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なろう公式企画

南の島の花子

作者: 烏屋マイニ

 どてらを着込み、足はコタツ、背中には石油ストーブが控える完璧な布陣で、戸を開け放った縁側から漂って来る冷たい空気と蝋梅の香りを楽しみながら、美咲(みさき)は「まさに至福」と呟いた。これで甘酒でもあれば言うことはない。

(さむ)っ、あんた何やってんの?」

 居間に入ってきた美咲の母は、娘によく似た太い眉をぎゅっと寄せて文句をくれた。

「お庭の蝋梅の匂いを嗅いでるの」

 コタツにぺたりと頬を乗せ、美咲は言った。

「そう言や、じいちゃんも同じことしてたわ。熱燗持って来いとか言わないでよ?」

 そう言って母親は、一抱えほどの段ボール箱を娘の横にどすんと置いた。

「あたし、じいちゃん子だからね」美咲はふふんと鼻を鳴らす。「けど、お酒は苦手だなあ。甘酒なら大丈夫なんだけど。酒粕で作るヤツね?」

「はいはい。作ってやるから、それ見といて」

「何、これ?」

 美咲は段ボール箱の蓋を叩いて言った。

「じいちゃんの遺品。欲しいのがあったら、どれでも持って行きな」

「貯金通帳あるかな?」

 蓋を開けて覗き込む。

「無いよ。この家のリフォームに全部使った。残高九〇七円のヤツなら、母さんが持ってる」

「ちきしょう、ATM圏外かよ」

 美咲は腐った。

「家を大事にしろって、じいちゃんの遺言なのさ。もう閉めるよ。家が凍っちゃうわ」

 母親は縁側のガラス戸と居間の障子戸をぴしゃりと閉めてから、居間を出て行った。美咲は早速、段ボール箱の中身を物色する。真っ先に目に付いたのは、半分になった椰子殻だった。なんで、こんなものを大事にしまっていたのだろうと首をひねる。ひとまず椰子殻は脇に置いて、めぼしい物を漁り続けた。黄色く変色した封筒やハガキ、文庫本、コンパス、ナイフ、マッチ――おや、これはなんだ? 美咲は箱の底から革の手帳を引っ張り出した。最初のページには、「菅野博士(かんのひろし)ガ記ス」とあった。祖父の名前だった。適当に開いてみると鉛筆の小さな文字で、日付と「ヤップ島 B24 ゲキツイ 2」のようなことがびっしり書いてある。美咲は幼い頃、祖父自身から聞いていたので、彼が戦時中にパイロットであったことは知っていたが、撃墜(げきつい)がどうのという話は、いっぺんも耳にしたことがなかった。

 美咲は試しに、最初の日付から撃墜数を足してみた。二〇機を超えたところで手を止める。面倒になったのだ。ぱらぱらと読み飛ばしていると、撃墜記録はぷつりと途切れ、代わりに「エンジン不調ニヨリ不時着ス。ヤップ島ノ東。無人島カ?」と書いてあった。美咲の心臓がどきりと鳴った。ひょっとして彼女の祖父は戦闘機乗りであるばかりか、ロビンソン・クルーソーのようなサバイバル生活も経験していたのだろうか。美咲はわくわくしながら、さらに日記を読み進めた。


   ◆


 日記帳に「不時着」と書いて、博士(ひろし)は、さらし布製のずた袋一つを手に、操縦席から白い砂浜へ降り立った。そうして袋からマッチを取り出し動かなくなった戦闘機に火を放つと、大急ぎで南国の木々が生い茂る森へ向かった。煙を見て、彼を追いかけ回していた敵機たちがやって来ないとも限らないし、爆発に巻き込まれでもしたら大事(おおごと)だ。

 博士は森に分け入り、手始めに川を目指した。不時着する前に空の上から見たところ、島の真ん中にある山のふもとから海に向かって、きらきら光る水の筋が目に入ったのだ。不時着した海岸から川までの距離は、それほど遠くないように見えた。しかし気が付けば、彼はジャングルの中ですっかり迷子になっていた。

