★35話
「今、ここで、ですか?」
「今、ここでだ」
頭を抱える僕の姿がよほど哀れに見えたのだろうか。祖父は自らの剣術の真髄を教えると言い始めた。
「……拝聴いたします」
僕は姿勢を正す。今は休むことしかできない。ならば、話を聞く時間はある。今まで指導らしい指導を何一つしてくれなかった祖父が初めて言い出したのだ。教えてもらえるというのなら素直に聞こう。
「お前は儂の元でどんな修行をした?」
「素振りと足運びです」
一秒も悩むことなく答える。実に簡潔な回答である。これ以上に何もないと言うのだから、いっそすがすがしい。
「そうだ。その修行には何の意味がある?」
何の意味もないと答えたかったが、それを言うと僕がこの一年を本当に意味のない時間として過ごしてしまったかのようだ。何かしらの理由をつけたい。
「反復練習することで、基本の動作を体になじませます」
「そうだ。では、お前はその修行によって強くなったか?」
今度こそ、黙らざるをえなかった。以前より衰えたとは思わないが、強くなった実感は少しもない。僕が答えずとも、その内心を祖父ははっきりと言葉にした。
「そうだ。お前は強くなっていない」
「……では、これまでの修行は何だったのです? 全て無駄だと?」
「お前には戦いにおいて最も重要なことを教えていない。だが、お前はそれを既に知っているはずだ。それは何だ?」
立て続けの質問に気が滅入る。ただでさえ寝不足で働かない頭を無理やり動かすが、あまりにも漠然とした質問に、答えは出て来なかった。
「例えば、乗馬。お前は初めて馬に乗ったとき、最初からうまく手綱を取れたか?」
「いえ、最初は戸惑ったと思いますが」
「なぜ」
「馬に慣れていないからでしょう」
「ではそのとき、お前は何を考えて馬に乗った?」
正直、そんな昔のことは覚えていない。いつの間にか乗れるようになっていた記憶しかなかった。推測で答えるしかない。
「またがっているだけで必死でした。何かを考える余裕はなかったかと」
「そうだ。お前の頭の中は、馬の背にまたがり、その上でバランスを取ることだけに集中していた。それ以外のことを考える余裕はない。では、今はどうだ。馬に乗ったとき、何を考える?」
「それは……目的地への道筋やら、かかる時間やら、馬を休ませる機会はどうするかなど……」
「そうだ。乗馬に慣れたお前は、もはやいちいちバランスの取り方など考えずともよい。剣術もこれと同じ。戦いの最中において、いちいち剣の振り方や足運びを考えている“余裕はない”。なぜなら、他に考えなくてはいけないことが山ほどあるからだ」
人間の頭の使い方には限界があると、祖父は言った。練習しておけば体で覚えられることを、いちいち戦場に持ち込んでいては思考のリソースを奪われる。だからこそ反復練習を繰り返し、剣に“慣れる”ことが必要なのだという。
「考えずとも繰り出せる剣技が『型』だ。どの剣術にも型はある。あらかじめ決まった動きをなぞるため、その動作をするまでの過程を反射的に処理できる。ゆえに速い。では、型にはまった練習をしておけばどんな相手にも勝てると思うか?」
そんな甘い話はない。動きが決まっているということは、先が予測されやすいということでもある。初見ならば強いだろうが、一度型を見破られた相手に対してはむしろ悪手となるだろう。
「型を使った戦い方を『即』と呼び、頭を使った戦い方を『応』と呼ぶ。応とは、戦況に合わせて型を使い分ける能力だ。型には型を破る型もある。剣士は、いくつもの型を最適な状況において正しく組み合わせることで一つの剣術となす。これが『即応連理』。剣術の一つの理想形だ」
戦士に必要な能力とは、思考力だと祖父は言う。戦闘における一挙手一投足がパズルのピースであり、それらを瞬時に正しく組み合わせ、相手に先んじることこそが重要なのだと。有限の思考力の中で、何を考え、何を考えないか、それを選択する力が求められると。
