とび降り自殺と廻り灯籠
「…以上の人は俺が死んだ後も苦しんでください。絶対呪います。さようなら」
「まぁ、こんなもんでいいか」
人生で初めて遺書を書いた。まぁ元々そう何回も書けるものではないが。せっかくだからと、色んなシチュエーションで試みたが、結局自宅が一番落ち着いて書けたからこれから死ぬ人にはオススメしておく。
ちなみに1番良くなかったのはスタバだ。
さて…遺書も書き終えた。PCのファイルも全部消した。最後に会うような人は取り立てていない。
「行くか…」
俺は今夜、ビルから飛び降りる。
きっかけというきっかけは特に存在しない。就職先を間違ったといえばそうだし、大学受験で失敗したからとも言える。中学、高校でいじめられていたことも関係がありそうだし、ここまで来れば産まれたことさえも、間違いのように思えてくる。
「良い月じゃねーか、くそ」
たぶん、決壊してしまったんだ。さっきも言ったが、特別何かあったわけではない。何でもない日だった。初めは小便でも漏らしたのかと思った。なんだか、じわっと涙が出てきて、その後胸のあたりが温かくなった。
その時、ああ、死のうって思ったんだ。
アレルギーみたいなものかもしれない。あれも今まで何とも感じていなくても、ある日突然体が耐えれなくなるという。
ただ、それが良くないものであればあるほど、心や体が壊れるのは早まるのだろうか。
死に場所はもう決めてある。朝発見されたときになるべく不快になるように、みんなのその後の人生になるべく引っ掛かりを残せるように、その場所を選んだ。
俺は鞄に遺書だけをいれて家を出た。
時刻は深夜0時を回っていた。
○
「お疲れ様です、営業の望月ですが」
「あれ、お疲れさん!どうしたのこんな時間に」
「それが明日使う資料にミスがあったみたいで、ちょっと今から直そうかなって」
俺は予め用意していたセリフをただ守衛に読み上げた。
「はぁ、スーツも着たままでご苦労だねぇ。うんいいよ頑張ってね」
恐れ入ります、と俺はいつもより雑に会釈して守衛室の横を通った。もちろん向かう場所は営業部にある俺のデスクなんかじゃない。飛び降り自殺といえぱ、屋上だ。
屋上へと続く非常階段はカン、カン、と俺が確かに進んでいることを教えてくれた。
何故だか一段登る度に心が安らいでいくような感じがした。あの日、決壊し漏れ出たものの代わりに、安心感や充足感が足されていくようだった。
「ふぅ…いい眺めだな」
昼休みにたまに屋上へ登ることもあったが、そのときはコーヒーを飲みながら煙草を吸ったり、代わり映えしない周囲の景色にうんざりするぐらいのものだった。
ただこの場を取り囲む柵の低さは、いつも目についていた気がする。
俺は靴を脱ぎ、バックをその横に置いた。遺書を揃えた靴の上に置こうかと考えたが、風が吹いていたのでやめておいた。万が一にも飛んでいってしまえば、みんなに見てもらえなくなる。俺の人生を卑しく貧しいものとした、みんなに。
胸ポケットの中から煙草を取り出し、火を着けた。特に意識していなかったが、ちょうど最後の一本になっていたようだ。
「もしかしたら無意識のうちに、こいつにカウントダウンを任せてたのかもな」
いつもより愛しい思いで宙へと煙を吐く。大学時代から変えていない銘柄に、特に意味はなかった。
吸い終えた煙草を携帯灰皿へと押し込み、ビルの縁に立った。
あと一歩で俺の28年が終わろうとしている。
心臓はいやに早く拍動していたが、それが高揚感か、緊張によるものなのか判断することはできなかった。
ぴゅうっと風が吹き上がり、直下を眺めていた俺の顔を撫でた。居酒屋やなにか食べ物の匂いが不快に鼻孔をくすぐった。
「あぁ…、最後の晩餐までは気が回らなかったな」
辞世の言葉は何にしようか。お父さんお母さんごめんなさい?いや、別に謝るようなことはしていない。だったら派手に、ファッキュー人類?
…やめよう、考えるだけ無駄だし、時間をかけて何か邪魔が入ったら面倒だ。自殺未遂ほどくだらないものはない。やるからには、死ぬ。
最後にもう一度下を確認すると、人通りもなく、街路樹や立ち並ぶ店の灯りしかそこにはなかった。これなら無関係の人を巻き込む心配もない。
1度だけ深呼吸してから、ゆっくりと体を前傾させた。程なくして、足はビルの縁から離れ、俺の体は空中へと放り出された。
そこで、ふと、鼓動が緩やかに落ち着いていたことに気がついた。視界は完全に天地が逆転し、先程まで俺が立っていた場所も確認できた。思考も明瞭でやけに冴えている気がする。
(28年の人生、どうでしたか望月選手?いやー、そうですね。憎しみこそあれ、感謝はありませんね。ああ、そうだ。高校時代俺からいつもシャー芯をせびってきた沼川。あいつの名前書き忘れたな。…まぁいいか、あの世で先にアイツの悪評を広めておこう)
というか、冴えすぎている気がする。なんだこれ、浮いてる?
