1-9
気がつけば、エリスはベッドの上で眠っていた。
柔らかい枕に頭を沈め、掛けられた布団が彼女の体を優しく包み込んでいる。
けれど、心地よさは感じなかった。
酷くのどが乾いていたから、エリスは身体を起こして水を飲もうと思った。
だが、毛布をはねて立ち上がった時、得体の知れない違和感を覚えた。
何かいつもと違う。
自分の身の回りをみてその違和感の理由がようやくわかった。
自分の寝ていた場所。そこはエリスの家ではなかったのだ。
けれど全く知らない家というわけではない。
家具の配置や壁に飾られた剥製などの装飾には覚えがあった。
右手には壁に明けられた四角い窓。
その隣に木目の扉。
正面には机と二脚の椅子が机を挟むように置かれている。
左手には暖炉が備え付けられていて、チラチラと火が揺れていた。
そうだ、ここは村長の家だ。
エリスは記憶の中を懸命に探し、ようやく室内の内装と合致する家を導きだす。
安堵したのもつかの間、新たな疑問が彼女の頭に浮かんでくる。
どうして、自分は村長の村で眠っているのだろう。確か自分の家で眠っていたはず。
一向に村長の家を訪れた記憶も、彼のベッドで寝ることになった理由も、何も思い出せない。
それでも、記憶の中に答えを探ろうと、うんと唸って頭を捻る。
その時、一人の男の人が家に入ってきた。
顔を向けてみると鎧を来た兵隊、もしくは兵士らしき男が玄関のすぐそばに立っていた。
エルフではない、人間の男だった。
男は家の内装に目を配る。
そしてエリスに目を止めると、素早く彼女の方へ歩み寄ってきた。
「言葉、分かるか」
それは人間の言葉ではなく、エルフ族の言葉だった。
あまり自信がないのか、男の顔に若干不安の色が見え隠れしている。
「うん」
「よかった……お嬢ちゃん、昨日の事は覚えているか?」
「昨日?」
不思議な事を聞く兵士だとエリスは思った。
だが、冗談や話の種にと思って口に出した様子もない。
いたって真剣に聞いていることは男の顔を見ればわかる。
訝しく思いながらも、エリスは思い出せる限り、昨日の出来事を男に言って聞かせる。
けれど、どういうわけか夜の事が思い出せなかった。
友達と遊んだ事。
村長と話した事。
父と母と一緒に食事を取った事。
それははっきりと思い出せる。
だが、なぜか夜にさしかかった辺りで頭が痛くなった。
まるで思い出すのを拒むように、鋭い頭痛が彼女を苦しめる。
「すまない。無理に思い出さなくてもいいんだ」
兵士の男はそう言うと彼女の頭をそっと撫でた。
男の口ぶりはまるで何があったのかもう知っているようだった。
自分の知らない、自分の記憶。それをエリスではない赤の他人である、この兵士は知っている。
自分の記憶を覗き見されて、その証拠を記憶とともに自分の頭から取り除かれてしまったようだ。
そんな気味の悪い感覚が、エリスの心に渦を巻き始める。
「待っていてくれ、今団長を呼んでくる」
兵士はそう言うと、エリスを一人残し家を出ていく。
そして、すぐに一人の男の人を連れて戻ってきた。
坊主頭の男。
先ほどエリスと話していた男よりも体には厚みがあり、無骨そうな顔をしている。
団長、と呼ばれた男は兵士の隣に立って何かをしゃべり始めた。
人間の言葉だった。
明瞭に聞こえるはずの言葉が、途端に一つとして分からなくなる。
だが兵士がすぐにエルフの言葉に翻訳してくれたため、彼女でも理解することができた。
「君を、これから孤児院に、連れて行こうと思っている」
「孤児院に? どうして?」
エリスの口にしたエルフの言葉。今度はそれを人間の言葉に置き換えて、兵士は団長の耳に聴かせる。
団長はそれを聞いて少し驚いているようだった。
「お嬢ちゃんは昨日の事、よく憶えていないんだよね?」
兵士がエリスに尋ねる。エリスは頷く。
団長は何かを考え始めた。それはすごく難しいことなのだろう。
手で顎をさすり、眉間には大きな溝が作られる。
それから数分も経たないうちに、団長の顔が兵士を向いた。
兵士は少し困った様子で顔をしかめた。
エリスの目もはばからず、人間の言葉で団長に何か言い返している。
だが、団長とて折れはしない。静かに、しかし確固とした口調で、兵士を説き伏せる。
何度かの言葉を交わした後、兵士が渋面を作りながら、エリスに顔を向ける。
「……あのな、お嬢ちゃん。落ち着いて聞いてほしいんだ。実は、この村の人はお嬢ちゃん以外にはもう、誰もいないんだ」
「いないって。そんなわけないじゃない。嘘言わないでよ」
「いや、嘘じゃないんだ。お嬢ちゃんは忘れているようだが、昨日の夜、この村は魔物達に襲撃された。その結果、生き残ったのはお嬢ちゃんだけ。他の村人は魔物によって殺されてしまったんだよ」
「そんなの……」
嘘だ。信じられるはずがない。エリスは言葉を続けようとした。けれど、口からは息だけが漏れ出し、言葉は一向に出てこない。
また頭痛がした。電流のように駆け抜けるそれは、先ほどよりも痛みは強い。エリスは目を閉じて、その痛みが治まるのをこらえてみる。が、一向に治らない。痛みはやがて彼女の頭の隅にあった、何かを呼び覚ました。
彼女の脳裏にとある光景が浮かび上がる。やがてそれは熱を帯び、彼女の目に鮮明に映し出されていく。
エリスの母が、彼女を見下ろしている。床下扉に手をかけながら、エリスにそこでじっとしているように言い聞かせている。
心配をかけまいとその顔には笑みが浮かんでいたが、どこかぎこちなく、母親が感じている恐怖を隠せるものではなかった。
エリスは母親を見上げながら、母親の言葉に従ってこくりと頷いてみせた。
『すぐに出してあげるから、そこでじっとしていなさい』
母はそう言うと扉を閉めてしまう。
母の悲鳴が聞こえた。鈍い音を立てて、何かが倒れた。
続いて床板がきしむ音が聞こえた。エリスは恐る恐る床板の隙間から外を覗いてみる。
暖炉の明かりに照らされて家の中が見える。そして明かりによって見えたものは、彼女の両親にたかっている奇妙な、何か……何か……。
ああ、そうだ。あれは魔物だった。魔物が母さんと父さんを食っていたんだ。
「いや、いやあああああ!!」
思い出した。思い出してしまった。
母と父が濁った目でエリスを見ていた事を。
魔物の口が赤く染まり、二人の臓物が魔物の口から垂れ下がっていた事を。
エリスは叫んだ。頭の中にあった記憶が今、堰をきって彼女の頭を浸食していく。思い出したかった記憶は、エリスの頭の片隅においやって置くべき、忌むべき記憶だった。
そうとも知らずに蓋を開けてしまった彼女は、脳裏にこびりつく光景を振り払うように、ただ闇雲に叫び続けた。