「さて、困ったぞ」

 見渡しても、辺りはツヤのある葉っぱをした、熱帯の木々が茂るばかり。ただ、ありがたいことに、海岸の方角はおおよそ分かる。少し前に博士が火を放った戦闘機が盛大に爆発し、大音声を響かせたからだ。このまま海岸に引き返すか、あくまで川を目指すか。少し迷って博士は川を選んだ。この辺りは、とにかく暑い。早く飲み水を手に入れないと、遠からず干からびてしまうだろう。

 爆発音が聞こえた方角に背を向け、空から見た地形を思い浮かべる。コンパスをずた袋から取り出し、方角を見定め何歩か足を踏み出して間もなく、きゃあと言う子供の悲鳴が行く手から響いてきた。空からは家や船着場のようなものを見付けられなかったので、てっきりここを無人島だと思い込んでいた博士は、思わずぎょっとして足を止める。しかし、これはただ事ではない。ためらっている暇はないと駆け出せば、森は拍子抜けするほどすぐに途切れ、博士は差し渡し一〇メートルほどの川に出会(でくわ)した。その流れの真ん中付近に、桜色の人形のようなものが浮かんでいる。人間には見えなかった。それにしては、小さすぎるのだ。しかし、渦に巻かれながら時折きゃあと叫ぶ声は、確かに先ほど聞いたものと同じだった。どうしたものかと考えながらも、博士はざぶざぶと腰ほどの深さの川に踏み込んでいた。思ったより速い流れに、ちょっとだけたじろいでから川の真ん中まで進み、じたばたもがくピンク色の小さな生き物をひょいと持ち上げる。手の中の生き物は、博士の顔を見てきゃあと叫んだ。

「おいおい。助けてやったのに、きゃあはないだろう」

 博士は岸に戻り、生き物をそっと置いて、自分もその横に胡座(あぐら)を組んで一息ついた。生き物は、もう一度きゃあと叫ぶが、逃げ出す様子はなかった。

 なんとも不思議な生き物だった。見たところ女の子の形をしているが、背丈は博士の脛の半分ほどしかない。女の子の頭のてっぺんには丸っこい葉っぱが何枚かと、長い柄の先にぶら下がる真っ白いジャガイモのような花が一つ。髪の毛に見えるのは白いひげ根で、白目のないヒスイのような目で博士を見上げる顔は、人形のように可愛らしい。

 博士がじろじろ眺めていると、謎の生き物は、またもやきゃあと叫んだ。この小さな体のどこから出るのかと思うほどの大音声だ。博士は、まだ子供だった頃に読んだ本を、ふと思い出した。それにはマンドラゴラと呼ばれる空想の植物が描かれていた。なんでも根が人の形をしており、引き抜けば恐ろしい叫び声を上げるとか。この生き物は、それの親せきの妖怪変化だろうか。

「しかし、お前さん。なんだって流されてたんだ。誰かに引っこ抜かれて、川に放り込まれでもしたか?」

 身振り手振りを交えて聞くと、小さな生き物は首を振り、きゃあと叫んで川の上流を指差した。見れば、そこの川岸に崩れて間もない跡が見える。

「あの辺りに生えていたのが、何かの拍子に土砂が崩れて川に落っこちたってところか」

 生き物はきゃあと叫んで頷いた。なんとも間抜けで気の毒な話だった。

「どうだ。元の住処(すみか)は崩れてしまったし、この辺りに植え直してやろうか?」

 生き物はきゃあと叫んで首を振り、自分と博士を順繰(じゅんぐ)りに指差した。

「俺に付いて行くと言うのか?」

 生き物は何度も頷いた。

「まあ、特に困ることもないし、無人島に独りぼっちと言うのも寂しい。一緒にいてくれるなら、俺も大歓迎だ」

 助けた恩返しに、きれいな嫁さんにでも化けてくれるなら申し分ないのだがねと、博士は胸の内で付け加えた。生き物はきゃあと叫んで、嬉しそうにぴょんぴょん飛び跳ねている。

