悪夢
"母さん"
僕が産まれてから今まで、一度も口にしたことがない言葉だ。義母に対しても名前で呼び、"母"と認識したことはない。僕には母という感覚が分からない。
そんなことを考えながらマンションの前で立ち尽くしていた。暫くして我に返りマンションの中へ足を運ぶ。自動ドアが開き、帰宅していた時とは違う涼しい空気に包まれた。モニターで702と素早く打ち込み、呼出と書かれたボタンを押す。
『あら、和哉。どうしたの?』
無機質なスピーカーから流れる女性の声。
「ごめん、千夏さん。出る時に鍵、忘れちゃって・・」
『あら。今開けるわ』
それからすぐ、横のドアから錠の外れる音がした。
僕はゆっくりとドアを開け奥のエレベーターに乗り込む。
また今日もアイツの顔を見なければいけない。
話したくもないのに、媚びへつらって、作り笑いして
、まるで道化だ。そうでもしなければ得体の知れない恐怖に圧し殺されそうになる。
エレベーターが開く。出てすぐ右を曲がった先にある702号室、"高瀬"の表札が掛かった部屋が僕の家だ。
先程僕がエレベーターに乗った時くらいに鍵が開けられたのであろう部屋のドアを、僕は静かに開いた。
「おかえり、和哉。」
もの静に微笑えみながら話しかけてくる女。
"コイツ"だ。"この女"こそが全ての元凶。
浅ましく、卑しく、淫らで、醜い、一匹の牝豚だ。
「ただいま、千夏さん」
情け深い僕は汚らわしい牝に
わざわざ優しいトーンで返答してやる。
「学校はどうだった?」
「いつもと変わらないよ。夏休み前だからね」
「殆どホームルームみたいなもんだよ」
「進路の事くらいかなぁ」
お前になんの関係がある。母親面しやがって。
それでも僕は笑顔で答える。
「そう・・・。来年はもう卒業だものね」
「お父さん、今日も遅くなるって。」
「そうなんだ。」
ぶさけるな。ぶさけるな。ぶさけるな。
何度も心で呟く。
"お父さん"?お前にそんな呼び方をする資格なんてない。
僕の父さんはお前と比べて立派な人だ。
可愛そうな父さん。父さんは騙されている。
この女の正体を知ったら
父さんはどれだけショックを受けるだろう。
「夕飯、出来てるけどたべる?」
「丁度お腹空いてたところ。着替えてくるよ」
今思えば父さんは何故この女を選んだのだろうか。
夕飯を食べながらそんなことを考えていた。
この女のどこが良かったのか、僕には理解できない。
そして今日もいつもと変わらない1日が終わった。
携帯の目覚ましをセットしてベッドに入る。
次第に意識が遠退くのを感じながら
このまま朝になっても目が覚めなければいいのに
そうすればどんなに楽だろうか・・・。
そんなことを思っていた。
眠りについても僕に安らぎはない。
夢の中でさえあの女に翻弄される。
その夢では一人の少年が泣いていた。
14歳くらいのどこにでもいる少年。
薄暗い部屋のベッドの上で、その少年は泣き続けていた。そこに一人の女性がやってきて、少年を優しく抱きしめながら耳元で何か囁いている。その光景は母と子、そのもの。
心地よかった。
母さんが生きていれば、僕にもこんな体験があったかもしれない。
だがその心地よさが次第に崩れていく。
女性が少年にキスをしたのだ。只のキスではない。
濃厚で官能的なキスが続く・・・。
そして月明かりに照らされる女性の顔。
それは紛れもない"あの女"だった。
女はゆっくり少年の下半身へ手を伸ばし
ズボンを脱がせ、自らも服を脱ぎ払い
少年の上へと跨がる・・・。
その光景はもはや母と子ではなく、男と女だった。
そんな不愉快な夢から目覚めさせてくれたのはアラームの音。僕は悪夢から解放された。
顔を洗い歯を磨き、身支度をして家を出る。
今日は気分の悪い一日になりそうだ。
あんな気持ちの悪い夢を見てしまったうえに、
あれは"現実"で、夢の中で泣いていた"少年"は
僕自信なのだから・・・。