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命値

 時は昨日の夜にまで遡る。

 ユミルとジャックとの間に取り交わされた約束。それはジャックに仕込まれたものに関係のある話であった。

 ユミルは酒も入っていたために、ちょっとふざけ調子にジャックの言葉に耳を傾けていた。


 「明日、私はドミティウスを道連れにして死ぬ」


 その言葉にユミルは一瞬耳を疑った。


 「何ばかなこと言ってるの。冗談でしょ?」


 ユミルは、最初は冗談かないかだと思った。決戦が明日に控え、不慣れな口を使って場を和ませようかとしたのだと思った。だが、ジャックの顔は仏頂面のまま表情を変えない。それどころか、ユミルの言葉で少しばかり申し訳なさそうにするのだ。


 「ねぇ、冗談……よね?」


 「……この義手に仕込んだ石は、相手の魔力を吸い取ることができる。ドミティウスはエリスの魔力に吸い付いたヒルのようなもの。これを奴の体に刺しさえすれば、あいつごと魔力を吸い出すことができるらしい」


 ユミルの言葉に構わず、ジャックは話を続ける。


 「吸い出した魔力は、私の体に蓄えられる。そのとき私は自らを殺す。だが、もしかすれば私が死んだ後、私の体が彼奴に奪い取られるかもしれない。そのときはお前が私を殺してくれ」


 「……ふざけないで」


 「ふざけてなどいない。私を殺すのはお前でなくともいい。村長や、エルフの誰かでもいい。ただ、お前には知っておいて欲しかった」


 「知って欲しかったって……。何よ、それ。だいたい、その義手にそんな仕掛けがあること自体知らなかったけど」


 「私がサーシャに頼んだことだ。お前に事前に言っていれば、口すっぱく止めていたに違いない。だから、今まで言えずにいた」


 「そりゃ止めるわよ。止めないはずないでしょ」


 「飲み込んでくれ。私はきっとこのためにこの世に今一度生を受けたのだ。私の死に場所はドミティウスと共にある。過去から漏れ出した忘れ形見は、共に地獄へと戻るのだ。だから……」


 「どうしてそうやって。自分だけ納得して、自分一人で決めるのよ……!」


 固く握った拳でテーブルを叩き、ユミルは語気を荒げながら言う。言葉を遮られたジャックは眉をしかめながら、けれどユミルの言葉を遮るまでもなく耳を傾ける。


 「他に道もあるかもしれない。エリスを助けて、ドミティウスだけを倒して、あなたも死なずに済む方法があるかもしれない。なんで自分ばっかり犠牲にすることしか考えないのよ」


 「もはや他の手段を探している時間はない。今もエリスはドミティウスの中へと取り込まれていこうとしている。私の命でエリスの命を救えるのであれば、喜んでさし出そう」


 「だから……!」 


 「私は!……私は、とうの昔に死んでいるはずの人間だ」


 ユミルの声にジャックの声が重なる。一瞬だけ熱を帯びたジャックの声は、冷静さを取り戻し、淡々と言葉を続けていく。


 「荒野の中に無残に捨てられた命だ。誰にも悼まれぬ、誰にも悔やまれぬちっぽけな命だ。死した命に意味はない。だが、ここで意味を見出せた。私のこの命によってエリスを救える。それだけで、私は至極満足している。もはや、私は死を恐れることなく死に行ける」


 「……貴方が死んでしまったら、元も子もないじゃない」


 「元も子もない?いいや、違う。違うぞ、ユミル。ようやく私の命が価値を見出せたのだ。犬死ではない。それに、私がいなくなったとて、私の代わりはいる。お前や、エドワード。カーリアにコビン。騎士団の連中。エリスを守る役目を引き継いでくれるのは、私の他にもいる。だからこそ、私は心置きなく死を選べるのだ」


 「勝手よ。そんなの」


 「勝手で結構。私をどんなに恨んでくれても構わない。私の死体に唾を吐きつけてくれても、一向に構わん。ただ、エリスのことは頼む。何があろうと守り抜いてくれ……頼む」


 ジャックはそう言うと深々と頭を下げる。ユミルは言うべき言葉を見失い、ジャックの頭をただ見つめている。苛立ちも、怒りも、当然にあった。そして、それらの思いを全て言葉に乗せて吐きつけた。ふざけるな。引き受けるとでも思ったのか。その手の言葉を。


