屋敷1
帝都に着いたのは翌日の明け方。見立て通りの時間だ。閉ざされている鉄格子が、彼らを迎え入れるために、物音をたててゆっくりと上がっていく。
帝都内に入る。コビンとカーリアの二人は馬を降りるとすぐに報告を済ませるために兵舎へと向かった。
二人の戻ってくる間に、ジャックとユミルは馬車から女達を降ろしていく。彼女達は皆で肩を抱き合って喜びをかみしめながら、ジャックとユミルに向かって感謝の言葉を送っていく。
恐れや憎しみを目に浮かばせていた女達は、もう何処にもいない。それどころか、まるで英雄を見るかのような、尊敬と感謝を込めた視線を彼女達は二人に送っていた。
女達の姿が朝日に照らされる大通りに消えていった頃。コビンとカーリアがエドワードを連れて戻ってくる。
エドワードはねぎらいの言葉とともにジャックの肩を叩くと、最後に馬車に残っているエマの元へ足を向ける。
「ご無事で何よりです。ヴィリアーズ様」
「心配を掛けてごめんなさい」
「それは貴女のお父君に言ってあげて下さい。今頃貴女の帰りを、首を長くして待っておられる事でしょうから」
エドワードはエマに手を差し伸べる。彼女はその手を取りながら、ゆっくりの馬車の荷台から降りる。その時にちらとジャックの顔を見るエマだが、にこりと微笑んだだけで言葉はかわさずにエドワードに連れられるまま歩き去っていく。
「お二人も、行きましょう」
コビンはそう言うと二人の後を追って歩いていく。
「早く行って」
カーリアの催促もあって、二人はコビンに着いていく。
向かったのはジャックが帝都に来て初めて訪れた酒屋。あの時と同じく、エドワードは階段を降りて奥にある扉の前に立つ。胸元からプレートを取り出すと、獅子の口に差し込む。吐き出されたそれをしまい、扉を開ける。
エドワードの家とアーサーの部屋、そしてこの酒屋をつなぐ、左右に広がる長い廊下がそこにはある。彼はそこに全員を招き入れると、酒屋側の扉を閉め、アーサーの部屋の戸を叩く。
「入れ」
その声の後、エドワードが扉を開ける。中にいるのは、言わずもがな。アーサーが背もたれにもたれながら彼等を迎え入れた。
彼はエマの姿を見ると、腰を上げて彼女の元へ歩み寄っていく。
「ご無事で何よりです。このアーサー、貴女様の身を案じて夜も眠れませんでしたよ」
耳障りのいい社交辞令を並べ立てながら、アーサーはエマの手をとりその甲に接吻を送る。そして、
「よくヴィリアーズ嬢を連れ帰ってくれた。危険な任務ではあったが無事に帰還を果たした事は喜ばしいことだ。キスの一つでも送ってやりたいところだが、まずは礼を言おう。ありがとう。皆ご苦労だった」
顔を上げて、一行に言葉を投げる。兵士の二人は誇らしげに胸を張りながら敬礼でアーサーの言葉に応え、もう二人はそれぞれに苦笑をうかべたり、眉間に深い皺を刻んだりの反応でそれに応える。アーサーはそれぞれの肩をたたき労をねぎらっていく。
「……俺の見込みは正しかっただろう」
ジャックの肩を叩きながらその耳元でアーサーが囁く。
「さて、これでようやくお父上に喜ばしい報告が出来るというものです。時間も勿体ない。早速向かうとしましょう」
アーサーはエマと共に一行を連れて扉へと向かう。最初に入ってきた扉とは違う。部屋の右側にある別の扉だ。扉の色は赤、お馴染みの金獅子がアーサーの出したプレートを飲み込んでいく。
そして開かれた扉の先には、廊下が続いている。壁紙や絨毯の色は先ほど通ってきた廊下と同じだが、左右に折れる所はなく廊下は真っすぐに伸びている。左右には扉が二つあり、それぞれが対面をなすように配置されている。
アーサーは両側の扉には足を向けず、廊下の最奥部にある扉へと向かう。その扉は他とは違い、両開き仕様の黒い扉だ。彼は両手で把手を掴み、ゆっくりと引き開いていく。
「……うわぁ」
感嘆のため息を漏らしたのは、ユミルかコビンか。彼らの目に飛び込んできたのは、広い空間だ。床は磨かれた大理石が敷き詰められている。
前後左右の壁には何枚もの絵画達が飾られ、無機質な灰色に華を添えている。無駄にも思える高い天井には神々と悪魔達との戦争を描いた天井画が描かれている。
