前編
第二作もホラーです。
まずは”彼”の日常をお楽しみ下さい。
私が小岩井 節子さんに出会ったのは、全くの偶然だ。
なんてことはない、担当を任されたエリアの飛び込み営業で訪ねた家の住人、というだけの出会い。
秋の柔らかな日差しの昼間。
閑静な住宅街に建つ庭付きの日本家屋、塀も門もしっかりあるその御宅は、駆け出しの営業マンである私には魅力的な客候補に思えた。
インターホンを鳴らして、返事がない内に定型文の自己紹介と営業内容を大声で告げる。
……こういうのは何よりも押しが大事だ、と自分では思っている。
幸いにも「どうぞお入りになって」 と返事を頂き、門を潜り玄関へと入った。
しかし、玄関に入っても人影は無い。すると
「ごめんなさい。わたし、足が悪くてね。庭の縁側にいるから、こちらへ来ていただける?」
言われた通り、玄関を一度出て庭へと回る。
その庭は、よく手入れされた綺麗な庭だった。決して広くは無いが、和洋の樹木と草花がバランス良く散りばめられ、知識が無い私でも”綺麗だ” と思わず呟くほど。
「あら、そう言って貰えると嬉しいわ。老いらくの趣味だけど、これだけが今の楽しみなのよ」
声のした方に顔を向けると、そこにはロッキングチェアに腰掛けた老女がいた。
年頃は70半ばぐらいだろうか。
小柄な身体で背は緩く曲がり、銀色の髪は綺麗に結い上げられている。
身に付けた洋服はシンプルながら上質そうな物。膝掛けも上品な色味で手触りも良さそうだ。
……思った通り、この人はお金持ちだ。
営業マンとしての自分が、下衆な感想を浮かべる。しかし、それよりもずっと印象的だった事がある。
彼女の柔らかで笑みを浮かべた表情は、まるで秋の庭の陽だまりそのものだった。
暖かく心地良く、相対した私の心を解すような。……とにかく、私は彼女を前にしただけで、心が安らいだのだ。
だから、かもしれない。
私はその日、営業の話もそこそこに、縁側で長い間彼女と話をした。
これと言って大した話題でもなかったが、ゆっくりと時間が流れる縁側で、節子さんのこと、私のことをお互いに話した。
節子さんは、所謂未亡人だった。
昨年の夏。いたって健康だった旦那さんが、流行り風邪を拗らせて急死されてしまったのだそうだ。
長年連れ添った相方の突然の死に、当然ながら節子さんは悲しみに暮れ、何ヵ月も打ちひしがれて泣きながら過ごした。
しかしそんな中でも、彼女の趣味でもあった庭の手入れは欠かさなかった。
「あの人は亡くなってしまったけど、この庭の子達はみんな生きているからね」
節子さんは、やっと吹っ切れたのよ と小さく洩らした後に、そう言った。
「それに、私はあの人の最期に何もしてあげられなかったけど、この子達は私が手入れさえしていれば、まだまだ元気で花を咲かせてくれるからね」
そう続ける彼女の顔は、笑顔ながらもやはりどこか寂しそうだった。
悲しい出来事があったのにあの陽だまりのような笑顔でいられる彼女は、本当に強い人だと私は思う。尊敬している、と言ってもいい。
私も仕事中にも関わらず、身の上話や趣味の話、挙句の果てには仕事の愚痴までもを彼女に溢した。
彼女はその柔らかい笑顔のまま、何でも聞いてくれた。
その中でも一番反応が良かった話が ――私が趣味で書いている小説についてだった。
なんでも、彼女も学生時代は私小説を書く趣味を持っていたそうなのだ。
もちろん本を読むことも大好きで、最近こそ新しい本を読まなくなったが、自宅にも結構な数の蔵書があるようだ。
あらすじや簡単な描写だけ話したが、彼女は気に入ってくれた。
そして、ぜひ今度読ませてくれと言ってくれたのだった。
私は、嬉しかった。
小説を書く趣味があるというのは、実のところ他の誰にも話したことがなかった。
誰かに見てもらうためでもない自己満足のための趣味。語れるほど自信も無かったし、評価されるような内容でもなかった。
……だからこそあの時彼女に話したのが不思議だったのだが。