「しかし、名前がないのは不便だな」

 生き物の頭に揺れる花を見て、博士はすぐにぴったりの名前を思い付いた。

花子(はなこ)と言うのはどうだ?」

 生き物は首を傾げ、「花子?」と言った。

「きゃあ以外も言えるじゃないか」博士は笑い、花子に指を向けた。「そう。お前さんは花子だ」

 花子は自分を指差して「花子」と言ってから、今度は博士を指して「花子?」と首を傾げた。

「違う違う」首を振ってから博士は自分を指差した。「俺は博士(ひろし)だ」

「博士」

 花子は博士を指差した。博士が頷くと、花子は笑顔できゃあと叫んだ。確か博士が読んだ本には、マンドラゴラの叫び声は聞いた生き物を狂い死にさせるとあったが、花子の叫びにはそう言った作用は無いようだ。ただ、ちょっとやかましい。

「さて」博士は立ち上がり、花子に敬礼した。「花子二等兵。これより我々は野営の準備に取り掛かる。貴様は俺のポケットで見張りを務めろ!」

 花子は敬礼を真似して、きゃあと叫んだ。

「いい返事だ」

 博士はにやりと笑い、花子を持ち上げ左胸の大きなマップポケットに押し込んだ。


 博士は川から少し離れた場所に、ざっくりと葉っぱを乗せただけの差し掛け小屋を作った。本格的なものは、もっと時間がある時に作るつもりだった。夜はもう間もなくやって来る。あまり、もたもたしてはいられない。差し掛け小屋の下には、小枝と葉っぱを念入りに敷き詰めたベッドをこしらえる。熱帯の森にはいやらしい虫があちこちに潜んでいるから、地べたに直で寝るのは避けたかった。試しに横になってみると、ほどよく弾力があってなかなかの寝心地だ。

 次に博士は薪を集め、差し掛け小屋のすぐ近くにたき火を作った。煙が流れ込んで来て少しばかり目にしみたが、それはしつこい蚊を追っ払うためである。彼はポケットから花子を出して即席のベッドに置いてから、火には絶対に近付かないよう念を押した。花子は火の中でぱちぱち燃える枝をじっと見てから神妙にうなずき、きゃあと叫んで敬礼して見せた。

 日が暮れ、博士と花子はひとつのベッドに頭を並べて横になった。博士は寝返りを打った時に押し潰しはしないかと心配になったが、花子はどうしても一緒に寝るつもりでいるようだった。他に寝床を作ってやるからと言っても、きゃあと叫んで首を振る。

「しかしな、花子」横になったまま、博士は辛抱強く語り掛けた。「まあ、一緒に寝るのはよしとしよう。けれども、そういつも叫ばれたんじゃさすがに耳が痛い。叫び声じゃなく、せめてハイなりイイエなりで答えてくれないか?」

 花子はきゃあと叫び掛けて一旦口を閉じ、「はい」と言った。

「うん、それでいい」博士はくしゃくしゃと花子の頭を撫で目を閉じた。「明日は海岸に出て、何か食べ物を探すとしよう」

 花子は「はい」と言って、二人は眠りに落ちた。


 翌朝になって目を覚ました博士は、服を脱いで川に飛び込みざぶざぶと身体を洗った。川岸でその様子を見ていた花子は、不思議そうに首を傾げた。

「水浴びだよ」と、博士は笑って言った。「できれば熱い風呂に入りたいところだが、湯船を作るのは少しばかり難しいからな。まあ、水でも十分さっぱりする」

「ふろ?」

 花子は首を傾げた。

「風呂を知らんのか。俺はともかく、お前さんの大きさなら、何かで湯船を作れそうだな」

 博士は野営地へ戻り、下着だけを着込んで海岸へ向かった。手にはずた袋を下げ、肩には花子を乗せている。海岸へ出ると、爆発した戦闘機の残骸が波に洗われているのが見えた。長らく一緒に空を飛んできた愛機だったから、博士は少しばかり申し訳ない気分になった。しかし、不時着したときは、敵に獲られないよう機体を爆破する決まりなのだ。

