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経路

 ジャックが目を覚ましたのは、三日目の朝。まだ日も明けきらない時分のことだった。

 ジャックの目が最初に捉えたのは、木板の並ぶ天井だった。目覚めたばかりで意識が薄ぼんやりとする中で、何気にいつかエリスの村で治療された時を思い出す。しかし、ここはあの村ではない。それくらいは寝ぼけたジャックの脳みそでもわかる。

 体を起こそうと、上半身に力を入れる。あばらや肩の節々がきりきりと痛むが、悶絶するほど痛みではなかった。 


 部屋の中には暖炉。天井から吊るされているウサギとキジの肉。それに、机と、机を挟むようにして置かれている二脚の丸椅子がある。身を起こしてあたりを見回しているジャックだが、ふと自分のふくらはぎのあたりに重みを感じた。そこに視線を向けると、誰かがそこに頭をついて眠っていた。ユミルだった。


 ゆみるは寝顔をジャックにむけながら、すやすやと寝息を立てている。彼女の足元には、布のかかった桶があり、桶の中には水が揺れ動き水面をたたえている。看病をしてくれていたのだろか。眉根をひそめながら、ユミルの顔を見つめる。

 

 思えばユミルとともに行動をしてからというもの、怪我をした時には随分と世話になることが多くなった。それは、ジャックの先頭において命を省みることが少ないから、必然的に起こる怪我だ。ユミルに迷惑をかけているというのは全てジャックに責任がある。


 本当に、このエルフには頭が上がらない。そんなことを考えながら、ジャックはふっと頬を緩める。

 その時だ。うっとうめき声をあげながら、ユミルの瞼がゆっくりと上がり始める。

 ぼんやりとする視界が焦点を合わせ、ジャックの顔を捉えるまで4秒ほど。包帯が巻かれた顔でいつものようにジャックは仏頂面でユミルを見る。


 ユミルの瞳に浮かんだものは、喜びと、それに相反する怒りだった。

 一瞬瞳が潤んだかに見えたユミルだが、さっと視線を鋭くしてジャックを睨む。


 「…先ほど、目が覚めた」


 ジャックがその言葉を言い終わるや否や、ユミルはジャックの顔を殴りつける。平手ではなく、拳で。

 正面を向いていたジャックの顔は、ユミルの拳によって真横に向けられる。衝撃の後に来る痛みが頬を伝って涙腺を刺激して来る。

 何をする。そう言いかけたジャックの口はその言葉を吐き出す前に、ユミルの拳が再び飛んできた。


 「あれだけ命を無駄にするなって言ってるのに、なんで聞かないのよ!」


 ジャックの両肩を鷲掴み、ゆさゆさと揺らしてユミルは語気を荒げる。


 「こんな傷を負って、後先考えずに馬鹿みたいに突っ込んでさぁ!何、そんなに死に急ぎたいわけ!?」


 「ゆ、ゆらすな。傷が開く…」


 首の座らない赤子のように、ユミルが肩を揺するたびにジャックの首が前に後ろに揺れに揺れる。


 「だいたいなんなのよ!人にはいうだけ言って、こっちの話はろくに聞きやしない。こんな調子のいいことなんてないわよ。何様のつもりよ!それにね。あんたがここで死んだら私だけじゃなくて、エリスまで悲しむのよ。それがこれからあの子を救うって人の考え方なの。ふざけんじゃないわよ!」


 「…すまん」


 「謝ったら済む問題ではないの。もっと、考えてよ…。お願いだから」


 ジャックの肩を揺する力は、次第に弱くなり、とうとうジャックの肩に手を乗せたまま動かなくなった。

 ユミルは顔をうつむかせ、ジャックの視線から目をそらす。耳をすますと、鼻をすする音が聞こえてきた。


 「泣いて、いるのか」


 ユミルを気遣うように、ジャックが言葉をかける。だが彼女からの返答はない。

 ただ、ユミルはジャックの肩から首に手を回し、体を寄せる。そして、ジャックの胸に額を当てる。


 「……あまり、心配をさせないでよ」


 喉を震わせながら、ユミルは呟く。突然のことに手をベットの淵に下ろしたままだったジャックだった。が、どういう気まぐれか、その手をユミルの後頭部に回し、エリスにするように、優しくユミルの髪を撫でる。


