあるインテリアを感慨深く見入っている。しかたがないので亜望も真似をした。そうやって「何かしている人」になることで初対面の警戒心を忘れようとした。
――ようやく彼はドアから入ってきた。数分この部屋に不在だっただけで、彼が入った瞬間この部屋には安堵と緊張にいりまじった空気に感じられる。
『それでは、これで』
「ありがとうございます。お代はいつものような形でお支払いしますので、しばらくお待ちください」
今度は嫋やかに微笑んだ。扉へと向かう。
「それでは、失礼します」と言って部屋をあとにした。亜望は、一度彼の方を向いてから、自然と足を扉の方向に向ける。足音をわざと立てながら進む。とんとんと肩を叩いた。彼女が振り返る。
「何か」
偶然にしても薄気味悪い。超越した確率だと亜望は内心驚く。
《失礼ですが、ここにはよく来られるんですか》
「今日が3度目です」
《わたし、今日初めて来ました》
「素敵でしょう」
工房の中のことだと目配せする。
《これから精油を見せてもらって、ブレンドしてもらおうかと》
わざわざ打ち明けたのは、情報を集めるためだ。
「まぁ、それはすてき!」
薄いグリーンの瞳がきらりとひかる。むくむくっと肩を揺する。深まるグリーンの視線が亜望だけに向けられると、息が止まりそうになった。
広めの額からアッシュとブラウンが混じったような色のセミロングの髪。くせ毛のようにウェーブしている。両肩にちょこんと乗る。幼く見えるのは髪型のせいだろうか。
「私、先週が初めてでした。最初は祖母のお遣いでここに来たんですが、今週は私のためだけの調合されたものを受け取りにきまして」
《そうなんですか、ずいぶんと昔からここはあるんですよね》
「場所や佇まいは変わっていますが、ずいぶんと前からですよ。おそらく何世紀も」
亜望は、メフィストが昔の世紀のことを話すたびに少し違和感を感じていたのを思い出す。歴史を話している、というようではなく、つい最近その世紀を生きてきたかのような語りぶりだからだ。
「上から降りてきたようですが、上には何があるんですか」
《え? 行かれたことは》思いがけない質問にドキっとした。
「そんな、とんでもない。【恵まれた方】しかおそらく彼は通しませんよ」
きょとん。一瞬目を疑った。読みまちがいだろうかと目を擦った。
【恵まれた方】という言葉に内心動揺する。その動揺は亜望の心臓からなかなか離れてくれない。その意味に思いを巡らせるほど冷静ではなくなってきた。
「恐れることはありません」亜望は彼女の言葉にはっと我に返った。「彼と出会うこと自体が、流星群をみるよりも可能性の低いことだと、祖母から聞かされています。【運命の魔法使い】とは、そんなに頻繁には出会わない方がいいですもんね」
まるで疑いのない共通項を話しているような、投げっぱなしな言い方だ。情報が足りない。もう少しつっこんだ質問がしたい。だけど、初対面でそれは失礼だろうかと二の足を踏んだ。亜望はとりあえず無邪気な質問をぶつけてみることにした。
《何ですか? 【運命の魔法使い】って》
「祖母から聴いた話です」彼女は懐かしむような表情をみせると、頬のあたりがほんのり薄紅色になって少女性がぐっと増した。
「本当かどうかは定かではありませんが、寓話のようなものだと信じています。子供にベッドタイムストーリーとして話すと、わくわくして逆に眠れなくなったこともあるので、子供へのお話には向いていないかもしれませんね」
亜望は応え方が分からないので、神経質な笑顔をただ浮かべるだけだった。
「あ、すみません、そろそろ私、下で車を待たせていますので、これで失礼します」
そう言うと、彼女は優雅に笑った。実にいろいろな笑顔ができる女性のようだ。
《あ、こちらこそ呼び止めてすみませんでした》
「いいえ、お話できてこちらもよかったです。前からお話ししてみたかったものですから」
初対面にはおよそ似つかわしくない様子で彼女は言った。
エレベーターを使わず脇の螺旋階段で下へと降りる。幾何学的なつくりに目をみはっていると、ふっとどこかに吸い込まれるようにその女性は消えた。
迷い込んだかな……。それが心臓から動揺が離れてくれる最後の自分への説得の文句だった。ようやく解放されたとほっとすると、溜めていたのだろうか、一気に軽い眩暈を覚えて、胸を手で押さえながら深呼吸する。
彼女は外はまだ明るいというのに光がまったく浸透していないその階段で、一度亜望の方を振り返り手を振った。亜望も反射的に振り返した。慈悲深い笑顔が、およそ育ちのよさそうな、気品には不釣り合いな暗がりで、神々しく輝きを放ったように見えた。2人の間に急にすとんと奥ゆかしい障子が閉じられたようだった。