進行
夜が明け、太陽が昇り、また夜がおとずれる。4、5日を馬車の中で過ごした後にようやく辿り着いた場所は、大地を一直線に横切る深い谷。下を見下ろせども深淵がこちらをのぞいているだけで、こちらからは深淵の中を覗くことはできない。
タルヴァザ。地元民の言葉で悪魔の釜。底の見えぬ谷の底には瘴気が渦巻き、生者が近くことを阻んでいる。
入ったものは二度と這い上がっては来られない。その言い伝えは人々の間でまことしやかに囁かれ、帝都の市民はもちろん、地元の人間ですら近寄りたがらない。
馬車から次々に冒険者や狩人たちが降りてくる。ジャックとユミルもまたダルヴァザの土を踏んだ。
空は青く、白い雲が空を渡って行く。だが、わざわざこんな辺境くんだりに来たわけではない
断崖に整備された細い道。手すりもなく、道幅も狭い。一歩踏み間違えば谷へ真っ逆さまに落ちてしまう。
「また一緒に行動できて光栄です」
道中、気晴らしにでもなればと思ったのか、コビンがお世辞にもそう言った。
コビンとカーリアもまた、先遣隊に参加している。カーリアはコビンの後ろで二人に向かって会釈をしていた。
ユミルはありがとうと一声かけるが、ジャックはそっけなく谷への道を進んでいく。
しばらく進むと下に向かって進んできた方向とは真逆の方向へと道が伸びている。突き当たっては折れて下り、折れては下りを繰り返しているうちに辺りは次第に暗くなり始める。
ヴェールを用意しろ。先頭の方からその言葉が言伝に聞こえてくる。
兵士に限らず、冒険者や狩人の中で魔術の心得のあるものは、それぞれ杖を出したり、手に魔力を宿したりと方法は様々。だが、彼らが唱えるのは同じ魔法、風鎧だ。
体を光が覆う様から、帝国軍の兵士の間ではヴェールという俗称で呼ばれている。
ジャックが以前にコビンからかけられた魔法だが、この時も同じようにコビンからかけられる。
各員にヴェールがかかり、それをかけられたものから、瘴気の中へと下りて行く。
順調に見える行軍だったが、谷底から聞こえる何かの声に皆の足が止まった。
それは獣の鳴き声のようでもあったが、彼らの知るどの獣の声にも似てはいない。
ここは人を寄せ付けぬ地。何がいても不思議ではないが、声の主が彼らに危害を与えるものでないことを祈るしかない。
暗い谷の底。一人の兵士がその声につられて底を覗き見る。
そして、何かが飛来する音が聞こえたかと思えば、兵士の首がずるりと滑り落ち、闇の中に飲み込まれていった。
何が起こったか。それを瞬時に判断できるものはいなかった。ただ、戦力が一人減ったと言う事実だけがその場に残された。
叫ぶものはいない。驚きは彼らの警戒心を煽り、それぞれの獲物に手を伸ばさせる。
首のなくなった胴体は、己の首を追いかけるようにぐらりと傾き、底へと落ちて行く。兵士の体は谷から登ってくることはなく、その代わりに競り上がってきたものは、黒い襤褸をまとった化け物だった。
「レイス!?」
誰かがそう叫んだ。襤褸の下から白い顔が覗ける。その顔には二つの眼窩があるが、そこに眼球はなく、その代わりに歯茎の向きでた歯がはまっている。口は皮によって塞がれていおり、叫ぶたびに皮が震え、上下に伸縮する。
両腕は鋭い両刃の剣。足はなく、切り刻まれた裾が風に吹かれてゆらゆらと揺れている。
彼らは敵であるか、否か。その答えは至極簡単だった。なにせ、レイスの剣が彼らに向けてはなたれたのだから。
両腕を後ろに引いたレイスは、反動をつけて、勢いよく腕を目の前にいる男達へ向けて投げる。
くるくると回転しながら迫るそれを、前にいた男はかがんで避け、背後にいた男は間に合わず首を刈り取られる。鮮血と首が一度に宙を舞う。それが彼らが敵と認めた瞬間であり、戦闘の狼煙となった瞬間だった。
レイスは次々に深淵から現れ、空中から隊列に襲いかかる。彼らが立つ場所は、せまく細い道。背後は壁面がそびえ、左右には味方の兵達がいる。どこにも避ける場所はない。生き延びるためには、どうにかこの場から離れなければならない。
ヴェールを纏った者から、急いで下へと向かっていく。そうではない者達は、今来た道を引き返すために、上へと登って行く。
押し合いへし合い。己の命を永らえるために、退路を無理矢理にでも切り開こうとする。
そんな彼らをあざ笑うかのように、皮で塞がれた口を歪ませながら、レイスの剣が容赦無く彼らの魂を刈り取って行く。
だが、混乱の中にいながらも、未だ戦意を喪失していない者もいる。