 「……すまん」


ジャックらしくもない優しい声色で、ユミルにそう呟く。

ユミルの気がすむまで、ジャックはユミルの胸の内にだき止める。そして、ユミルの感情の高ぶりが、ようやく落ちついたころ。扉をノックする音が、部屋の中に響いた。


 「邪魔するようで悪いが、話がある」


 家の入り口から、村長が顔を出した。

 ユミルは目に溜まった涙を手でぬぐい、ジャックの胸から離れる。


 「また、後でね」


 ジャックにそう伝えると、ユミルはその場から立ち上がり、村長の脇を抜けて外へと出て行った。

 彼女とすれ違いに、ジャックの元に歩み寄って来る村長。おもむろにテーブルのそばに置いてある丸椅子を持ち、ジャックのいるベッドの横に置いて、座る。


 「怪我の具合はどうだ」


 「見ての通り。だいぶ良くはなってきた」


 ジャックの全身を包帯が覆い、傷という傷には塗り薬がべったりと塗られている。そのせいか、ツンと薬草の香りがジャックの鼻を刺激する。


 「命が助かっただけありがたいと思え。襲撃がなけりゃ、テメェの首は今頃床に転がってただろうよ」


 「今は、しないのか。絶好の機会だぞ」


 「なんだ、殺して欲しいのか」


 そう言いながら、片手に携えた杖を握り、親指で杖の持ち手をくいと押し上げる。杖に仕込まれた剣が現れた。


 「……冗談だ。今はまだ殺さねぇでやるよ」


 バカにするように頬を歪め、村長は剣をしまう。


 「どういう、風の吹き回しだ」


 「テメェら人間どもに借りができたから。これで納得するか」


 「借り?」


 「この村を、村の民達を守ってくれた。理由はテメェらの命を守るためだろうが、それで救われた命があることは確かだ。さっきもおんなじ文言をテメェんとこの隊長に伝えて来たところだ」


 「…本気か」


 「嘘を言っているように見えるか?だとしたら、テメェの目がイかれてるだけだ」


 ジャックを小馬鹿にするように、村長は緩めた頬で笑みを浮かべる。犬歯が緩んだ口元からのぞいている。


 「俺は至極真っ当だし、頭がおかしいわけでもねぇ。借りを作って、そのまま踏み倒するのも俺の性分じゃねぇ。借りはきっちり返してこそすっきりするってもんだ。そうだろ」 


 「お前の性分など、知ったことではない」


 「それもそうだろうよ。お前は俺ではねぇし、俺もお前みたいな人間じゃねぇ」


 肩をすくめ、村長はおもむろに立ち上がる。

 彼の足が向かったのは、机の向こう側にある戸棚。その上から拾い上げたのは、一本のパイプ。最初に村長にあった時に吸っていたものだ。


 慣れた手つきで刻んだタバコの葉をパイプの先に詰め、マッチをする。短く二、三息パイプの吸い口から蒸しながら十分に熱を通し、そして、ゆっくりと煙を体内へと取り込んでいく。一旦口元からパイプをはなすと、顎を上向け、口から紫煙を天井めがけて吹き出す。


 「……大戦でな。俺の息子が、人間の兵士に殺された」


 おもむろに村長が口にしたのは、過去の記憶。煙とともに部屋の中に広がっていく村長の声は、一抹の寂しさを含んでいる。


 「バカのくせに張り切りやがってな。いの一番にテメェら帝国軍に向かって攻めていきやがった。親なら、戒めるなり、拳骨を食らわせるなりして止めるべきだったんだ、そん時の俺はあいつの姿が誇らしくてな。そのまま行かせちまった。……思えば、それが間違いだった」