屋根を支える柱には波を現しているようなレリーフが幾つも刻まれ、柱すらもなにか芸術作品のような優美さを持っている。
その他にも彫刻によって作られた白亜の女神像や極彩色のグラスなど、様々な美術品が部屋の中に並んでいる。
どこかの展覧会にでも来たような感覚に陥るユミルとコビンだが、それ以外の面々はそれらに目を向ける事なく、だだっ広い部屋の中を進んでいく。
美術品の間を進み、青銅で作られた水瓶の前を右に折れる。その先にある扉を開け、部屋を出て廊下を進む。右手には窓が並んでいる。
そこから見えるのは向かいに建つ建物と、ここと向かいを繋ぐように建っている建物だ。ここから見るとこの屋敷がコの字型に作られている事が分かる。
今いるのは屋敷の三階部分の廊下。下を見ると広い庭園を見渡す事ができ、円形の噴水からこんこんと水が湧き出ているのが見えた。
廊下を進み、角を曲がって二番目の扉の前に立つ。黒塗りの片開きの扉だ。アーサーが戸を叩くと、一人の初老の男が扉を開けてこちらを覗き見てくる。
どうやらここの使用人のようだ。白髪を整髪油で固め、黒の燕尾服に袖を通している。
「何用ですかな。旦那様でしたらまだお休みになっておられますが」
「貴方の所のお嬢様を連れ帰ってきた」
「何ですと」
男は扉を開いて廊下に出てくる。そして彼らの顔を一人一人つぶさに見た後、エマの顔を見るなり彼女を抱き寄せる。
「ああ、お嬢様。よくご無事で」
「心配かけたわね。じいや」
「ええ。心配しておりましたとも。お陰で残り少ない寿命がまた縮まりましたぞ」
じいやはエマからそっと離れる。
「この方々がお嬢様を助け出して下さったのですか」
「そうだ」
じいやの問いにアーサーが肯定の言葉を紡ぐ。
「そうでしたか…。申し遅れました。私、ガブリエル様に仕えております、コフィと申します。使用人を代表してお礼を言わせていただきます。この度はお嬢様を助け出していただき、誠にありがとうございました」
コフィはそう言いながら、彼らに向かって深々と頭を下げる。
「ここで皆様に何か私からお礼をしたい所ですが、一介の従者がいつまでもお嬢様の恩人を引き止めておくのも旦那様に申し訳ありません。何よりも、旦那様が一番貴女様の身を案じておられたのですから。では、こちらへ、旦那様の部屋までご案内いたします」
頭を上げた彼は先頭を切って廊下を進んでいく。その後ろからエマが後を追い、以下の面々はその後に続く。
廊下を更に左に折れて進んでいく。途中階下に降りる階段が行く手に現れたが、目もくれずに同階の廊下を進む。
そして、一つの扉の前にたどり着く。百合だろうか、金細工で作られた花の意匠が扉の四隅に施されている。
「少々お待ちくださいませ」
そう言って男は扉を叩いた後、扉を開けて中へ入っていく。
待つ事数分。扉が開かれコフィによって招かれる。
部屋はこれまで見てきたどの部屋よりも広い。ディグの宿の部屋の壁をぶち抜いて一つの部屋にしてもまだ足りない。扉から入って正面のグレーの壁には大きな窓が四つ並んでいる。
その横にはカーテンがひもで括られている。外から差し込んでくる日が窓枠に当たって、その影を床に映している。
その他箪笥や机、天涯付きのベッドなどの家財道具が置いてあるが、それ以外の装飾品や美術品は一つもない。質実剛健と言えば聞こえは良いが、貴族の部屋と言われると随分こざっぱりした印象を憶えた。
そのせいで部屋の広さがさらに強調されている。
ベッド横には小さな戸棚が置いてあり、その上に置かれた花瓶のバラが部屋にささやかな彩りを加えていた。
無機質なその部屋にたった一人、彼らを迎え入れる人。その人物はベッドから身を起こして彼らをじっと見つめている。
屍人。その言葉がその人物を見るジャックの頭に浮かんでくる。
肉付きの少ないげっそりと痩せこけた顔。くぼんだ眼窩が下瞼に影を作り、まるで髑髏のようだ。骨張っているのは顔だけではない。寝間着からの覗ける手は指も甲も細く、骨に直に皮が張り付いているようだ。
かの御仁が、ガブリエル・ヴィリアーズ。帝国貴族の金を一手に引き受けている銀行家であり、軍をも動かす事の出来る大貴族の正体。
