仕込
ジャックの体がドミティウスに重くのしかかる。
ドミティウスはジャックの体を押しのけると、おもむろに立ち上がる。そして体についた埃を払おうとするのだが、衣服はすでに血がびっしりと付着し埃など大した汚れではないと気づく。ドミティウスは肩をすくめ、何気なく謁見の間を見渡す。
穴だらけの壁、穿たれた支柱。エルフと人間の死体がいくつも転がった謁見の間の床。かつての荘厳さは失われ、もはや廃墟同然となった空間には濃い血の匂いが漂っている。ジャックの連れてきた人間とエルフたちは苦しげに喘いでいるが、しかしまだ命のあるものは多い。その中にはユミルの姿もあった。
彼女は血を口から吐きながら、腕を支えにして体を起こす。どうやら気を失っていたらしい。ドミティウスの手から光が飛び出してきた光景を最後に、その後の記憶が黒く塗りつぶされている。だから、前を向いた時に見たものが一瞬だけ頭に入ってこなかった。
衣服や腕に血を纏わせたドミティウスとその足元に転がっているジャック。彼の胸には鉄杖が突き刺さり、苦しげに息を漏らしながらどこともしれない遠くを見つめている。
「……ジャック?」
ユミルは思わず彼の名を呼ぶ。だが、ジャックは答えなかった。
「無駄だ。こやつはもう死んだ」
ドミティウスが言った。
「もはや虫の息、時期に死ぬ」
ドミティウスはそう言いながらジャックへと視線を落とす。その視線に宿るものは何なのか。ユミルにはわからなかった。
ドミティウスの言葉が、ユミルの耳を通り頭蓋の中で反芻される。
ジャックが、死ぬ。死ぬ。死ぬ……。
誰しもが抗えぬ運命の終わり。終着点である死。それがジャックにやってきた。それだけのこと。脳へとしみわたるジャックの死。理解が追いついた時には、ユミルの心にはある一個の感情が燃え上がっていた。
すくと立ち上がると、ユミルは弓を引きドミティウスに構える。
「……こやつのために、お前が怒るのか」
ユミルの行動を目の端に捉えながら、ドミティウスが言う。そして、ゆっくりとユミルへと顔を向ける。
「……酷い顔だ。こやつが見れば、きっと笑うだろうな」
ユミルの顔は涙と鼻水が垂れ、怒っているとも泣いているともとれる表情をしていた。それこそ、ドミティウスの言うように大層酷い顔であった。
「よくも……。よくも……」
静かに言葉を紡いでいく。その声は潤み、湿り気を帯びている。喉に膜が張ってしまったかのように、一言一言を紡ぐのでさえ苦しい。
「いいのか。この娘は貴様やこの孤児にとって大切な娘なのだろう?」
両手を広げ、ドミティウスは挑発するかのように言う。
そうだ。エリスは大切な子だ。ジャックが命に代えてでも守ろうとした女の子だ。ユミルとて知らない仲ではない。むしろジャックの次に親しく付き合っていたエルフの子だ。
だから、彼女は弦を張り、矢をつがえたきり放つことができない。ユミルとエリス、それにジャックの記憶が、思い出が、脳内を走馬灯のように駆け巡る。
殺してやりたい。あの額に矢を射かけるだけで、仇討ちを果たすことができる。しかし、これまでの思い出がその一瞬を限りなく遠いものにしてしまう。
「……情というのは難儀なものだ。ともすれば敵を殺すに十分な力を与えてくれるが、反面、人の思考を振り回し殺意を鈍らせる。ならば持ち合わせなければよいかと、丹精込めて兵を作り上げたのだが、情に取り憑かれこの有様だ」
ドミティウスはジャックの体を足で小突く。ジャックは虚ろな視線でドミティウスの顔を見上げる。
「貴様らエルフと絡んだ結果、こやつは人間らしく情に悩まされることとなった。考えなくともいい命を考え、救わなくともいい肉を救おうとする。こやつがそうでないと言い張ったとて、一度歪んでしまった心の均整は取り戻すことはできない。心の凹凸を埋めようと様々な感情は入り混じってしまう。それでは、もはや使い物にならんのだ」
侮蔑とも、また嘲りともとれる視線をドミティウスはジャックに浴びせる。そしてその視線をユミルにも向ける。
「まったく、可笑しな話だ。かつては殺しあっていたはずの耳長に、こいつは情を教え込まれたらしい。殺意以外の感情を備え付けられたらしい。まったく可笑い、馬鹿馬鹿しい。そんなものはこの道具には必要ないというのに」
頬をわずかに歪め、ドミティウスは苦笑を浮かべる。しかし、すぐにドミティウスの顔からは表情が消える。
「情など捨ててしまえ。非情になりきれ。でなければ私を殺せんぞ」
ユミルに向けて放たれたドミティウスの言葉。まるでユミルをたしなめるかのような言葉だったが、しかしユミルの指は矢羽を離さない。
「……仇敵も満足に殺せんとはな。もう良い」
そう言ってドミティウスはジャックの体から鉄杖を引き抜こうとする。しかし、鉄杖は抜けることはなかった。
不意に何かがドミティウスの横腹に衝撃と共に押し付けられた。そちらに目をやると、ジャックの義手が、ドミティウスの腰のあたりを押さえつけていた。まだ抵抗する力が残っていたのかと感心したのも束の間、鋭い痛みがドミティウスの体を貫く。
「……仕込みか。やりおるわ」
義手に何か剣のようなものでも仕込んであったのだろうが、しかしこんな小さな傷では自分を殺すことなどできない。内臓も外れ、肉だけを貫いているのだから致命傷にもなり得ない。
ようやく殺しの行為らしき行動をとってくれたことに一瞬の安堵が湧いてくる。ようやく道具が戻ってきたのだ。だが、最後の力を振り絞った結果は随分とお粗末なものになった。
さてではとどめでも刺してやろうとするのだが、ここで予想外の出来事が起きた。振り向こうと体に力をいれるのだが、どういうわけか思うように力が入らない。それどころか、己の意思に反してドミティウスの足は床へと崩れ、ひざまづいてしまう。
「……貴様、何を、した」
うまく口も動かせず、言葉が途切れ途切れになる。気持ちの悪い。内側から何かが吸い出されていく感覚がする。そして吸い取られていくたびに、ドミティウスの自己がどんどんと薄まっていくのだ。
何だ、何をした。戸惑いは恐怖に混ざり、左右に小刻みに揺れ動く視界で、ドミティウスはジャックを睨む。
ジャックは、笑っていた。頬を歪め、歯をむき出しにして笑っていた。
ジャックの笑みは確信の表れ。そして獲物をようやく捉えたことへの達成の表れ。
……そうか。こやつの術中にはめられたというわけか。
心のうちにそう思ったのを最後に、ドミティウスの意識は闇の中へと吸い込まれていった。