 村長は言葉を切り、静けさを埋めるように紫煙を吐きだす。


 「奴は帝国軍の兵士に挑んで、そして斬り伏せられた。俺はそれを、息子が斬られるところをこの目で見た。それも目の前でだ。怒りに駆られてその兵士に魔法をぶつけようとしたさ。だけどな、息子はまだ生きていた。死に体でありながら、懸命に自分を斬り伏せた兵士の腕にしがみついてやがった」


 村長のいう息子が誰なのか。またなぜそれをジャックに聞かせるようにいうのか。ジャックはその訳を聞かず、ただ、村長の言葉に耳を傾ける。きっと村長の語る息子をジャックは知っている。


 「で、俺は息子が抑えているその兵士を、仲間とともに魔法で殺した。粉微塵になるまで、焼きに焼いてやった。……しゃべっているうちに思い出すもんだな。そん時の兵士の顔が、ちょうどお前にそっくりなんだ」


 肩越しにジャックに視線をやる村長。その目には怒りや、憎しみではなく、悲しみが宿っていた。


 「テメェを殺す理由は俺には十分にある。なにせ、テメェは息子の仇だ。だが、我らの同胞の娘を助けてからでも遅くはない。それまで、テメェを殺さないでおいてやる」


 「……ああ。それでいい」


 「ずいぶん素直だな」


 「俺の首であの子が助かるのなら、安いものだ」


 「……それが、その優しさが少しでも息子に向いていればと、思わないでいられんよ」


 パイプの葉を暖炉の中に落とし、パイプをテーブルの上に置く。

 そして、今一度ジャックの方へ足を運び、ジャックを見下ろす。


 「テメェの怪我が治り次第。帝都にいる阿呆に攻め入る」


 「手立てはあるのか。でなければ、無駄死にになるだけだぞ」


 「俺たちが何年の間テメェら帝国のバカどもとやり合っていたと思ってる。その間に帝都城の逃走経路も地下の構造も把握済みだ。そこを使って侵入すればいい奇襲ができるだろうよ。あの時も、そうして奇襲を仕掛けようと企んでいたが、その前に帝国に俺たちは負けちまった。だが、今回ばかりは勝たせてもらう」


 そう言い残して、村長は踵を返し、家を後にする。

 残されたジャックはそっとベッドに体を預け、天井を仰ぐ。


 確かに、村長の言う通り、侵入するとすれば地下か逃走経路を使うのが無難な策だ。しかし、そうやすやすとうまくいくはずがない。ジャックでさえ思いつく策を、ドミティウスたちが思いつかぬわけがない。間違いなく罠や魔物を伏せて待ち構えているに違いない。


 しかし、かといって正面から打って出るわけにもいかない。エルフの助力を得たとしても、微々たるものだ。到底、戦力差がうまるはずもない。そんな状態で魔物どもの中に押し入っていけば、格好の餌になるだけ。半日も経たずに部隊が崩壊するに違いない。


 わずかな可能性をかけて、逃走経路を辿って奇襲を図るか。それとも真っ向から勝負に出るか。わずかにでも勝機があるのは、前者であることはバカでもわかる。しかし、その勝機の確率は決して高くはない。無事で済むなどと言う甘い考えは、捨てなければなるまい。


 呆然と目の前に広がっている天井を仰ぎながら、ジャックは脳裏のうちで思慮に耽る。そして、首を横へ動かし、失われた腕に目を向ける。


 なんにしても腕がなければ話にならない。

 包帯のまかれた肩口を手で押さえる。傷はもうふさがっている。いくら力を入れて肩を握っても痛みはない。しかし、腕の痛み以上にあるはずのものがない空虚感の方が堪える。利き腕でなくとも剣は握れる。戦える。しかし、万全の状態でも勝てるかどうかも分からない相手に、負傷の身で敵うはずはない。


 サーシャに依頼した義手ができるまで3日を要する。ジャックが寝ている合間にその期間は過ぎている。向かいさえすればすぐにでも手に入れることができるはずだ。

 だが、不安はある。三日、たった三日で出来上がってしまったものがきちんとした代物になっているのか。エマが言うには。サーシャの天才の部類に入る人間らしい。その天才が作り上げる作品が、下手なものになるはずはない。そう信じたいものだ。