 ジャックは頭を上げて何とか了承してくれるように願った。だが、ユミルからの回答はえられなかった。代わりに飛んで来たものは、冷たい酒の飛沫だった。







 結局の所、あの日の夜、ユミルは明確な答えを出すことができなかった

 ジャックを止めるべきか、それとも犠牲を見守るべきか。ジャックのいた家を後にしてからも迷いに迷い、ずるずると決戦の日を迎えていた。


 ジャックが身を差し出す時に止めにはいればいい。そんな安直な考えを持っていたためか。それともどこか仕方のないことだと考えていたところがあったのか。ジャックがことに及ぶ瞬間、ユミルの体が動くことはなかった。いや、それ以前にジャックが未だ動くことができている事が信じられないことだった


 胸を鉄杖によって貫かれ、死の淵をさまよってなお、ジャックはドミティウスの油断を待った。そして、その時がとうとう訪れた。


 ドミティウスは力なく膝を崩す。そして横向きに床に倒れていく。ドミティウスは眼球を左右に揺らしていたが、手足はピクリとも動かない。やがて眼球も動くことをやめ、ただ呆然と前方だけを見つめるようになった。

 ユミルはただ呆然とその様子を見つめていたが、我に帰りジャックの元へと駆け寄る。


 「……どうやら、お前の世話には、ならなくて、済みそうだ」


 血を口から吐き出しながらジャックが言う。

 力なく床に降りたジャックの手をユミルは握る。しかし、ジャックにはユミルの手を握る力も残されていなかった。ジャックの手のひらは冷え切り、もはや死人との区別はつかなかった。


 「……エリスの、傷を治して、やってくれ」 


 「それより、貴方の方が重症じゃない。早く手当てをしないと……」


 「私はいい。早く、エリスを……」


 「でも……」


 「早く、しろ……!」


 虚ろだったジャックの目に命が吹き込まれ、生気の灯った双眸でユミルを睨む。エリスとジャックは未だジャックの義手によって繋がっている。ユミルはジャックの目に怖気付きながらも、ジャックの義手をそっと外し、エリスの傷口を治癒の魔法によって治す。


 傷口を塞いだ後、そっとエリスの口に手のひらを当てて見る。大丈夫だ、息はある。それを確認すると、今度はジャックの傷を癒してやろうと手を向けるのだが、ジャックはその手を義手によって弾いてしまう。


 「私は、このままで、いい」


 「何言っているの。このままにしておけるわけないじゃない!」


 『そうだ。このままでよいはずがない』


 ジャックの口から出た、ジャックではない声。それは先ほどエリスの口から出ていたドミティウスの声だった。


 「……ドミティウス」 


 『全く、してやられたわ。まさか私を無理やり自分の体に閉じ込めるとは、やりおるわ』


 ジャックの顔を不敵に笑う。それは果たしてドミティウスが笑っているのか。それともジャックが笑っているのか。ユミルにはわからなかった。


 『エルフよ。助けるのならば、早くしろ。このままでは私や、この孤児は死んでしまうぞ。お前も、それは願っていないはずだろう。あのエルフの娘を大層大事に思うような、優しい心根をしたお前だ。こやつをみすみす見殺しにするような真似はすまい。ならば……』


 ドミティウスの声がやみ、表情は再び仏頂面に戻る。


 「こやつが、私の体を使った時には……。その時は……頼むぞ……」


 ジャックはユミルに向けて言った。もはやユミルの顔もおぼろげで何もかもが歪んで見える。ユミルが近くにいるのに、ユミルの存在を認識できない。ただ、自分の顔に冷たい何かがポタリと落ちてきたことは、わかった。

 それは、ユミルの涙だった。まるで童のように、大粒の涙を目から溢れさせ、頬を伝って落ちてきたのだ。


 「……死なないでよ。お願いだから」


 本当に幼子に戻ってしまったかのように、ユミルは我儘を言う。

 叶えられないことくらい、ユミルにもわかっているだろうに。それでも、ユミルの心のうちから吐き出される願いは止められない。そう思わないでは、いられない。


 ジャックは義手を(おもむろ)に持ち上げて、ユミルの頬を撫でる。驚いたユミルは、視線をジャックの顔へ向ける。

 ジャックは笑っていた。不敵でもなく、あざ笑うでもなく。これまでユミルに向けたことのない、優しげな微笑みを浮かべていた。


 「もう、いいんだ。お前が、悩む必要は、ない、のだ……。もう……」


 途切れ途切れの声は、次第に小さくなっていく。ジャック自身は言葉を紡いでいるのだろうけれど、しかし、ユミルの耳にはその言葉が聞こえてこない。


 力なく降りていく義手を、ユミルはしっかりと掴み止め、握りしめる。まだこの世に命のあるジャックを逃すまいと、ユミルはジャックの名を何度も呼び呼び、叫ぶ。だが、ジャックはユミルの呼びかけには答えなかった。


 深く息を吸い込み、そして、吐き出す。その呼吸にのって、ジャックの魂までもが外へと出てしまったかのように、彼の目は色をなくし、彼の口は動く事をやめた。

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