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黒煙

 血反吐を吹き出しながら、ユミルの意識が呼び起こされる。咳き込むたびに痛む体を手で支えながら、身を起こす。そして、あたりを見渡した。

 倒れているドミティウスの亡骸。そこらに散らばっている天井の破片。そして、血の海に沈んでいるジャックの姿。


 「ジャック…!」


 声を張り上げようとするが、喉の振動があばらに響き、激痛が体を刺す。あばらの何本かが折れているらしい。

 歯を噛み締め痛みに耐えると、ユミルは体を引きずりながらジャックの元へと近寄って行く。


 「ジャック、ジャック起きて」


 ジャックの肩を揺らしながら、ユミルは何度も声をかける。

 しかし、反応はない。

 片腕は切り取られ、あらぬところに転がっている。断面からは血が流れ、ジャックの顔は白く、まるで死人のようだった。


 ユミルがジャックの口元に耳を近づける。かすかな吐息が、ジャックがまだ命のある身であることを知らせている。だが、すぐに治療をしなければ死人の仲間入りするのも時間の問題だった。


 ユミルはジャックの腰から、鞘を留めていたベルトを取り、鎧の下から彼の腕に巻き付ける。血管を閉めたことでいくらか血の流れも少なくなる。


 後は助けを待つばかりだが、それがいつになるのか彼女には検討もつかなかった。唯一の出入り口である扉は、未だに閉ざされたまま。外から誰かがこじ開けてくる様子はない。もしかすれば隠された逃げ道も存在するかも知れないが、探している間にユミル自身がどこかで倒れてしまう可能性もある。


 ただジャックの生命力を信じて、外にいるエドワード達が助けにきてくれることを信じて、今は待つこと以外ユミルに選択肢はなかった。


 「大丈夫…。貴方は、こんなところで死なないわ。…死ぬはずがないわよ」


 ジャックに言い聞かせるように、また不安にかられる自分に言い聞かせるように。ユミルはジャックの耳元に向かって喋りかける。しかし、彼からの返答はない。ユミルの言葉は行き場を失い、暗闇の中をさまよう。


 ドミティウスの死体はそこに転がっているが、エリスの姿はどこにもない。

 おそらくはジャックが奴を倒し、ジャックをここにはいない何者かが襲い、エリスを連れ去ったのだろう。とユミルは考える。


 ユミルが気絶していた間に、何があったか。それをを知らないからこそ、そう考えるのが妥当だろう。まさか、エリスの体をドミティウスが乗っ取り、操っているなど思いつくはずもない。


 魔法光がぼんやりと照らし出している空間の中で、刻一刻と時が経過する。本来たった数分しかたっていなくとも、満身創痍のユミルにしてみればそれは数時間にも感じられる。それに加え、傍らに死にかけの男がいれば、なおさら時が進むのが早く感じてしまう。


 早く誰か来て。心のうちでユミルは切に願う。

 誰か、誰か来て。でないと、このままではジャックが死んでしまう。


 紐だけでなく、自らの衣服の一部を破り、ユミルはジャックの傷口に押し当てる。麻色だった布は一瞬で血が滲み赤く染まった。


 「お願い…。死なないで」


 ユミルの思いは心にうちにとどまらず、いつしか彼女の口から言葉として現れた。目の前に現れた死への恐怖と不安がユミルの内側を引っ掻き回し、感情をもてあそぶ。


 「お願いよ。お願いだから、死なないで」


 ユミルの口から放たれる言葉は、放たれる度に湿り気がましていく。

 沈黙は彼女に不安を与え、絶望を募らせて行く。


 ジャックが死ぬはずはない。何度も自分に言い聞かせても目の前に転がっているジャックの顔は生気がなくなり、しだいに白さを増している。

 もしかすれば、このままでは。そう思わないではいられない。 


 背後からの物音は、そんな彼女の不安を紛らわせるにはちょうど良かった。

 ユミルが振り返ると、扉がゆっくりと開いていき、外から光が差し込んで来る。


 視線の先には数人の人影が見える。だが、光を背にしていて顔は陰に隠れている。人影達はしだいにユミルの方へ近寄って、どんどんと大きく成長して行く。

 敵か。そう思ったユミルは腰から短剣を抜き取り、逆手にもって構える。満身創痍の身ではあるが、そう簡単に死んでたまるものか。その一心で目先の陰を彼女はきっと睨みつける。