鞘を手に握り、刀を口にくわえ、カーリアがレイスの群に挑む。谷へと続く道は狭く、先遣隊の隊員たちで埋め尽くされている。まともに移動しようものなら、誰かの頭上を越えるしかない。彼女はその通りにした。
勢いよく壁を伝って走り、兵士の頭を踏み台にしてカーリアはレイスへと飛びかかる
レイスの首に巻きつけるように腕を絡め、背中へにしがみつく。
体をゆすり、カーリアを振り落そうともがくレイス。
カーリアは鞘をレイスの首に引っ掛けて固定すると、口にくわえた刀を取り、切っ先をレイスの脳天に叩きつける。
刀はレイスの頭蓋を穿ち、顎下に切っ先が顔を出す。
勢いよく暴れていたレイスは、一瞬で大人しくなる。そして、浮遊していた体は重力に引き寄せられ、落下をしていく。
何も落ちる運命を共にする理由はない。カーリアは仕留めたレイスに見切りをつけると、レイスを踏み台にして高々に飛び上がる。着地の間際、レイスが襲いかかってくるが、カーリアの振り下ろした刀によって、両断された。
隊員たちの間に混じって、ユミルはキリキリと弦をしならせる。レイスの頭に狙いを定めユミルが矢を放ち、撃ち漏らしたレイスをコビンの放った氷の礫が貫く。一体、もう一体とレイスをもときた深淵の中へと落として行く。だが、数の暴力はユミルの矢やコビンの魔法をもろともしない。
矢を弾き、魔法を回避したレイスが、一目散にユミルとコビンの元へ迫る。二人は懸命に矢と魔法を放つが、そのことごとくを避けられ、また当たったとしてもレイスの勢いを止めるまでにはいかない。
ついにレイスが己の間合いに二人をいれ、切り刻もうと両腕の剣を振りかざす。
「伏せろ」
ジャックの声に合わせて、二人は膝をおって頭を低くする。すると、二人の頭のあった場所を、魔力をまとった剣が通って行く。剣は勢いそのままに、振り下ろされるレイスの剣とかち合う。しかし、ジャックの剣はレイスの剣もろとも切り裂き、レイスの胴を薙ぐ。
黒い煙のようなものがレイスの胴体から吹き出し、くぐもった悲鳴がレイスの口から吐き出される。だが、すぐに悲鳴はなりやみ、塵芥となったレイスが闇の中へと落ちていった。
「このまま下へ降りるぞ。ついてこられる奴は俺に続け!」
エドワードの叫びは混乱の中にかき消されることはなく、隊員たちの耳に届く。そして、ヴェールのかかったものから順に下へと走る。
「行け、行け、行け!」
兵士の叫びがケツを叩き、駆ける足に拍車をかける。
だが、坂を駆け下りて行く最中にも、レイスの襲撃は止まらない。冒険者の一人を担ぎ上げて、谷底へ落とし。兵士の一人の腹に剣を突き立て、力任せに引き裂く。弓を射る狩人を数体のレイスが取り囲み、細切れになるまで切り刻む。
悲鳴が背後から次々と聞こえてくるが、それにつられて助けに行こうものならば、己の命までもが失いかねない。ジャックとユミルを含めた生き残りは、谷底までの道のりを駆け足で進み、ついに谷底へと降り立った。
暗がりに身を隠し、レイスをやり過ごす彼ら。未だ頭上から叫び声と悲鳴が聞こえてくる。レイスがこちらに降りてこないのは、きっと上の連中に気をとられているからだろう。
犠牲のもとに得た安息。息を整えるだけで、安堵というものはかけらも浮かんではこない。
隊の全員が駆け下りることはできなかった。死亡したか、もしくは地上に逃げたか。いずれにしても損害は生じたが、作戦には支障はない。
そう判断したエドワードは、仲間たちを連れて先を急ぐ。
とはいえ、どこをどう進めばいいのか。分かってはいない。当てずっぽうで進むしかない。
「行き先は分かっているのか」
エドワードの心中を察したのか、ジャックが尋ねる。
「…いや、すまないがここからは勘だ」
「いい加減だな。情報はないのか」
「あったらこんなところで立ち止まってなんかいない。…こんなところにいつまでもいる訳にもいかん。死にたくなければ、分からなくても、進むしかない」
ジャックにそう言うと、エドワードは前を向いて歩き出す。彼の後を追うように他の者たちの足も動き始める。
未だに頭上からは悲鳴が降ってくる。ジャックはちらりと上を仰ぐが、上に残った連中への想いは浮かばなかった。
薄暗く、瘴気が立ち込める谷底を一行は歩いて行く。
「団長、あれ」
その時だ。兵士の一人が前方に見える何かを指さした。
指し示された方向に目を向けると、そこには何か光る物体が地面に転がっていた。