 ふと、記憶ついでに浮かんできたエマの存在。大学の中で彼女の姿を見つけることはなかった。しかし、この時はエマの名前が浮かんでからと言うもの、どういうわけか脳裏から離れなかった。

 なんだ。なぜ、彼女の名前がこんなにも引っかかる。浮かんだ疑問は答えを求めて思考をさまよい、ついには記憶を遡る。


 そして気づく。エマに引っかかっていたわけではないのだと。エマの背後にいる、貴族の背中。あの年老いたガブリエルの姿を追っていたのだと。

 しかし、これはまだ仮説の域をでない。思い切って踏み切るわけにはいかない。

 だが、もしジャックの考えていることが可能であるとするならば……。


 逃走経路、正面からの突入。そのどちらでもない、第三の選択ができるようになる。

 確かめねばならない。一刻も、早く。


 ジャックは片腕を支えにして身を起こすと、ベッドの淵から腰をあげる。足に力を入れようと試みるが、骨が軋み、痛みが走るばかりで、うまく力が入らない。なんとか歯を食いしばり、床を這いながら扉の方へ向かって進む。

 机の端に手をかけて、力の限り体を持ち上げる。上腕の筋肉がうなりをあげて盛り上がる。筋肉を支える骨が筋肉の膨張に従って悲鳴をあげ、痛みとなって苦しめる。


 思うように動かない体。自分の体だというのに、思い通りにならないことへのいらだちと屈辱、焦燥。それらの感情が痛みとともにジャックの脳内を駆け巡る。

 物音に気づいたのか、扉が開かれ、外からユミルが顔を出した。


 「ちょ、ちょっと何をしてるのよ?」


 ユミルはそう言葉をかけると同時に、ジャックにすぐさま近寄り肩をかす。しかし、ジャックはユミルの手を払いのけ、彼女の肩を鷲つかむ。痛みから力を加減することができず、震える指がユミルの肩に容赦なく食い込んでいく。


 「ちょっと、痛いって…」


 「大学へ…、エマに…、あわなければならない」


 「エマって、あのお嬢様?」


 「今すぐ、今すぐに…」


 「馬鹿を言うんじゃないわよ。その体で動ける訳ないでしょ。今は、安静にしていないと」


 ジャックの腕をたたき、跳ね上がったところで、ユミルは自分の肩からジャックの手を離す。そして、ジャックの脇に自分の肩をいれて、ジャックが立ち上がるのを手伝ってやる。しかし、ジャックの足はベッドへは向かず、依然として扉の方、外へと向かっていた。


 「駄目だって言ってるでしょう。けが人はおとなしく寝てなさい」


 ジャックの体を無理矢理ベッドの方へとユミルは向ける。

 ジャックが健常であれば、ユミルの力なんぞで歩みを止められることなどあり得ないのだが、今は重傷を負っている怪我人だ。自分の意思とは無関係に体の向きをかえられると、それに呼応して体のどこかから痛みが走り、やむおえずユミルに促されるままベッドへと向かう。


 「全く、もう」


 ジャックをベッドへと倒し、ユミルは息をつく。そして、机の近く似合った丸椅子を引き寄せてベッドの横に腰掛ける。


 「ねぇ。どうしてあのお嬢様に会いたいなんて思ったのよ」


 自分の膝の上に肘をおき、少し前のめりになってユミルはジャックに問いかける。

 ジャックは、腹の上に腕をのせて、ユミルに顔を向けずにいる。眉間にしわを寄せて、痛みに耐えているのを見せたくはない。そういう意図もあったが、大きくは己の意図したことを邪魔をしたユミルへの苛立からだった。

 少しの間が開いたが、ジャックの口がようやく開いた。


 「…まだ、確証がない。だから、エマに会う必要がある」


 「確証って、何のよ」


 「以前、ガブリエルの屋敷で、やつが言っていたことだ。覚えているだろう?」


 「…ごめん、全然覚えてない」


 首だけを動かし、ジャックは横目にちらりとユミルをみる。期待、といよりも、予想していたという落胆にもにた感情を浮かべていた。


 「悪かったわね。覚えていなくって」


 ふん、と鼻をならし、ユミルはそっぽを向く。少し可愛げのあることをしてくれるが、ジャックの心は一切の波もたたなかった。ジャックはユミルから視線をきると、再び口を動かし始める。