違うな、ゆっくりだけどちゃんと落ちてる。
(あー、あれか…死に際のスローモーションに見えるっていう例の。笑っちゃうな本当にあるんだこれ。ってことは、あれかな走馬灯も本当にあったり…)
そう思った瞬間だった。いや、正しくは走馬灯について考えた瞬間ではない。
「匂いに気づいた」瞬間だ。明瞭に冴え渡る思考の中で、風にさらわれた居酒屋の匂いを認識した瞬間、視界が閃光に包まれた。
(な、なんだこれ…!真っ白だ!!)
………
体感としては5秒ほどだろうか。視界を支配していた白さは徐々に滲むように色づきだした。
しかし、そうして浮き上がったものは先程まで見据えていた眼下の道路ではなかった。俺が飛び降りた場所でもなく、足元に広がっているであろう夜空でもない。
そこは居酒屋だった。
(なんだ、ここ…いや、でもなんか見覚えが…)
やがて、色だけでなくガヤガヤと店内の喧騒までもが聞こえてきた。そして、それらは一体に溶け込み、遂に本当にその場にいるような感覚となった。ただ自分の自由で目線を動かすことはできず、声も出すことはできない。許されたのはただ1つ、思考のみであるようだった。
俺は見覚えのあるこの光景をなんだろうと模索しようとすると突然「聞いてるかね、望月君!」と俺にとって心底不愉快な声が耳にはいった。
しかし、その次には俺の思考に横入りするように「はい!課長、申し訳ございません!」と答えるのが聞こえた。それは最も聞き慣れた自分の声だった。
「いやぁ久しぶりの新人だからね、是非とも頑張ってくれたまえ」
「はい!期待に応えれるよう頑張ります!」
(そうか、思い出したぞ…!)
これは俺が入社したときの新人歓迎会だ。どこの会社を受けても散々な結果だった中、今いるこの会社に唯一内定をもらい入社したのだ。こんな俺を受け入れてくれたのだからと、たしか初めの頃はやる気に満ち溢れていたはずだ。
(飲み会なんてこの日をを最後に行ったことなかったからな…)
この新人歓迎会は入社してすぐ行われ、部署が違う人も随分集まってきてくれたのを覚えている。
「おい新人!!どうだ飲んでるか?」
「はい!いただいています!」
「おい新人!一発芸をやってもらおう!だが安心しな、まずは俺達がやるからそれを見てろ!」
「はい!参考にさせていただきます!」
俺の視点で繰り広げられる記憶の中の飲み会は、賑やかだった。こちらに向く顔のほとんどは笑顔で、見えはしないがきっと俺も笑っていたのだろう。
(こんなものとっくに忘れていた。これは紛れもない俺の記憶だ。日常があまりにも重く積み重なるものだから、思い出すこともできなかった。そうか、初めから全てがダメだったわけじゃなかったんだ)
「アハハハハ!」
(俺はちゃんと笑えていたんだ)
やがて、今までの学校生活のように失敗を重ね続け、上司に怒られることが増えた。最初は話しかけてくれた先輩達も、1人ずつ減っていき、今では捌ききれない残業と抱えきれない孤独しか俺の周りにはなかった。
(大体新人歓迎会が早すぎなんだよ…。みんな俺の無能ぶりを知らないから勝手に期待して勝手に盛り上がるんだ…。俺は悪くない…俺は…)
「ねーねー、望月くん…」
「望月!よろしくな…」
「望月さんね、あなたに聞きたいことが…」
………
目の前の景色が再び輪郭を崩し、色は徐々に溶かされていった。再び真っ白の世界が訪れたと思うと、次の瞬間には夜空が広がっていた。
背中で空気を裂くのを感じる。落ちた瞬間はしっかりと頭を地面に向けていたはずだが、どうやら体勢を崩し、今は背中が地面に向いているようだ。
背中と後頭部を強く打ち付ければちゃんと死ねるだろう。さして問題は感じなかった。
(あぁ、それにしても嫌なものを見てしまったな。)
なぜよりによってあんなものを見てしまったのだろうか。中学でいじめられたいた瞬間でもいい。高校で独りぼっちで泣いていた修学旅行でも構わない。大学で試験中に脱糞した苦過ぎる思い出でも、特別に許そう。
なぜよりによって、俺が楽しんでいた記憶なんだ。
まだ、間違っていなかった自分。可能性があった頃の自分。
そんなものは今更見たくもなかった。
(惨めだ、ああ…惨めなことだ)
もうこのまま何も考えずに死のう。ごちゃごちゃ考えるから走馬灯なんて見るんだ。
背中が空気を裂いている実感だけが、唯一の希望を与えてくれる。このまま息を止め…死ぬその瞬間まで何事もなく終わらせるんだ。
