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安息

 両腕を組み合わせ巨大な拳を作り上げたトロールは、拳を大きく振りかぶり真下にいる兵たちに向けて振り下ろす。轟々と風を切る音を立たせながら迫る拳はさながら巨大な岩石のようであり、トロールの足元で戦っていた兵士達は互いに叫び合いながら必死で走り避ける。

 

 トロールの拳は大地をえぐり木々を押しつぶす。なぎ倒され悲鳴を上げながら倒れていく木々の中に混じって、運悪く逃げ遅れた兵士達の肉片と血液が飛び散る。もはや怒りも覚えず、トロールに対する恐怖ばかりが兵士達の頭に積もっていく。

 

 魔法や魔力を込めた剣でなければ攻撃を通すこともできず、並の剣では傷もつけられない。頼みのツナであるカーリアと村長は兵士達と同じくゴブリンと敵兵の相手に手一杯でトロールに近寄ることができない。また魔法を使えるもの達も隙をみてトロールに攻撃を仕掛けてはいるが、それも僅かなものでほとんどの攻撃はゴブリンに向けて放たれている。


 しかし、先遣隊やエルフとは打って変わって、トロールの子供のような攻撃は凄まじい威力となって兵士とエルフに襲いかかる。拳を振り下ろすだけ木々がなぎ倒され、足で地面を踏みつけるだけ広範囲に地面が陥没する。巻き込まれればもはや人の形も残らず、血の跡となって肉片を散らばらせる。

 こちらの混乱を見てか、エルフの奇襲によって逃げ去っていたゴブリンと敵側の兵士が次々に戦線復帰して戻ってきている。まだ耐えられるとはいえ、このまま押し切られてしまうのも時間の問題だった。


 エドワードは敵兵のうなじを剣の腹で殴りつけ、ゴブリンの腹に剣を突き立てる。敵兵は意識を奪わずゴブリンだけを殺す。しかし、実際殺さずにいるというのは相当難儀なことで、例えうまく気絶させたとしてもトロールの攻撃の巻き添えとなって死んでしまう。なんとか移動をさせようにもそんな時間を敵が与えてくれるわけもない。


 一匹を殺したところで後に続いて続々と敵ゴブリンが押し寄せてくる。まだ体力的には余裕があるとはいえど、一向に敵勢力を減らした気にならないというのは本当に嫌気がさしてくる。だが、気分で剣を手放すわけにもいかない。一瞬の休息の後に己を奮い立たせ再び敵へと立ち向かう。


 トロールの異常が見られたのは、ジャックが飲み込まれてから少し立った後。エドワードを含めた先遣隊とエルフたちが敵勢力との戦闘を行なっている最中に起きた。満足そうに愉悦にひたっていたトロールの表情が苦悶に歪み、口から血が溢れ出て行く。トロールの表情は苦しげに歪み、膝を地面につく。


 突然のことに混乱を隠せなかったのは、何も先遣隊とエルフだけではなかった。

 トロールの頸にいた魔術師は、しきりにトロールの耳に何かを叫んでいる。命令を下しているというよりも、焦りからただ闇雲に叫んでいるように見える。しかし、魔術師の頭に矢が突き刺さったことでそのやかましい口から声が出ることはなくなった。


 ぐらりと傾いた魔術師の体は、矢の力に抗うことのないまま背後に倒れて行く。後続の矢が肩や腹、足を突き刺していき、倒れかかる魔術師の体をさらに後方へと押していく。そしてついに魔術師の体はトロールの肩から離れ、宙に投げ出された。


 ゆったりとした滞空時間の後に待っているのは、落下。地面に吸い込まれるように、魔術師は頭から叩きつけられる。首と胴体がL時に曲がり、いやな音を立てて首の骨がはじけた。もとより死んでいるということはわかりきっていたが、これで晴れて死人を名乗るにふさわしいものになった。

 トロールは大切な主人が死んでいるにも関わらず、痛みに耐えかねて下バタと暴れている。無情にもトロールが乱暴に地面を叩く手が魔術師の体を潰し、かつての主人を見るも無残な肉片へと変えてしまった。


 絶好の攻撃の機会ではあるが、暴れるトロールに近寄ることもできない。弓矢による追撃は届くが、背中側に矢が突き刺さるだけで、効果があるようには見えない。

 おとなしくなったところを見計らって兵士たちがトロールに恐る恐る近寄って行く。虫のいきとなったトロールは、肩で息をして、おぼろげにどこかを見つめている。危害を加えなくとも、放っておけば勝手に死んでいくだろう。