 「屋敷で奴はこう言っていた。『私が動かずとも、用がある者は自然と私のもとへやってくる。銀行の従業員しかり、彼のような軍人しかり、帝国の議員しかりな。』」


 「それがどうしたの…って、まさか」


 茶化すように言葉を紡いだはずが、言葉の途中でジャックの言わんとしていることにユミルは気がついた。


 「そうだ。あの屋敷だ。うまくすれば、あの屋敷から帝都、いや、帝都の城の内部へと潜り込めるかもしれん」


 「…でも、そう、うまくいくと思う?貴族様のところにだってあの皇帝の手先がいるかもしれないんでしょ」


 「どこへ行こうと、手先がいるに決まっている。少ないか、多いかだけだ。覚えている限り、あそこにはそう多くの兵士が滞在できる訳ではない。せいぜい小隊程度が限界だろう。そうなれば、罠だらけの逃走経路や敵の待ち構えている正面から入るよりも、いくらか安全に行ける」


 「それは、そうだけど…」


 「なんだ、何が言いたい」


 「その体じゃどうしようもないじゃない」


 申し訳なさそうにうつむきながら、ユミルはジャックの体を指差す。


 「私がどうなろうと、そんなことは些細なことだ。エリスを救うためならば、傷だらけであろうと戦わねばならない」


 「だからって、そんな体で戦ったらすぐにやられるだけよ」


 「……犠牲なくして得られるものなどない。帝都は死地も同然。例え私の体が健全そのものだったとしても、これまでよりも無事に生き延びられる保証はない。お前の言い分も最もだ、私とて分かっているつもりだ。だが、その覚悟無くしてエリスを救うなど到底できることではない。私の言い分もお前なら理解できるだろう」

 

 ジャックはユミルを見つめながら、言葉を続ける。


 「なあ、ユミル。私に何かあった時、もしも私がエリスを守ることができなくなった時、その時は……」


 「やめて。それ以上言わないで」


 ユミルの手がジャックの口の前に広がり、言葉を遮る。


 「……ユミル」


 「それ以上言ったら、また貴方をぶってしまうかもしれないから。言わないでいて。それに、そんなことエリスが望むわないでしょ。貴方が生きてこそなんだから。……もうこの話はおしまい。さあ、病人は病人らしくベッドに寝て安静にしてなさい。少しでも万全な体調にすることが一番なんだから」


 ユミルはそう言うと立ち上がり、ジャックに背を向けて家を後にしていく。

 揺れる金色の紙に後を引かれながら、ジャックはその背中を見送っていた。


 不意に、ユミルの背中を追うように自分の手がのばされていることにジャックは気がついた。慌てて手を引っ込めるが、その手を翻し、手のひらにじっと目を落とす。


 いったいユミルを引き止めて、どうしようとしていたのか。自分の頭では分からないが、己の体は彼女を引き止めようとしていた。条件反射のようにのばされた己の腕は、いったいなにがしたかったのか。分けも分からぬまま。ジャックは見つめていた手を後頭部に回し、枕に頭ごと沈める。


 天井は相変わらずジャックを見下ろし、何もかわることなくそこにある。もしも、天井に顔や意思があったら、困惑したまま顔をしかめるジャックをみて笑っていることだろう。


 同じ人間、もとい同じ二足歩行で言語を操る動物でありながら、ジャックはとんと感情というものが理解できない。もっとも、他人の感情をつぶさに理解できる器用な者など数少ないというのが、本来の所だが。


 痛む体を引きずったせいで疲れてしまったのか、ジャックのまぶたは彼の意識にはんしてゆっくりととざされていく。視界には薄ぼんやりと光が映り込む。しかし、意識が飛んでしまえば、光の有無など関係なくなっていた。

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