しかし、俺の思いに反し体は短く呼吸をした。鼻孔に得たいの知れない甘い香りを感じた瞬間、俺はまたもや無明の白に視界を奪われてしまった。
「くそ!もう…いい!!…もう死なせてくれよ!!」
………
視界を支配していた白は徐々に滲むように色づき出した。
色の周りには輪郭がつき、やがて1つの情景をつくる。浮かび上がったのは、どこかの喫茶店だった。そして、テーブル越しに椅子に座り、コーヒーカップを口へと運ぶ女性。
くっきりとした二重は、どちらかと言うと可愛さよりもキツさを表している。スッと通った鼻筋、少しだけ膨らんだ唇には薄い桃色のリップが塗ってあった。
目の前の彼女は「何よ?じろじろ見て」と、クスリと笑った。
えっと、見惚れてしまって
視界の主は今の俺ではとても言えなそうな事を見事に言ってのけた。
目の前の彼女はコーヒーを吹き出しそうになっていた。
ところでなんか匂わない?
甘いというか…君、香水とかつけるっけ?
「え、ウソ!?」
彼女は慌てて床に置いていた紙袋を膝まで持ち上げた。
そして、顔を近づけるとスンスンと匂いを嗅いだ。
「…匂う?」
キョロキョロと店内を見回しながら
彼女は店員や客の反応を気にしていた。
そこまでではないけど、どうしたのそれ?木の枝がはみ出てるけど。
「ここに来る前に大学でもらったのよ。知ってる?ニセアカシアっていうの。その花の匂いね 」
そう言うと彼女は、紙袋をクロスが敷いてあるテーブルの下に追いやった。首をテーブルの下へと持っていき、試しにクロスを手で上げてみると、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。
「私の好きな花なの。実家、すごい田舎でしょ?私の家の山にね、この木が植えてあって…」
香りに包まれた彼女は優しい顔で笑っていた。
………
(ふざけるな)
こんな記憶は思い出しようもないはずだった。
消去したはずだった。二度と浮かんでくることのないよう、蓋をして、鍵をかけて…。
大学を卒業して6年、徐々にだが、消し去ること成功した。
削除したと、そう思っていた。
(やめてくれ、頼むよ…お願いだから…!)
俺の思いとは裏腹に目の前の景色は明瞭に色づいたまま次の景色へと移った。
クリーム色の天井。視界の端には淡い緑のカーテン。
「ねぇ」
眠気覚ましに一本だけ取り出したハイライト。火をつけようとベット横に置いてあるライターに手を伸ばしたとき、彼女は優しい声で俺を呼んだ。
あれ、ごめん起こしちゃった?
アパート近くの電線で遊ぶ鳥の声、カーテンの隙間から漏れる白い光。それらを浴びて君は、穏やかにシーツの中で笑っていた。
「煙草吸う前にさ、深呼吸してよ」
言われるがまま、煙草をテーブルに置き直し、大袈裟に深呼吸をした。
ン、はぁ~~。
胸に乗っけている彼女の頭が、連動して上下した。
「どう?」
どうって…甘いね
俺は視線をテーブルに置いてある花瓶に目をやった。
彼女が初めての僕の家に泊まるその前夜、実家にあるというニセアカシアの枝花を持ってきたのだ。飾っていいよ、と彼女は言ってくれたが、砂糖菓子のように甘い香りは、男の一人暮らしには不釣り合いではないかと、その時は感じていた。
「私さー、香水とかつけたくないんだよね」
胸からやっと離れた彼女は、そのままコロっと転がり今度は俺の腕を枕にした。彼女はシーツを自分の肩まで上げると、俺の代わりに心地良さそうに深呼吸を続けた。
「流行りの香水とかさ、みんなと同じ匂いって嫌じゃん?」
だから香水とかつけないんだけどさ、と俺ではなく、なぜか壁と向き合いながら彼女は続けた。
「でもね、香水って恋愛において凄く有効なのよ。だからという訳じゃないけど、なんだかみんながズルい。」
有効?そうかな、俺もそれほど好きではないけど
「ううん、好き嫌いとかそういう話じゃないの。昔からお香とか、香木とか、香りを発するものって大事にされてきたでしょ?何でかって言うと香りって記憶に直結しているのよ」
へぇ、そうなの?詳しいね。
「脳の中で香りを感じる場所と記憶をしまっている場所が近いらしいの。だから見るよりも、聞くよりも、香る方がずっと思い出すきっかけになるの」
なるほど、面白い話だ。さすが心理学専攻だ。でもどうして急に?