 トロールが倒れ伏せたことで、息を吹き返しかけていた敵の士気は混乱とともに消え失せ、追い打ちにエルフと狩人たちの矢雨によって散り散りに追い立てられる。

 豚のような悲鳴と人間の叫びが入り乱れる森の中は、しばしの時間の後、ようやくもとの平静さを取り戻した。トロールによってなぎ倒された木々や、矢が突き刺さった死体の山に目をつぶればだが。


 舌を出し、だらしく表情を緩めるトロールの死に顔。ときおり体がビクビクとはね、肉塊になるまいという最後の抵抗をしている。もはやこちらに危害を加える余力は、トロールには残されていない。それがわかっていても、警戒心はエルフと先遣隊から剣を収めることをさせない。

 一人の兵士が恐る恐る剣先をトロールの肌に突つく。二、三回ついたところで、動かないことがわかると、ようやく剣を収める。


 「…何が起こったんだ」


 ぼそりと呟いたのは、エドワードだった。

 呆然とトロールの死体を見上げていた彼の元に、カーリアがやってくる。


 「トロールにローウェン殿が食べられました」


 「何?」


 カーリアからの報告にエドワードは耳を疑った。


 「それじゃ、あいつは今腹の中か」


 エドワードはトロールの死体を指差しながら、言う。彼の言葉にカーリアはこくりと頷く。


 「……時間はどのくらい立っている」


 「數十分は経過しているかと」


 「そうか。……奴が溶けていないことを祈るしかないな。カーリア、このデカブツの腹を破れ。あいつを腹の中ら出してやるぞ。おい!手が空いているものは手伝え!」


 エドワードの命令にこくりと頷いたカーリアは、刀に魔力をまとわせてトロールの横腹に突き立てる。そして縦に引き裂くと肉の収縮によって閉じてしまう前にほかん兵士たちが肉の間に剣を入れて支える。カーリアはさらに肉の隙間を広げるために横に切り裂き、さらに縦にさく。こうして人が二人ほど通れるほどの隙間を作ると、いよいよトロールの腹の中へと侵入する。


 「いたぞ!」


 先に入って言った冒険者の声が、トロールの腹の中から響いてくる。先遣隊の面々は列を成しながら次々に腹の中へと入っていく。 

 腹のなか、というより胃袋の外側だろうか。そこに人間の形をした何かがうつ伏せになって倒れていた。

 そこに倒れていた人間は確かにジャックだった。しかし、想像以上に彼の体は傷を負っていた。


 顔中にできた火傷。肌という肌がただれ、赤々とした血肉がむき出している。痛々しさに磨きをかけた彼の顔は、一瞬本当にジャックなのかわからなかったほどだ。

 すぐにエルフの村へと担ぎ込まれたジャックは、再びコビンの手によって治療が施される。村人、ならびに村医者の協力もあり、この時ばかりはちゃんとした治療を行えた。


 魔法の治癒に加えて、薬草による湿布薬。それに清潔な寝床。傷を癒すためにこの上ない援助を受けて、ジャックはベッドの上に横たえられる。そして包帯を傷に合わせて巻いていくと、ジャックの体はさながらミイラのようになっていく。

 

 ひとまず一命をとりとめたジャックだが、しばらくは安静にしたほうがいいと村医者は口添える。包帯の取り換えや汗ばんだ体を拭いてやるのはユミルとコビンが代わり番こに行うことになった。

 最初の夜。ユミルは桶に入れた水をジャックの眠るベッドの近くに置く。そして布を水の中に浸し、水面からあげると両手で布を掴み捻りあげる。布から滲み出る水分が桶の中へと滴り落ち、ポトポトと音を立てて水面に波紋を広げていく。


 ひんやりと冷たくなった布を一旦広げ、再度たたみ直す。そして畳んだ布をジャックのひたいに持っていく。彼の額には前もって濡れた布が置かれていたのだが、とってみればとっくに乾いてしまっている。高熱は夢の中にいるジャックでさえも苦しめ、時折苦しげに呻き声を上げている。


 乾いた布と濡れた布を交換して、濡れている方を額に当てる。少し楽になったのか、呻き声がだんだんと小さくなり

次第には静かな寝息に変わっていく。その様子をどこかホッとした表情を浮かべながら、ユミルは見つめている。

 

 毛布からはみ出るジャックの手にユミルは手を重ね、ただただ早く良くなってくれることを願ってあとは見守るだけ。どうか早く目覚めてくれとユミルは祈るが、そうすることでジャックが目覚めるのであれば苦労はない。

 焚き木が炎に当てられ跳ねる音が目立つ静かな家の中。時折ジャックの口から聞こえるうめき声にドギマギしながら、ユミルの看病は続けられた。

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