「……こんな姿で済まないな」
髑髏が喋った。
「朝早くから申し訳ない。貴女の娘をお連れした」
アーサーがエマの背を押して前へ出す。
「そうか。ようやくか。……エマ、こちらへ」
「……はい」
彼女はベッドの横へと向かい、父と視線を合わせるために片膝を着く。
ガブリエルは身体をゆっくりと娘の方へ向ける。
小気味のいい音がエマの頬から鳴り響く。彼女が故意に鳴らした音ではない。ガブリエルの平手が彼女の頬を打ち据えた音だ。
「人様に迷惑をかけおって。この馬鹿娘が」
「……ごめんなさい」
「ごめんで済ませられたからよかったものを。後少し彼らがお前を救い出すのが遅れでもしていれば、今頃どこかの国に売り飛ばされていたか、殺されていたかもしれないのだぞ」
「……ごめんなさい」
謝罪の言葉を吐く娘の頬に、父親の平手が飛ぶ。彼女に対する怒りから、という訳ではない。ガブリエルの顔からは怒りとは違う、情けなさや哀しみのような感情が伺えた。
エマはうつむいたまま。ガブリエルは彼女の頭に目を落としたまま。言葉の消えた部屋の中で壁に掛けられた時計の針の音がやけに大きく響く。
ガブリエルはベッドの縁に足をおろすと、エマの顔を両手で包み込むように持ち上げる。そして、彼女を胸の内に抱き寄せる。
「……あまり心配を掛けさせてくれるな」
「ごめんなさい」
「よく、無事に帰ってきてくれた」
「うん……」
「おかえり、エマ」
「……うん。ただいま、父様」
エマは腕をガブリエルの項へと回す。そのとき、エマの頬に涙が一つ、また一つと頬を伝って落ちていく。喉をひくつかせながら、それでも無様な声を上げまいと口を一文字に閉じている。
「娘が世話になった」
エマを抱きしめながら、ガブリエルが言う。
「アーサー、お前にも迷惑を掛けたな」
「いいえ。貴族様方をはじめ、帝国の民達を護るのが我々の使命ですから」
口舌滑らかに、建前をつらつらと謳っていく。
「では、早速報酬の話に入りましょう。貴方様にも我々にも個々に仕事があります。いつまでもここにいるというのも双方に迷惑でしょうし、何より、彼らを休ませてやらないと」
「そうだな」
娘の肩を叩いて抱きしめていたエマの腕を解くと、ベッドの脇に立て掛けた杖を手に取る。そして、それを支えにしながら立ち上がり、四人の元へ歩み寄っていく。
「今回の件は君たちに大いに世話になった。元はと言えば私の認識の甘さと娘への教育不足が原因だ。君たちの苦労に見合うかどうかは分からないが、好きな金額を言ってくれ。望み通りの額を用意しよう」
「……少し、相談させてくれ」
「よかろう」
ジャックはガブリエルに一旦背を向けて、後ろにいるユミルに身体を向ける。
「メダルを出してくれ」
「えっ。ええ。ちょっと待って」
ユミルはポーチの中をまさぐり、教会のメダルを取り出す。ジャックはそれを受け取ると、再度ガブリエルに身体を向ける。
「これに見覚えはあるか」
ジャックはそのメダルをガブリエルに手渡す。
「教会のメダルか。君は……」
「ジャック・ローウェン」
「ローウェン君。君はここの信者か何かかね。もし私を勧誘したいつもりなら、悪いが断らせてもらうよ」
「そうではない。これは、そこのお嬢様を攫った連中の一人が持っていたものだ」
「何?」
その言葉に耳を疑ったガブリエルは、僅かに眉をひそめながらそう聞き返してくる。その間にジャックは目を動かしてエドワードならびにアーサーの顔をちらりと見る。
エドワードの反応はガブリエルと変わらずと言った所。気にするべきはアーサーの表情、先ほどから何らの代り映えのしない表情のままジャックの言葉に耳を傾けている。
「それは真か」
「直接そいつの懐からとったんだ。間違いない」
「そんなの僕たちは聞いていませんよ」
話に噛み付いてきたのはコビンだ。彼はジャックの腕を掴むと抗議の視線とともに異を唱える。
「一応は謝っておこう。だが、この教会は確か帝国の軍と関わりがある。そうだったな、エドワード」
「ああ、だが……」