そこでやっと彼女はくるりと体を俺に向けた。二人の膝がコツンと軽くぶつかった。
「あなたはさすがの鈍感ぶりね。…今朝のことをね、この甘い香りがあなたを包んだとき思い出して欲しいの。」
「お互いが初めて触れあった、世界一ピュアで幸せな朝のことを。」
彼女は言い終えると、僕の頬に優しくキスをした。
改めて言われるととても恥ずかしいんだけど…
「ふふっ、私も!」
今度はシーツを自分の頭よりずっと上に運び、彼女はその中に隠れてしまった。ふわりとあがったシーツが落ちるその一瞬前、頬を真っ赤に染めた彼女を
昔の俺は見逃さなかったようだ。
……
目の前の景色が再び輪郭を崩し、色は徐々に溶かされていった。
温かく、柔らかな彼女の感覚も、質量も夜空に吸い込まれるように失せていった。
8階建てのビルの半分くらいまでは来たようだった。
「ちくしょう…ちくしょう」
目の当たりにした走馬灯に無感情ではいられなかった。
溢れた涙は夜空へと落ちていく。
忘れたくても忘れることができなかった。ふとした拍子に泡のように浮かんでくる記憶を、決して自覚しないように蓋をしていた。
ただ、だからといってなんだっていうんだ。一体、何をどうしろっていうんだ!
もう別れて5年になる。彼女だっていい歳だ。誰かと結婚しててもおかしくない。
確かに、俺の人生の中で彼女は初めての希望だった。奇跡だったし、宇宙だった。
幸せってやつを教えてもらった。
豊かさってやつを体験した。
でも俺が終わらせた。
就職して俺だけが加速度的に苦しくなる中で、彼女をまともに見ることができなくなってしまったんだ。
彼女の優しさも真っ直ぐ受けとることができなかった。
俺が歪んだ目つきで、睨んでいたからだ。
たくさん傷つけたと思う。
だけど、傷をつけた分、彼女に嫌われた分、なんだか救われたような気持ちになった。
こんな奴好きになってんじゃねえよ!
勘違いしてんじゃねえよ!
未来なんてねえよ…!
意味なんてねえよ…!
…彼女を悪い奴から守ってるようなそんな気分に救われていた。
そして、彼女が俺のもとから離れたとき、そうだ、俺はやりきったと思った。
最低な男から彼女を守れたんだと、そんな風に。
(そもそも…別れた後も何か好転した訳じゃない…。今更なんだっていうんだ。何もない)
走馬灯は今までの人生からこの死に際を脱却できるヒントを探しているから見るのだ、と聞いたことがある。つまり、俺の体は浅ましくも生きようとしているということだ。絶望と疲労に耐えきれず、死を選んだ心に逆らって。
ふざけるな、馬鹿野郎。
今更になって何が起死回生だ。
遺書を書いたのはこの腕じゃないか。
俺をビルの屋上まで運んだのは紛れもなくこの足じゃないか。
もう、遅いんだよ。諦めろよ。
死ぬときくらい心も体も穏やかに死ぬべきだ。
「長い人生だったな…」
もし生き残ることができたなら彼女に連絡を取ろう。
「生まれ変わりってあんのかな…」
例え腕をなくしても、メールくらい送れるはずだ。
「…っ!もう、何も考えないで…息もとめて…」
例え足がなくなっても、車椅子を誰かに押してもらって!
「……」
君に!!
「……」
腕を伸ばせ!
掴め!さぁ!
「……!」
掴めっ!!!!
「……っ!!」
右腕に激痛が走った瞬間、視界に赤いしぶきがかかった。一直線に落ちていた体は大きくベクトルを変え、枯れ葉のように不規則に回った。
しかし、また次の瞬間には背中にダンプが直撃したかのような衝撃が訪れた。次はどこに飛ばされるのかと思ったが、視界はもうぶれなかった。
どうやら、着いたようだ。
自分を中心に水溜まりができていくのを感じる。暖かい、小便を漏らした感覚によく似ている。
赤黒い水溜まりはどんどん広がっていく。暖かさはもうない。
ひどく、寒い。
腕は上がらない。首も動かせない。
目も、あまり見えなくなって…。
薄れる意識の中、頭上の街路樹から
甘く白い花びらが体に落ちてきた。
「はは…6年……6年、出勤してても気づかなかったのか…」
こうなってしまえば、彼女を見せてくれた走馬灯に感謝せざるを得ない。
最後に会えて、よかった。