兵士
屋敷の2階。客人をもてなす広間にガブリエルはいた。彼の周りには帝国の兵士が6人立っている。彼らは暇つぶしがてらにガブリエルの腹を蹴ったり、頭を踏みにじったり、剣で小突いて見たりと貴族をいたぶることに余念がない。
兵士もいるにはいるが、この場には兵士に似つかわしくもない人相をした男たちもいる。おそらく、帝国(今はドミティウスが作ろうとする国らしきものに成り果ててしまっているが)が安い金で買い雇った者たちなのだろう。ろくに鍛錬もせず、技量もない。しかし彼らはやけに自慢げに鎧を着込み、我が物顔でガブリエルの前を歩いている。
彼奴等は顔も背も違うものたちだが、唯一己よりも上位にいる人間を叩きのめしたいという共通の衝動を持っている。とりわけ、貴族に対しての苛立ちはひときわ強いものだ。普段の生活のままであるなら、絶対に近寄ることの叶わなかった貴族様様が今自分たちの足元に転がっている。これが可笑しくてたまらない。
己がこんな身分になっているのは、すべて貴族のせい。己が犯罪を犯しているのは、すべて貴族のせい。己の商売がうまくいかないのは、すべて貴族のせい。金を持っている人間はすべて悪であり、そのものを虐げることこそ彼奴らにとっての正義なのだ。それがたとえ見当違いの怒りであろうと、たとえ己の責任を棚にあげた都合のいい苛立ちであろうとぶつけることのできる人間がいれば一向に構わないのだ。
厚い靴底で顔を踏みつけ、侮蔑の言葉とともにガブリエルへ唾を吐きつける。目の中へと入った唾液は、眼球を刺激しかゆみと激痛をガブリエルにもたらす。恥辱と屈辱と激痛。心と体双方を痛めつけられ、ガブリエルは歯を食いしばり耐えることしかできない。
この体がもう少し若ければ、悪党たちに立ち向かえるだけの技量と度胸があれば、こんなことにはならなかったかもしれない。しかし、何度悔いたところで現状が大きく変わることはない。唯一、唯一エマをこの屋敷から逃せたことだけがガブリエルの心に満足感を与えてくれている。どんなに自分が痛めつけられようとも、我が娘が目の前で慰み者になるよりもずうっといい。そう思えばどんな痛みであろうと侮蔑であろうと、耐え忍ぶことができる。
僅かに残された余裕がガブリエルの頬を緩める。それを見た兵士の男は、己を嘲笑ったと憤り慢心の力を込めてガブリエルの腹を蹴りつける。何度目かの吐血を床に撒き散らす。よく磨かれた大理石の床は兵士たちの足跡とガブリエルの血によって汚れている。
ああ、また掃除を任せなければならない。家人たちに世話を焼かせるのが心苦しい。
ガブリエルは自分の体よりも床へと注意を向けていく。頬を床につけてみると、なんとも冷たい。痛みで火照った体を少しだけ冷まさせてくれる。
流石にやりすぎたと思ったのか、別の兵士が男の肩を掴み後方へと引き下げていく。男は未だ興奮覚めやらない状態だったが、少し落ち着いたのか床に唾を吐きつけると扉を開けて外へと向かっていった。
男を引き剥がした兵士が今度はガブリエルの見張りに着く。この男は他のならず者と違ってこの兵士はガブリエルに対して手を加えたりはしなかった。何故かはガブリエルにも分からない。ただの老いぼれを痛めつける趣味はないのか。そもそもそんな労力をするつもりはないのか。ただ、ガブリエルを見る兵士の目は冷え切り、ゴミでも見るように蔑みを含んでいた。
しかし、外からの物音によって兵士の視線はガブリエルから外されることになった。それまで悠々としていた(勿論警戒を払いながらである)兵士たちが、一斉に物音の聞こえた方へと目を向ける。
扉の先。つい先ほど男が出ていった扉だ。一様に同じ方向へ顔を向ける。得体の知れない音はそれ以降鳴り止んでしまうが、一度点いてしまった警戒心は容易に解かれることはない。剣を鞘から抜けば、一人また一人と扉に近寄っていく。そして一人の兵士がドアノブをつかみ一気に扉を開く。
燭台が並ぶ廊下の先には一つの影があった。そしてそれが何かもわからぬうちに、兵士の額は何かによって撃ち抜かれた。
ぐらりと背後に倒れゆく仲間の眉間を覗けば、そこには矢が一本突き立っていた。
外に自分たちではない何かがいる。そう理解するのに時間はいらなかった。しかし、それが分かったところでいざ剣を抜いて外へ出ようとすれば、その兵士の額にもまた矢が突き立つ結果となった。
二人の命がたった数秒のうちに失われてしまった。残された兵士はより警戒心を強めて外を見る。廊下の先。燭台の灯りが照らす中に射手が狙いを定めていた。一目見てそれがエルフであることは理解できた。そして、理解しているまにも兵士を狙いすましたエルフの弓矢が、風を切って飛来する。すんでのとことで扉の影に隠れたことで何を逃れる。エルフの放った矢は壁に当たり、へしゃげ、床へと落ちる。