「何ですかね。あれ」
「分からない。ユミル、射てるか」
エドワードの目はユミルへと移る。まさかのご指名に少し驚いた様子のユミルだったが、コクリと頷くとその光る物体に狙いを定める。
キリキリと弦がしなり、つがえられた矢が引かれていく。狙いが定まり、わずかな震えが消えた瞬間、番えられた矢が勢い良く飛び出した。
緩やかに弧を描きながら、矢は光に向かって真っ直ぐに飛んで行き、そして見事に命中した。
しかし、当たったことはいいが、それは叫び声をあげることも、動く様子もない。全く同じ姿のままそこに転がっているだけだった。
不思議には思うが、近づいて見なければわかるものもわからない。危険はないようだが、それでも警戒するに越したことはない。
エドワードは視線を背後にいるコビンとカーリアに向ける。
様子を見てこい。エドワードの目はそう言っていた。二人はこくりと頷くと、エドワードを追い越して光り輝く物体へと向かって走った。
その後ろ姿を心配そうにエドワードと他の隊員たちが見つめる。ユミルとジャック、その他の冒険者や狩人は周囲に警戒を払っている。
光の前に立った二人は小首を傾げると、それを拾い上げて手にとった。
「団長、来てください」
手を上げてコビンがそう叫ぶ。
エドワードが駆け寄ってコビンからそれを受け取る。見ると、それはヒカリゴケを生やしたただの石ころだった。
道理で何の反応もなかった訳だ。一人納得するエドワードだったが、ふと彼が目をあげると、その先の道に転々と光る石ころが転がっていた。その光は今しがた彼の手にあるヒカリゴケと同じ光を放っている。
「…こっちに来い。ってか」
道しるべのように落ちているそれは、明らかに何者かの意図が感じられる。この先に行けば誰かが待っている。もしくは、罠か何かが仕掛けられているのは間違いようがない。
「先に行くぞ」
単純に進んでしまっていいものか。判断に迷っていると、ジャックがエドワードの横を通り、石の続く暗がりへと走って行った。
「え、ちょっと」
ジャックを引き止めるために伸ばされたコビンの手は、背後から来たもう一人の手によって下される。
腕をなぞってそちらを見ると、その手はユミルのものだった。
「あの人の好きにさせて。大丈夫、自分の始末は自分でつけるから」
ユミルはそう言うと、誰よりも早くジャックを追って走った。
呆気にとられているコビンの肩をエドワードは叩く。
コビンが顔だけを向けると、エドワードは黙ったまま頷いていた。
好きにさせてやれ。コビンを見つめるエドワードの目は、そう言いたげだった。
そして、エドワードは辺りを警戒しながらも、すぐに二人の後を仲間たちを引き連れて追って行った。
石は黒い地面に転々と転がっている。ジャックはそれを辿って足を進ませていく。罠か否かなどと言う考えは、彼の頭にはなかった。ただ、エリスの身を案じるだけで、それ以外の思考をまだ見ぬ敵への殺意で塗り固める。
焦ることなく、しかし駆け足で石を追って暗がりを進んでいく。
すると、それまで彼を案内して来た石の光が、とぎれてしまった。目の前には岸壁に埋め込まれた巨大な扉が、彼の前にたちはだかった。
ジャックは試しに押してみるが、その巨大さと重厚さは見た目だけではないらしく、全くビクともしない。
黒い無骨な扉には、引くような把手はなく、呼び鈴などももちろんない。およそ、来客を出迎えるには向いてはいない。
横に抜け穴でもないかと、探しては見るがすぐにそれは徒労に終わった。扉の脇にあるのは土肌の崖の斜面。どこかに抜けられる洞窟や穴はない。
ノックでもして出迎えてもらうかとも考えたが、馬鹿らしくなって考えを思考の外へと追いやる。
否応無く立ち往生をよぎなくされる。だが、それもすぐに終わる。
轟音と地響きを響かせて、扉が自然に開いていく。口を開けたその先には漆黒の闇が広がっている。動物、人間、それ以外の何かの姿が闇に覆い尽くされて何も見えない。この中に動く生命体がいるかもわからないが、扉は彼を迎え入れるかのように開かれた。
背後からユミルが駆け寄ってくる。そちらには目を向けず、ジャックは前を見据えたまま、闇の中へ足を踏み入れる。ユミルもまた彼に続いて口を開けた扉の中へと入って行った。
二人を招き入れた扉は、再びその口を閉ざしていく。後から駆けつけたエドワード達はジャックとユミルの背中を目にしながら、無情にも扉は二人とエドワード達との間に立ちはだかった。