 「ジャックさん、ユミルさん。大丈夫ですか!?」


 その声には聞き覚えがあった。ユミルに近づいてきたのは、帝国軍の鎧を着たコビンだった。彼はユミルを見つけると一目散に駆け寄って行く。


 「大丈夫ですか。お怪我はありませんか」


 「ええ…。私はたいしたことはないわ。それより、ジャックを」


 ユミルの視線を追って、ロビンの目は横たわるジャックの姿をとらえる。


 「分かりました」


 ユミルに向かってこくりとうなずいたコビンはジャックに近寄り、腕の止血に取りかかる。


 「治癒(ヒール)


 短く素早く呪文を唱え、両手をジャックの腕の断面にかざす。コビンの手に浮かんだ光がジャックの腕の傷口を覆い隠す。念入りに光をジャックの腕にまとわせ続ける。しばらくたつと光は彼の腕からきえ、傷口も見事に塞がっていた。


 「応急処置ですが、傷口は塞いでおきました。後は診療所でちゃんとした治療をうけるだけです。…待っていて下さい。今仲間を呼んできます」


 コビンはそういうとユミルをその場に残して、一人扉の方へとかけていく。

 ユミルはコビンの後ろ姿を見送る。するとどうだろうか。不安から一気に解き放たれた瞬間、ユミルの意識はふっとなくなり、視界は再び黒に閉ざされる。


 エドワードとともに仲間をつれてきたコビンは彼女の名前を呼ぶが、声に導かれることなく、ユミルの体は地べたへと吸い寄せられた。





 生き残った者たちはけがをしている者に肩をかし、負ぶさり、時には幾人かで抱え上げて忌まわしき谷から這い上がる。

 無傷の者など誰一人いない。

 先遣隊の役目は終えたが、成果は芳しくない。


 黒幕であったドミティウスの捕縛はならず、エリスの救出もできずに終わった。一方、先遣隊は兵を何人も失っている。手駒なのか、それともこの谷に最初から住み着いていたのかは分からないが、レイスにしてやられた。


 男二人に担ぎ上げられるジャックと、カーリアに背負われるユミル。二人の意識は未だ戻らず、ジャックに至っては生死の境を行ったり来たりを繰り返していた。


 ジャックの傍らにはコビンが控えている。ジャックの容態を気遣い、エドワードの命令なしに、独断でジャックの看病を買って出た。コビンの判断にエドワードは口をさすことはなく、むしろ率先してやってくれと頼んだほどだ。


 ジャックの息がふっと止まるたびに、彼の胸部を刺激し、心臓を動かす。傷口が新たに見つかれば、治癒の魔法によってすぐに塞いで行く。


 看病は馬車の中にのせられても終わらない。むしろ仕事はめっぽう増える。ジャックに加え、ユミルやほかの負傷者の面倒も見なければならない。


 戦闘によって失った者には、何人かの魔術師もいる。本来ならば負傷者を魔術師に割り振って治療を行うところを、人員が欠けたために生き残った魔術師で対応をしなければならない。


 比較的軽傷のもの、自分の足で立って歩ける者は治療から省き、残る重傷者の治療に専念する。無論、それでも数は少なくない。治癒の呪文は馬車のそこかしこから、絶え間なく聞こえてくる。


 コビンもジャックとユミルに付きっきりという訳にはいかなかった。二人の看病を続けながらも、傍らではほかの冒険者や兵士の治療にいそしむ。


 終わらぬ治療。流れ出る魔力。長時間の治療は魔術師たちに労力を迫り、疲労がどんどんと重りとなって体の動きを鈍くさせる。


 けれど、休む訳にはいかない。魔術師たちの手が止まれば、確実に誰かが死ぬことになる。己の疲労よりも、目の前に転がる死をどうにかするほうが優先される。疲労を理由に生を見過ごすなどとできるはずもなかった。


 魔術師たちの懸命な治療や生存者たちの足は帰還すべき場所があっての奮闘だった。帝都に帰れば家族が、仲間が、金が、医者たちがいる。ただ一つの帰る場所。それは疲労困憊の先遣隊にとって唯一心のよりどころとなる場所だった。


 その思いは帝都が近づくにつれて大きくなり、安堵の空気が先遣隊の中に流れる。

 だが、安堵は一瞬にして絶望にかわる。


 帝都が、彼らの愛しき我が家が、黒煙と炎に飲み込まれていた。

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