ほっと息をついた。それもつかの間、二つの影が部屋へと押し入り、二つの兵士の首が宙に舞った。くるくると部屋の空を踊る首は重力に導かれて床へと落下する。頭部を失った兵士の首からは噴水のごとくつがあふれ、壁や床を赤く彩る。返り血を浴びて二つの影、男女は剣についた血を振り払う。
男には見覚えがなかったが、女の方は見覚えがあった。
「カーリア……、貴様……!」
最後に残った兵士、ガブリエルの前に立っていた男がカーリアをにらみながら言う。
「こんなところで知った顔に会うとは思わなかった」
カーリアは親しげにそう言うが、その手から刀を離す事は無い。それどころか、兵士へと構えて見せる。
「貴様……、帝国を裏切ると言うのか!?」
声を荒げ兵士は唾を飛ばす。
「裏切る?……まあ、そうね。貴方達のような馬鹿が信じて付き従っている国家もどきには、こっちは一切従うつもりはないわ」
「もどきだと……?帝国の軍人であると言う事で多めに見てやっていた物を、貴様も所詮亜人の糞供と同じだったようだな」
「糞?」
「ああ、そうだ。糞だ。我らの父祖達が築き上げた帝都の道道を貴様らのその汚れた足で踏みにじり、感謝するどころか一向に構いもせずに我が物顔で歩いている。我が皇帝陛下がお許しくださっているから良いことにだ!」
口舌激しくカーリアを罵倒して見せる兵士。カーリアだけではない、彼女の背後に見える亜人種を蔑んでいる。この地に現れ、脈々と繁殖の根を伸ばしてきた亜人という種族を蔑視している。
「だが、ドミティウス公が再び玉座に座られた今、もはや貴様らへ向ける良心などない。我らが帝国に服従する奴隷となるか、種を根絶やしにして滅ぶか。そのどちらしかない。それを選ぶことが唯一貴様ら下賤の民に与えられた権利だ。だから……」
「その方は、亜人種ではないように見えるけど?」
兵士が言葉を続けようとした最中、カーリアの言葉が割って入る。
「このお方は我らがドミティウス大帝に楯突いた。娘を差し出せば貴君の身を助けてやるという陛下の温情を無下にしてだ。それでも私の人の子、自分の子供を捧げたいなどと思う親はいないことはわかっている。だから、ガブリエル公の意思を尊重し私たちが見張っているのだ」
「それにしては、随分手荒い見張りだこと」
「死なせるなと言い使ったまでで、甚振るなとは言われていない。もちろん手心を加えている。しかし、私以上にそこにいた連中は貴族を毛嫌いしていてな、もう少し私が止めるのが遅ければ、死んでいたかもしれぬ」
淡々と語る兵士にはもはや貴族への敬意はかけらも残っていないことを、カーリアは悟る。もう、この男に何をいっても無駄だ。ため息とともに落胆をカーリアは吐き出す。
「わかった。もう、いい」
首を動かしてくたびれた様子を見せつつも、トントンと軽く飛び跳ね息をつく。そしてフッと短く息を切り兵士に向かって一足飛びにかけ迫る。
少しだけ目を見開いた兵士だったが、さすがは場数を踏んでいるのかすぐに剣を構えて応戦する。
カーリアの刀が下段より切り上げられ、兵士は剣を下に振るって防ぐ。鍔迫り合いも一瞬、兵士は足を踏み込み、肘打ちをカーリアの顎めがけて仕掛ける。これをカーリアは鞘を逆手に持ち、兵士の肘めがけて突きを放つ。硬いもの同士がかちあい、鈍い音が響く。兵士の肘には肘当てがされているが、衝撃までは防いではくれなかった。苦悶の表情を浮かべて後方へとあとずさる。
そこへ間髪入れずに弓矢が兵士を付け狙う。頭部へと矢は飛来するが、惜しくも兵士の命をとるには至らず、カブトによって弾かれる。しかし、矢の勢いによって兵士の顎は上向き天井を仰ぐ。目だけを下に向けると、そこにカーリアの頭部がわずかに見た。
まずい。兵士の直感によって体が動き、上体がそれながらもカーリアの頭部めがけて剣を振るう。横薙ぎに振るわれた剣に感触はない。ただただ空を切り横に大きく振るわれるだけだった。
唯一、唯一感覚としてあったのは、己の喉元をつきやぶる異物の感触だった。
兵士はゆっくりと首を引く。鋼色の刀剣とそれを握るカーリアが兵士を睨みつけている。
これは、やられた。諦めの言葉が脳裏をかすめる。それと同時にカーリアの方はより深く刀を兵士の首に突き入れる。
兵士の口からは血がこぼれ、両足に込められた力は血とともにつけていく。カーリアが刀を引き抜けば、兵士は膝から崩れ落ちる。支えられることも受け止められることのない兵士の体は己の血の海に沈み、最後の灯火が口を揺らしてこぼれると、それ以上動く事はなくなった。
肘を折り曲げて、内側の肘窩の部分に刀の腹を挟む。そして服に刀を擦り、引きながら刀についた血をぬぐいとる。
刀を鞘にしまいカーリアはジャックの方に顔を向ける。これで終わり。そう言いたげだった。