私が慌てて小岩井宅を出たのは、日が傾き茜色になる頃だった。
その日はまともに仕事をしていないことを上司に誤魔化すのに、非常に苦労した。
帰宅してから、私は一日のことを振り返りながら、パソコンへと向かっていた。
もちろん、小説を書くためだ。
キーを叩くたびに、何故か節子さんの顔が浮かんだ。そしてそれは、とてもいい気分だった。
ただの自己満足だったはずなのに、例え社交辞令だったとしても読みたいと言ってもらえたことが、心の底から嬉しかった。
また、節子さんのところへ行こう。
私はそう思って、書き進めた小説を大きめの文字でプリントして、眠りについた。
それから。
私は月に1回、節子さんのところへ通うようになった。
少額だが商品の申し込みもしてもらえたこともあって、初日ほどの時間でなければ訪ねる理由はつけられた。
そして、そのたびに私の小説を読んで感想をもらうことになった。
節子さんはいつもの優しい笑顔で、嫌がることなく楽しそうにアドバイスと感想をくれた。
その視点は思った以上に的確で、度々驚かされることになった。
時には内容を否定されることさえあったが、しかし節子さんの柔らかい表現で言われると不思議と嫌な気持ちにならなかった。
節子さんのところを訪ねた夜は、筆が乗る。
アドバイスを貰う度に自分の小説が磨き上げられるのが分かった。
長年チマチマと書き進めてきていたが、ここにきて急速に書き進めることができていた。
私の、一ヵ月に一度の楽しみだった。
しかし、ある時。節子さんは、倒れた。
くも膜下出血だったそうだ。 ――私が発見したわけではない。たまたま、近所の仲の良い人が、庭に倒れ伏しているのを発見したそうだ。
幸いにも発見は早く、命に別状は無かった。
後遺症もほとんど残らなかった。
私は月に一回の訪問の時に、その発見した近所の方に教えてもらったのだった。
いくら心配したところで、所詮は営業マンと顧客でしかない関係。何ができるわけでもなかった。
それでも居てもたってもいられず、近くを通るたびにインターホンを鳴らしてみたり、手紙を数回差し入れてみたりしていた。
数回目の訪問。鳴らしたインターホンに未だ反応がないことに小さな溜息をつき、手紙を差し入れようとしたその時。
「もしかしてあなた、節子さんが言っていた……"お話聞いてくれるお兄さん" かしら?」
節子さんが私のことをどう話していたのかわからないが、少なくとも"つまらない小説を押し付けてくる人"ではなかったようで安心した。
声をかけてきた人は、倒れた節子さんを発見したあの人だった。
前々から、私が訪問しているのは目にしていたが、営業マン然としていた為に声を掛けるのを憚られていたそうだ。
しかし、毎度手紙を差し入れているのをみて、節子さんから話を聞いていた人物だと確信したらしい。
その人は月に数回ほど、節子さんが入院している病院にお見舞いに行っているそうだ。
どうやら回復は順調のようで、最近はほとんど普通に喋れるようになっているらしい。
「私も昨日会いにいったら、息子さんがいらしてたみたいでね。買ってきてくれる花のセンスが悪いのよなんて、文句言ってたわ」
その人もまた、コロコロと良く笑う人だった。
もしかしたら、そういう所が節子さんと波長が合っているのかもしれない。
私は彼女に、ぜひお見舞いに行きたいと頼み込み、病院と病室を教えてもらった。
同じ週の土曜日、私は早速お見舞いに行った。
……お見舞いの花束は、会社の後輩の女性にセンスの良い花屋を紹介してもらったから、問題なかったはずだ。
とてもではないが、私も花のセンスには自信がない。
しかし店員さんには頼み込み、節子さんが庭の中でも特に気に入っていた秋桜――に似た花だけは、花束の中に入れてもらった。
その甲斐もあってか。
訪ねた病室の節子さんは、それは暖かい笑顔で迎えてくれた。
心なしか、小柄な身体がより小さくなったようにも見えたが、顔色は良かった。