「軍と関係している教会。その教徒と思える男が、人攫い達と一緒にいた。ずぶの素人でも、もしかすれば軍がこれに関わっているんじゃないかと勘ぐるのもおかしな話じゃない。お前達二人に見せなかったのは、それが正しかった場合、証拠を消される恐れがあったからだ」
エドワードの二の句を遮り、ジャックは言葉を続ける。コビンは納得していないまま、なおもジャックの腕を掴んでいる。
「そんなことを僕たちがするはずがないでしょう」
「それをしでかす奴も平気で同じ事を口にする」
コビンに視線を落としたジャックは、その言葉とともに冷えきった視線をコビンに送る。
体毛を立たせ、コビンは急いでジャックから離れる。本能からの咄嗟の行動だ。俊敏さはそこらの野犬に引けを取らない。
もっとも、彼ら犬族とそこらの犬畜生とを比べるのは大変な侮辱に当たる。言葉にすると面倒な事になるものは心のうちでぼやくに限る。
「だが、教会には方方の村に行ってそこの住人達を供養してもらっているだけだ。それ以上の関係性はない」
「その言葉だけで解決という訳にもいくか。もしかすれば、お前達の掌の上で馬鹿踊りをさせられていたかもしれないんだからな」
エドワードの言葉を軽く聞き流しながら、ジャックはなおも言葉を続ける。
「……アーサー、どうなのだ」
ガブリエルはアーサーに向き直り、疑問を投げかける。
「どう、とは?」
「教会の関係している事を、お主は知っていたのか」
「いいえ。初めて知りました」
焦った様子もなく、淡々と言葉を述べるアーサー。汗一つでも流さないかとジャックは注視しているが、それを意に介する事なく、当然の事をあるがままに伝えていく。
「確かにそれは教徒達が共通して持っているメダルです。ですが、そのメダルは教会のある種名刺のようなもの。それを持っているからといって必ずしも教会の信徒であるという証拠にはなりません。けれど、まあ調べてみるにこした事はないでしょう。もし他の誘拐にも教会の者が加担していたとするなら、被害者の捜索に役立つはずですから」
「そうしてくれると助かる。だが、調べていくの中でもしも軍部の関与があったという証拠が出れば、帝国への援助を断たねばならなくなる。それを肝に命じておくことだ」
「勿論です。こちら側の不始末ですから。しかし、調査には少し時間がかかるかもしれません」
「どういうことだ」
「生憎と、そこの教会につい最近依頼をしたばかりでして。当人達が戻ってくるのにもう何日かかかってしまうんですよ」
「ならば彼奴らの帰還と同時に捕縛を果たせ。それから議会において尋問を行う。その時には私も同行する。それで良いな」
「卿下の御心のままに」
恭しくガブリエルに対して頭を垂れる。
「話がそれてしまったな。それで報酬の腹は決まったかね」
「その前に、私から一つ提案がございます」
ジャックが話すより先に、アーサーの口が割って入る。
「何だ」
「この際どうでしょう。この男を護衛として雇うというのは」
眉根を顰めながら、ジャックは異を唱えようと口を開く。だが、それをアーサーは手で制しなおも言葉を続けた。
「失礼を承知で言葉を述べさせていただきますが、お嬢様が危険な目にあったのは、元はと言えば貴方様が護衛の一人も雇わなかったからでありませんか。争いごとを嫌い、武器を持つ者を毛嫌いするのは人それぞれ。その考えにとやかく言う気は毛頭ありません。ありませんが、まさか、お嬢様があんな危険な目にあってなお、護衛の一人も雇わないとは言いますまい」
「……確かに、お主の言う通りではあるが。だが、彼の実力がいかほどなのか」
「それは心配には及びません。こいつの実力は私が保証しましょう。今回の事だけでなく、冒険者としての実績も中々のものだと聞き及んでおりますから」
「……お主がそうまで言うのだ。その腕前は確かなものなのだろう。もっとも、愛娘を人攫いどもから取り戻してくれたというだけでも、その力を示しているのかも知れないがな」
「そうですとも。ですから、今回の件を機に末永いお付き合いをなされては……」
「ふざけるな」
眉根を顰めながら、ジャックの口から静かに怒号が飛ぶ。
「ふざけてはいないさ。こっちは大真面目だ」
