★34話 「元剣聖ジョン・スリーヴス」
サブタイトルに★マークがついている話は主人公以外の視点となります。
夜の森は、人が踏み込んで良い場所ではない。まして、この森は聖王国で最も広大な面積を誇る西の辺境『リウェム大森林』。魔物がひしめく未開の地である。一般人が不用意に入れば命の保障はない。
そんな森の中に僕たちはいた。野営の準備を終え、たき火の前に腰を落ち着けているが、気はどうしようもなく逆立っていた。森のざわめき一つにも過剰な注意が傾き、神経が疲労していく。無意識に膝を揺すっていた。
この場所には、僕ともう一人、合わせて二人の人間しかいない。たき火を挟んで僕の前に座る老人が、おもむろに口を開いた。
「先に休め」
短い言葉。この人は普段から多くを語らない。不寝番の順番のことを言っているのだろう。僕の疲労を気遣っての言葉かもしれないが、今の僕にとっては気遣われたことにもいら立ちが募る。
この老人はジョン・スリーヴス。一昔前なら、その名を知らない王国の戦士はいなかった。剣聖ジョン。武を極めた一人の到達者として羨望を集めた英雄だった。
だが、それも今は過去の栄光だ。いまや彼は“元”剣聖。最高峰の座から引きずり落とされた敗者である。それも齢十にも届かない幼い少年に敗れたというのだから、人々の失望は大きかった。それが三年前の話である。
剣聖の座を奪われた彼は、その日から剣を置いた。彼自身も自分の実力に失望してしまったのだろう。気持ちはわからなくもない。そして身を隠すようにここ、リウェム大森林の開拓村へと移り住んだ。
たった三年の月日だが、彼の名声を過去の遺物とするには十分な時間だった。もはや人々の噂にジョンの名があがることはない。英雄の末路とは、往々にしてこんなものなのかもしれない。人々の関心は新星へと寄せられ、古い名声はあっけなく忘れ去られる。英雄を殺すものは、敵の刃だけではないのだ。
そんな元剣聖ジョンは、僕の祖父だった。三年前のあの日まで、僕にとって彼は人生の目標だった。騎士の家系に生まれた僕は、常に祖父の英姿を見て育った。いつも戦場を渡り歩き、家に留まることのない多忙な彼と接する機会は少なかったが、それでも最も尊敬する戦士だった。
それだけに彼の失脚を見た僕の失望は誰よりも大きかった。世間の非難から逃げるように家を出て、辺境の村に移住した祖父の姿に絶望した。戦士として、決してこうはなるまいと心に誓った。
そんな僕がなぜ祖父と一緒にこんな辺境にいるのかと言うと、端的に言えば修行のためだ。立派な騎士となるため鍛錬を怠ることはなかったが、最近は剣の腕に伸び悩みを感じていた。そんな僕を見て父が、祖父の元で剣を学んで来いと送りだしたのだ。
半ば、強引に追い出される形で家を出た。父にも焦りがあったのだ。もともとスリーヴス家は騎士階級の中でも格の高い武門ではない。祖父の活躍によって支えられていた部分は大きかった。それが祖父の失脚により、これ幸いと周囲の貴族につけ込まれ、家格はさらに傾いている。父は、何が何でも僕に英雄としての才覚を見出したかったのだろう。
それでもいい。戦士として祖父の生きざまには共感できないが、それでも彼が優れた剣の使い手であることを疑ってはいない。学ぶべきことは多いと思った。だから、僕がこの地に放り出されたことを恨んではいない。僕だけならそれでもよかった。
父が送り出したのは僕だけではなかったのだ。僕の妹、カーラまで一緒に家を出された。まだ11歳の幼女である。父は妹まで戦士として育てあげるつもりなのだ。過酷な修行はまだできずとも、幼いうちから祖父のもとで戦士としての精神を学べと。
今思えば、あのとき何としてでも止めるべきだったのだ。そうしておけば、こんなことにはならなかった。
四日前のことだ。カーラの行方がわからなくなった。森に薬草を摘みに行ったまま、帰ってこなかった。
