9話 「戯れの死闘」
膨大に成長していた姉上の髪は元の長さに戻った。巨大な目玉もどこかに収納されて消えている。拘束を解かれ、ヴァイデンの体が床に落ちた。もはやピクリとも動かなかった。不死の吸血鬼の末路は、あまりにもあっけないものだった。
姉上のそばに目つきの悪い青年、ディートリヒが近寄ってくる。ヴァイデンが死んだことで拘束が解けたようだ。無数の杭に貫かれていた傷も見当たらない。さっきまでの取り乱した雰囲気もなく、落ちついている。
「あなたもなかなかいい演技をするようになったわね」
「恐縮です」
と言うか、さっきまでの焦りを見せていた反応はヴァイデンを油断させるための演技だったらしい。最初から姉上が完全勝利することを確信していたようだ。
「イライザ様、お手に怪我を……」
「このくらいは何ともないわよ」
姉上は、心臓を掴んでいた手が焼けただれたようになっていた。聖水がかかってしまったのだろう。再生する様子はなく、じゅうじゅうと煙をあげて不快な臭気をただよわせているが、本人は平然としていた。
「さて、では用事も済んだことだし、私は帰るわ。あなたはこの隠れ家を調べておきなさい。使える物があったら回収しておくように」
「はっ。弟君の手勢と思わしき者たちはいかがいたしましょう」
そのとき、姉上は思い出したように俺の方に目を向けた。今までどこか映画のスクリーンでも見ているかのように現実味を感じず、吸血鬼姉弟の壮絶なバトルを観戦していた。しかし、彼女の冷え切った視線はそんな現実逃避していた感覚を払拭する。途端に恐怖がこみあげてきた。隣にいるクーデルカと身を寄せ合ってガクガクと震える。
「『使える物は回収しておくように』と言ったはずよ。ゴミを拾ってきてどうするの?」
「申し訳ありません、愚問でした。では、こちらで適当に片づけておきます」
「お願いね」
そう言い残して姉上は消えた。髪の毛がぶわりと広がり、彼女の全身を包み込む。その毛束がギュルギュルと回転しながら引き絞られていき、そのまま虚空に溶け込むように消えてなくなった。
「さて、隠れ家にいたゴミどもはあらかた掃除し終えている。残りはお前たちだけだ」
ディートリヒが放った冷たい言葉は俺とクーデルカに向けられていた。おそらく、俺たちが二人がかりで仕掛けたところで到底敵わない相手だ。逃げることすら叶わないだろう。
貞操を失うことなんて絶体絶命の恐怖でも何でもなかっただと気づかされる。本当の恐怖とは、今このことだ。とにかく死にたくなかった。その一心で俺は頭を下げる。
「お願いします! どうか命だけは! 何でもします! 飯炊きでも靴磨きでもペットの世話でも雑用何でもしますからっ、どうか命だけはどうか……!」
恥も外聞もない土下座、命乞い。しかし、せずにはいられなかった。姉上は使える物は回収しておけと言っていた。つまり、有用性が認められれば生かして連れて行ってもらえる可能性はある。万に一つもありえないような可能性だが、それにすがるしか道はない。
隣にいたクーデルカも俺と同じように土下座して懇願し始めた。
「私も何でもします! 夜伽には自信があります! 私を貴方様の性奴隷にしてください!」
「バカッ! お前それでOK出されたらディートリヒ様が変態のロリコンみたいになるだろうが! 遠回しにロリコン認定するようなこと言うなよっ! すみません! 別にロリコンとか、そういうの全くこれっぽっちも思ってませんん!」
俺とクーデルカは必死にペコペコ頭を下げる。自分でも何を口走っているのかわからなくなってきた。しかして、そんな俺たちの猛烈アピールに対するディートリヒの反応は。
「ほう、今何でもすると言ったな?」
えぇ……確かに言ったけどさ……そうやって念押しされるように言われると不安が湧き起こる。しかし何を要求する気なのか知らないが、少なくとも今すぐ殺されることはないでは、と淡い希望も湧き起こってくる。
「では、二人で殺し合え」
「……は?」
「弱者はいらん。勝った方を、連れて行くかどうか検討してやろう」
淡い希望だった。絶望がヒタヒタと近づいてくる。俺にクーデルカと戦えと言うのか。無理だ。仮に勝利したところで、ディートリヒに殺さないでもらえる保障はない。「検討します」とか「努力します」とか「善処します」とかいう言葉は、往々にしてそんな気はさらさらないことを示している。ディートリヒは自分の手を汚さないため、あるいは俺たちをもてあそぶためだけにこんな提案をしているに違いな…
「……ッ!?」
待て。なんかクーデルカが空中に指を動かし、光の線で魔法陣のようなものを描きあげていく。猛烈に嫌な予感がした俺はその場から飛び退いた。
その直後、俺の思考は中断させられた。砲弾のような突風を受けて床の上を転がる。腹のあたりからグチャリと水音がした。手を這わせると、コンニャクみたいな冷たいグニグニしたものに触れた感覚が走る。腸だった。腹が切り開かれ、腸が外に飛び出している。
「うわあああああ!?」
痛みはそれほどないが、精神的なショックは計り知れない。何より、攻撃してきた相手が問題だった。この期に及んで、ディートリヒから攻撃されたのではないかと信じたい自分がいた。彼は傍観に徹している。誰がやったのかは明らかだ。
クーデルカは覚悟を決めた表情で、俺の方に手を向けていた。何を考えているのか手に取るようにわかった。死にたくないのだ。たとえディートリヒの提案が守られるかどうかわからない約束であったとしても、一分一秒でも長く生きるためには従わざるを得ない。戦うしかない。その気持ちは痛いほどわかる。
だが、これはあんまりだ。有無を言わさず先制攻撃か。泣きたくなる気持ちを抑え込んで立ちあがった。むしろ感謝すべきなのかもしれない。遠慮は無用だと体でわからせてくれたのだから。やけくそ気味にそう開き直る。
飛び出た腸を強引に腹の中へ押し込んだ。アンデッドでなければ痛みにのたうちまわり、勝負にもならなかっただろう。ひとまず、怪我のことは忘れることにする。今は勝つ算段を考える方が先決だ。