ジャックの怒号を意に介すことなく、彼を小馬鹿にしながら、アーサーは頬をつり上げる。出来るだけ不快感と苛立を与えるためだが、それはジャックに対して効果は覿面だった。ジャックの顔から表情が消え、ただ殺意のみが彼の顔に浮かぶ。
「……何やら君らの間には確執があるようだが、どうだろう。この件を考えてみてはくれないか」
ジャックの殺気に気圧されながら、ガブリエルは声を掛ける。アーサーを睨んでいた彼の目が、ガブリエルを捉える。
「何も君にずっとここにいて欲しいとは言わない。今でも野蛮な者達をこの屋敷に入れることには抵抗があるからな。だから、私や娘が外出する時にだけ護衛として着いていて欲しい」
「…」
「あやつの言った通り、今回の件は私のこのどうしようもない頭が元々の原因だ。だがな、この歳になるとおいそれと己の考えを曲げる事はできなくなる。凝り固まった思考は膿みたいなもので、中々外へ出て行ってはくれないのだ。報酬には色を付けて払おう。どうかね、考えてみてくれんか」
「ことわ……」
「いいんじゃない」
ジャックの声を遮って、何者かの聞き覚えのある声が飛んでくる。ジャックはその方へ目を向ける。そこにはユミルが彼の隣に立ち、ジャックを見上げていた。
「何を言っている」
「貴族様から直々に指名されるなんて滅多にないんだし、この際受けちゃいなさいよ」
「君は……」
「ユミルです。この人と一緒に仕事をしている冒険者です」
ユミルはガブリエルの手をとり、握手をする。
「ユミル君、といったかね。では、受けてもらえるのか」
「ええ。勿論ですよ。こっちも仕事があって困るような事はありませんから。ちなみに、報酬には色を付けると言っていましたが、それはどのくらいに…」
「おい」
ジャックはユミルの肩を掴む。するとため息とともに彼女が振り返り、彼に向けて話し始める。
「あのね、貴方があのアーサーって人を嫌っているってことはもう重々分かったわよ。だけど、それとこれとは話は別。貴方の機嫌で仕事を不意にするなんて、馬鹿馬鹿しいにも程があるわ。子どもじゃないんだから、そういうのは分けて考えなさいよ。馬鹿」
「だが……」
「それにね。指名の依頼は本当に貴重なのよ。良い依頼は掲示された瞬間に取り合いになるし、残った依頼はそれ相応に報酬も安いものばかりになる。貴方もそれぐらい分かるでしょう」
ジャックに喋る隙を与えず、己の話を続ける。ユミルの所為ですっかり苛立が抜けてしまった彼は、面倒臭さをため息に乗せて口から吐き出した。
「貴方だけだったら、それでいいわよ。でも、エリスちゃんの事を考えれば、少しでも収入が多い方がずっといいでしょう。冷静になれば、貴方の頭でもそのくらいの事は分かるでしょう」
鼻を鳴らし、ユミルはジャックとの会話を締める。そしてガブリエルに向き直り、交渉を始める。
「報酬の相場は大体金貨10枚の銀貨12枚くらいになるんですけど……」
「ふむ。ならばそこに0を一つ付けて払おう」
「金貨100枚と、銀貨120枚。ということですか?」
「ああ。何だ、足りぬか」
「い、いえ、とんでもない。十分過ぎるくらいです。ただ、本当によろしいのかと……」
「心配には及ばんよ。このくらいは支出の内にも入らん、はした金だ」
「はした金って……」
ガブリエルの言葉に唖然とするユミル。今になって目の前の老人が貴族であることを彼女は思い知る。
平民と貴族の懐事情と金銭感覚は比べるべくもなく、むしろ比べる事の出来ないほど乖離している。
平民の感覚で山ほどある資金を持つ貴族の財布事情を気にするのは、考えてみればおかしな話だ。
「それで、どうかね。ローウェン君」
「……わかった。受けよう」
ガリガリと頭を掻いた後、ジャックはそう答える。ガブリエルは目を細めながら満足そうに頷いた。
「それはいい。ではそれを祝してという訳ではないが、今回もその同額を報酬として払おう。少し、待っていてくれ。エマ、着いてきてくれ。コフィ、皆さんにお茶を出して上げなさい」
「はい」
「かしこまりました」
何もない部屋だが、くつろいでいてくれ。そう言い残しエマを連れてガブリエルは部屋を出る。コフィは二人の後に続いて歩き、扉の前で振り返り、彼らに礼をしてから部屋を後にした。