だから僕たちはこの森にいる。危険な夜の森だろうと関係ない。大切な妹を探し出すため、捜索の手を休めるつもりはなかった。
パチパチと、たき火の音だけが響く。会話はない。僕たちは必要最低限の言葉以外かわすことはなかった。
この捜索を、祖父は初め一人で行おうとしていた。俺は村に残れと言われたが、黙って待つことなんてできない。何と言われようが、たとえ一人でも俺は森に入るつもりだった。むしろ、俺が祖父の心配をしたくらいだ。いかに過去の英雄だろうと老いには勝てない。
目の前に座る老人は、まさに年相応の老いを感じさせた。三年前はこうではなかった。牙をもがれた獣も同然、腰は曲がり、やせ衰え、ただの老人になり下がっている。
開拓村に来て一年が経つがが、はっきり言って彼から学ぶことは何もなかった。何の具体的指導もしてくれないのだ。言われたのは基本的な足運びと素振りの反復練習のみ。今まで散々やってきたことの延長でしかない。
何か僕の素振りの仕方に間違いがあるのかと思って尋ねたが、「正しくもあり正しくもなし」と煙に巻くような答えしか得られない。もはや僕の祖父に対する評価は地に落ちていた。これなら王都に帰って市井の道場に通った方が遥かにマシである。
開拓村での生活は過酷だ。体力を鍛えるという点では修行になっただろう。それ以外に、この村で得られたものはない。剣の修行よりも開拓のための力仕事をする時間の方が多いのだ。父には再三に渡り、早く帰らせてくれと連絡を送ったが、全て無視されている。
帰る場所のなくなった僕にとって、唯一の救いは妹の存在だった。何の贅沢もできない、娯楽もない、子供だろうと一日中働かせられるこんな場所に連れてこられたというのに、カーラは元気な笑顔を振りまいていた。毎日くたくたになって帰ってきた僕を迎えてくれるその笑顔にどれだけ救われたことか。
自分から率先して働く子だった。力仕事がまだできないカーラは薬草摘みをよく引き受けていた。森の外縁部とはいえ、魔物が絶対に出ないわけではない。カーラは剣術の手ほどきを受け、魔物と遭遇したときの対処法も習ってはいたが、それでも11歳の女の子であることに変わりはない。
僕は最初、反対した。実際に、薬草摘みに行って死んだ子供はそれなりの数いた。危険な仕事だ。だが、祖父はカーラを止めなかった。したければしろと言っただけ。結局、カーラの強い希望に押し切られて黙認する形となってしまった。
どうしてあのとき止めなかったんだ。なぜ行かせた。僕の怒りは祖父に向いていた。これまで胸の内に溜めこんできた鬱憤と、今回の大惨事が重なり、自分でも抑えが効かないくらい感情が乱れる。憎しみの領域にまで差しかかっていた。
「休め。そんな調子では子鬼にすら遅れをとる」
祖父の言葉を受けて、カッと頭に血がのぼった。痛みを覚えるほど固く拳を握りしめる。
「誰のせいで……!」
その後の言葉は辛うじて飲み込んだ。ここで祖父を責めたところで意味はない。僕に祖父を責める権利はない。そして、現に僕は疲労している。この四日、ろくに眠ることもできなかった。頭では理解できている。
四日。四日だ。カーラが行方不明となってそれだけの時間が経った。最初は外縁部を探した。それでも見つからず、村から日帰りできないほど深い場所まで捜索範囲を拡げている。だが、これだけ探して見つからない。その事実は、どうしようもなく最悪の結果を指し示していた。
僕は頭をかきむしってうつむいた。現実を受け入れることなんてできない。もしかしたら、妹は村に帰ってきているのではないか。僕たちが帰還したときには家で待っており、またあの笑顔でおかえりと迎えてくれるのではないか。そんな淡い願望ばかりが頭をよぎる。
「これより、スリーヴス双剣流の真髄を、お前に教える」
唐突に、何の脈絡もなく、祖父がそんなことを言い出した。




