8話
「呆れた。かなりの高純度聖水ね。そんなオモチャまで用意して私と遊びたかったの?」
「減らず口を叩くな。いかに真祖といえど、これを受けて無事では済まない。お前を倒すために苦労して手に入れたんだ。泣き叫びながら命乞いでもしてくれなきゃ甲斐がない」
「お逃げくださいイライザ様!」
小瓶の中身は聖水らしい。RPGだとアンデッド系モンスターにダメージを与えたりするアイテムだが、どうもそんなに生易しい効果で済むシロモノではなさそうだ。実際、見ているだけで体が震えてくる。
「さあ姉上、何か弁明はあるかい? あなたが殊勝な態度を見せれば、僕もこの手を緩めるかもしれない」
心にもない言葉だろう。ここまで来てヴァイデンが姉上を許すとは思えない。最期に無様を姿を見て嘲笑ってやろうという意趣返しだ。そして、姉上もそんな彼の気持ちを理解している。
「こんなことをしても意味はないのよ、甘えん坊のヴァイデンちゃん。あなたは永遠に私の弟。私の眷属なんだから」
ヴァイデンは特に反応を示さなかった。姉上が下手に出るようなことはないと彼自身わかっていたのだろう。何も言うことなく、小瓶を投げつけた。
空中を舞う小瓶。ディートリヒが金切り声を上げて叫んでいる。うつむいた姉上の表情は長い前髪に隠れてうかがえない。小瓶は彼女の頭にぶつかり、聖水がふりかかる――
はずだった。
「な、に……?」
小瓶は割れていない。姉上の前髪が優しく受け止めていた。まるで意思を持った蛇のように、髪の毛が動いて小瓶をキャッチしている。
とっさにヴァイデンは空中に魔法陣を描いた。目にもとまらぬ速さで陣を書き上げていくが、それが完成するよりも早く姉上の髪が襲いかかる。腰まであった長髪はさらにその長さを伸ばし、黒い波のような奔流の中にヴァイデンを飲みこんでしまう。
「馬鹿な! なぜ能力が使える!? 僕の魔法は身体的拘束のみならず、能力の行使すら妨げる上級魔法! なぜ平然としていられる!?」
「これでも驚いているのよ。あの意気地なしのヴァイデンちゃんが、こんなに用意周到に私を殺す準備をして待ち伏せていたのだもの。ええ、驚いた……」
ヴァイデンは、さっきまでの姉上と立場が逆転し、髪の毛にぐるぐる巻きに拘束されて身動きが取れなくなっている。
「まさかこの程度の魔法で私を止められると思われていたなんて……お姉ちゃんびっくりよ」
姉上はほほ笑む。彼女を縛り付けていた鎖はひび割れて弾け飛んだ。それに対して、ヴァイデンもただ呆然とされるがままになっていたわけではない。雄たけびをあげて髪の中でもがいた。さすが同格の吸血鬼、ブチブチと髪の毛を断ち切って拘束から逃れ始めている。
「まあ、痛いわヴァイデンちゃん。お姉ちゃんの髪を引っ張っていじめないで」
姉上の髪の毛が盛り上がり、その隙間から何かが出て来る。それは巨大な眼球だった。サッカーボールくらいはある大きさの血走った眼球が20個くらいボコボコとせり出してくる。髪の中にうずまったものもあれば、外にこぼれ落ちたものもある。その眼底からは視神経らしき肉の紐が伸び、髪の中につながっていた。
思わず言葉を失うような光景だった。その眼球を見た瞬間、自分の体の全機能が強制停止させられたかのような錯覚に陥る。全く体に力が入らない。金縛り状態だ。あの眼球には何らかの状態異常を引き起こす力があると思われる。
「ぐ、うっ……!」
ヴァイデンも状態異常を食らったのか、動きが鈍っていく。もう少しで脱出できるところまで来ていたが、再び髪の毛に捕らわれてしまった。
「こうしていると、昔を思い出すわ。あなたが小さい頃、日中に庭を走り回って日焼けして……泣きべそをかきながら帰ってきたことがあったわね。そのときもこうやって、私が縛りつけながら塗り薬をつけてあげたわよね?」
「や、やめろ……!」
姉上の手には聖水の小瓶が握られている。これから行われるであろう惨事を予想し、ヴァイデンの顔が青ざめている。
「あのときは座薬と間違えて、薬をあなたのお尻に突っ込んでしまったわ。まあ、私たったらはしたない。……今回もあのときみたいにお尻に入れてあげようかしら?」
「姉上ええ!?」
「ふふ、冗談よ。今度はちゃんと“患部”に塗ってあげるわ」
髪の毛がうごめき、拘束の一か所に穴を空ける。その場所はヴァイデンの胸の真ん中、その穴に姉上が自分の手を差し込んでいく。ずぶずぶと肉と骨を貫きながら、細い指が沈み込んでいく。
「あっぎ、やべで、ああああ!」
その奥で掴み取ったモノを引きずり出した。それはいまだに鼓動を続ける心臓。吸血鬼の弱点。傷口がすぐに再生を始めて肉が盛り上がってくるが、それを押しとどめるように髪の毛が入り込み、邪魔をしている。
ヴァイデンはまだ死んでいなかった。胸の中から心臓をえぐり出されて(かろうじて太い血管はつながったままの状態)なお生きている。すさまじい吸血鬼の生命力だが、いっそ楽に死ねた方が幸せなのではと思ってしまう。
「姉上ぇ! わかりましたあ! もう貴方様に逆らうようなことはしません! ロリコンも止めます! 姉上は年増ではありません!」
「あらそう、良かったわね」
「ですから、どうか、どうかっ! それだけは勘弁を……!」
「もういいのよ。最初から言っているでしょう? 私は怒っていないし、許すも許さないもない」
姉上が瓶の蓋を空ける。鼻の奥が焼けるような臭気がここまで届いてきた。彼女の手の中で心臓が震える。嫌だ嫌だと駄々をこねるように鼓動を早くしている。
「処分しないといけない“お人形”が一つ増えた。それだけの話だもの」」
一切の容赦なく、聖水がふりかけられた。シーザーサラダのドレッシングみたいな粘性の高いドロリとした液体が、心臓の上に降り注ぐ。肉に触れた液はじゅわりと音を立てて沁み渡った。
「あっごび……バアアアアアアアアアボボボボボボボボボ!!」
ジェットエンジンのような絶叫。想像もできないほど壮絶な痛みに襲われているのだろう。ヴァイデンは頭を振りみだし、白目をむきながら赤い泡を吹いて叫び続けた。
「ボッ、ボボ……」
やがて燃料が切れたように絶叫はおさまっていき、沈黙した。心臓は姉上の手の上で腐った果実のように黒ずんで朽ち果てていた。彼女が手を閉じて握りつぶすと、くしゃりと軽い音を立てて灰が舞う。
その灰の中から一粒の赤い宝石が現れた。燃えるように紅いルビー。それを手にとって、彼女はキスをする。
「さようなら、私のかわいい弟。次はもっと使えるドウグを作らないとね」