「ごめんなさいねぇ、何回も訪ねて下さってたみたいなのに。万が一あなたじゃなかったら困るもの」
近所のあの人から話は聞いていたようだ。
手紙も読んで貰えていたようで、とても感謝された。
回復してきたは良いが、やはりベッドから動けないのは退屈らしい。
「でもおかしいわよね。家にいた時は庭いじりをして、縁側でのんびりして。時々あなたの話を聞いて。結局のんびりしていただけだもの」
持ってきた花束を花瓶に生けている私に、節子さんはそう溢した。
確かにあれは他の人から見れば、只のんびりとしていた時間だったかもしれない。
……それでも私は知っている。
あの庭の景色を綺麗に保つには、彼女の愛情ある手入れが欠かせない事を。
節子さんは、毎日花や樹木のそれぞれに声を掛けながら、それはそれは丁寧に水遣りや草むしりをするのだ。
庭が広くないとはいえ、膝が悪い彼女が毎日手をかけるのは、本当に大変だったと思う。
「そう言えば、あなたまだ小説は書いているの?」
私が2杯目のほうじ茶を淹れて差し出した時、節子さんがありがとうと言いながらふと思い出したように話題に出した。
言われて、ドキリとした。
お見舞いという名目で訪ねておきながら、実は小説の続きの部分を鞄に忍ばせていたのだ。
言い訳をすれば、話の種になればと思って出掛けに掴んで放り込んだだけなのだが……
入院し退屈している人につけ込んで持ちこんだ、と指摘されたような気持ちになった。
だから、私はすみませんと一言謝りながら、おずおずと情けない気持ちで、鞄の中の紙束を差し出した。
すると節子さんは、一瞬きょとんとした表情をしてから、すぐにクスクスと笑い出した。
「大丈夫よ。本当に私はあなたの小説の”ふあん” なんだから。早く読ませてちょうだい。ここは退屈でしょうがないんだから」
いつものように陽だまりの笑顔で、彼女は受け取ってくれた。
「でも、そうねぇ。あなたに一つ頼みたい事があるのよ」
渡した紙束が半ばほどまでめくられた時、ふと思い出したように節子さんが話しだした。
「実は、庭の子達が気がかりでねぇ。元気にしているかしら」
そういえば、彼女が留守の間は庭に手を掛けられない。
私も、門が開かなかったから、庭の様子は見れていなかったのだ。
「息子が一人いるのだけれど、あの子も植物に興味は無くてね。任せるのが心配なのよ」
はぁ、と深いため息をつき、彼女が私を見る。
「その点、あなたは私の庭も良くみてくれているし、意外と丁寧な人柄だから向いていると思うのよね」
意外と、というのが引っかからないでもないが、私も植物の世話などした事が無い。
ましてや、彼女のように丁寧な作業など出来る気がしない。何故私なのだろうか。
「それに、あなたの小説にアドバイスあげてるでしょう?その”借り” があると思うのよ」
今度は悪戯っぽく笑いながら、そう言う。
確かに、そのことは恩に感じている。
素人の小説をあそこまで丁寧に読んで感想をくれる人など、そうそういないだろう。
しかし、それとは別で、私はこのお願いを断る気が無かった。
節子さんの役に立ちたいという気持ちがある。
そして――私もまたあの庭の景色が大好きなのだ。
だから私は、二つ返事で引き受けた。
彼女ほどの仕事は出来ないにしろ、やるだけのことはやろうと。
彼女は、とても感謝してくれた。
門の鍵と用具倉庫の鍵を渡して、手入れの簡単なポイントを教えてくれた。
それを手帳にメモし、私は病室を後にした。
夕暮れに染まる茜色の帰り道。
私は、手帳のメモを改めて眺めながら歩いた。
彼女にとっては、日常のなんて事のない作業に違いない。
しかし私にとっては、このメモを睨みながらの作業になるだろう。
それでも――
それでも私は、あの小さくも素晴らしい庭の景色と、節子さんの陽だまりの笑顔のために。
次の日から。
私の、小岩井宅への訪問の日々が始まった。
後編に続く。
是非、通しで読んでいただけたら嬉しいです。