「これが一般的な剣術の理想論。そして我らスリーヴス双剣流の真髄はその逆を行く」
「え、逆、ですか?」
じゃあ今までの話は何だったんだ。逆とはどういうことなのか。
「開祖ルイス・スリーヴスはもともと一刀流だったと言われる。剣に“慣れ過ぎた”ゆえに両手に二つの剣を持つようになった。その剣には『応』がない。思考を挟む余地なくして敵を屠る『即』の剣技」
戦っているとき、極度の集中の果てに夢の中にいるような心境になることがある。呆けているのではない。ただ、体がどうすれば勝利に至るか知っているかのように自然に動くのだ。自己を超越し、まるで神の手で踊らされているかの如く。
開祖ルイスにとって、それが戦いの日常だった。ひとたび剣を握れば自らが考えるまでもなく剣が動く。自己を伴わぬ剣。彼は生涯、鍛錬において素振りと足運び以外のことはやらなかったという。
つまり、スリーヴス双剣流の真髄とは、『応』の領域すら『即』となるまでひたすら鍛錬を繰り返せという滅茶苦茶なものだった。
「……ただの精神論じゃないですか」
「どこの剣術も、真髄なんてそんなものだ」
身も蓋もない締めくくりで話は終わった。大きなため息をつく。
祖父はこの真髄を僕に体得させたかったのだろうか。だから、反復練習しか教えなかったのか。
話を聞かされた後だから余計に思う。やはり、型の練習だけでは駄目なのだ。きちんと組手をして、実戦の中で戦いを磨かなければ『応』の力は身につかない。一人でどれだけ練習をしてもそれで鍛えられるのは『即』の力だけなのだ。
開祖ルイスの話は眉唾物だが、彼のような才能があるのならまだしも、僕ごときがいくら一人で頑張ったところで伝説の英雄みたいな力は手に入れられない。そんな夢を見られる年ではなかった。祖父は僕に何を期待していたのやら……
祖父はそれきり黙ったままだ。会話は途切れた。何を考えているのかわからない泰然とした様子で座っている。この人はいつもそうだ。感情を表に出すことがない。妹が帰って来なかった日だって、今と同じような状態で特に何か話すこともなかった。剣術の真髄について話したことは例外中の例外みたいなもので、彼がこんなに何かを語ったことは今までになかった。
「……少し、周囲の様子を見て来る」
祖父が立ちあがった。夜の森を見回る必要などない。単独行動は危険だ。いったい何をしようというのか。
「お前はここに残れ」
「しかし」
「すぐにもどる」
何かを感じ取ったのだろうか。祖父は魔物の気配に敏感で、捜索中も進路をよく変えることがあった。やむを得ず魔物と遭遇することもあったが、僕一人でも対処できる程度の戦闘で終わっていた。
何かがこちらに近づいているのか。恐怖心に駆られる。この森は普通ではない。特に、ここ数日は明らかな異常が起きている。
昨日も一昨日も、森の中に轟音が幾度となく鳴り響き、木がなぎ倒される音が遠くから不定期に聞こえてきた。ただの厄介な魔物では済まない存在が人里に近づいてきている。奥地から逃れてきた魔物たちが活発化している。僕の神経をすり減らす大きな要因でもあった。
一月前くらいから、村の祈祷師は吸血鬼が現れたと騒いでいた。聖鏡が曇り、その紋様から占った結果だと言うが、信憑性は低いと思っていた。古臭い占いの結果だと。だが、次々に起きる森の異変を前に楽観できる状況ではなくなっていた。
たとえ下位の吸血鬼だったとしても、僕にはとても太刀打ちできる相手ではない。もし本当に吸血鬼が現れてしまったら、祖父に頼るしかない。
いや、老いた祖父にかつての実力はどれほど残されているのだろうか。いかに過去の英雄だとはいえ、今はもう剣を置いた身。魔族の中でも強大な勢力を築く吸血鬼と渡り合えるだけの力はあるのか。
それでも僕は動けなかった。散々心の中で罵倒した相手に頼らざるを得ないという不甲斐なさに歯を食いしばる。森の奥へと消えていく祖父の後ろ姿を見送ることしかできなかった。