 うろうろと浜辺を歩き回り、博士は大きなシャコガイの貝殻を見つけた。試しに花子を置いてみる。

「風呂と言うのは、こんな風な器にお湯を張って、中に浸かるんだ。なかなか、いいもんだぞ」

 花子は嬉しそうにきゃあと叫んでから、慌てて両手で口を塞いだ。博士は「ちょっとくらいなら構わん」と笑って言った。

「しかし、これは煮炊きに便利そうだから、湯船にしてしまうのはちょっと惜しいな。なにか他のものを探すとしよう」

 花子は貝殻の端を掴んで、いやいやと首を振った。

「すまんな。もっといい物を見つけてやるから、ここは聞き分けてくれ」

 博士の説得で、花子は渋々貝殻を明け渡した。もちろん、空約束ではない。博士には、ちゃんとあて(・・)があった。彼は手ごろな石を見つけると、椰子の下へ行ってなるべく大きな熟した実を拾い、ずた袋から取り出した小刀をあてがって、その尻を石でガンガン叩いた。そうして頑丈な繊維が織り込まれた皮をきれいにはぎ取り、硬い種を取り出して、今度はそれを半分に叩き割る。なかなかの重労働だが、真っ白い椰子の果肉は、それに見合うだけの値打ちがあった。そして、果肉を取り出したあとの殻は、花子の湯船に十分使えそうな大きさがあった。

「野営地に戻ったら、すぐに風呂を沸かしてやろう」

 博士はヤシの身をもぐもぐ食べながら言った。花子も小さな欠片を両手に持ち、それにかぶり付きながら頷いた。博士は椰子殻に小さな穴を二つ空け、細いツタを適当な長さに切って通し、肩から斜めに掛けて中に花子を入れた。手足は少しはみ出すが、なかなか居心地はよさそうだ。二人はヤシの実を二つ三つ持って野営地へ戻った。

 博士はおき火に息を吹きかけ炎を起こし、海岸で拾った石を投げ入れてから花子を置いて、川へ向かい椰子殻に水を汲んだ。たき火に戻り、少し待ってから焼け石を取り出し、水を満たした椰子殻に放り込む。焼け石はじゅっと音を立て、水はたちまちほどよい温度の湯になった。博士が花子に入るよう言うと、彼女は恐る恐ると言った様子で湯に浸かり、それから気持ち良さそうに目を細めた。

「なかなか悪くないだろう?」

 花子はこくこくと頷いた。喜んでもらえて何よりと博士も嬉しくなったが、椰子殻の湯が桜色に染まって行くのを見て、段々と心配になった。

「おい、大丈夫か?」

 しかし、当の花子はきょとんと首を傾げるばかり。しばらく様子を見ていると、お湯からはなんとも言えない(かぐわ)しい匂いが立ち上りはじめる。どうにも気になって、博士は湯に指を浸してなめてみた。

「うまい」

 と、博士は思わず呟いた。花子が浸かったお湯はほのかに甘く、不思議な滋味にあふれていた。マンドラゴラは不死の妙薬となるらしいから、その効能がお湯にいくらか溶け出しているのかも知れない。ふと見れば、花子はお湯を両手にすくい、わくわくした様子でそれを博士に差し出していた。もっと飲めと言うことか。

「いや、せっかくだが遠慮する」

 いくら味や香りがよくても、女の子の残り湯を飲むなど、気恥ずかしくて出来るはずもない。しかし、そのせいで花子はすっかりむくれてしまい、彼女をなだめるのにひどく苦労した博士は、こんなことなら素直に飲んでおけばよかったと、後になって悔いたのだった。


 無人島での暮らしがうまく回り始めた頃、博士はいよいよこの島から逃げ出す方法を考え始めた。と言っても、(いかだ)でやみくもに海へ漕ぎ出したところで、人のいる島にたどり着けるとは思っていない。一番良い方法は助けを待つことだった。これまで寝床や飲み水や食べ物を手に入れ、島での生活を良くしようと頑張って来たのは、ここにずっと住むためではなく、助けが来る前に飢えや渇きや病気で死なないようにするためだ。次は、島の近くを通りかかる船や飛行機に、彼がここにいることを、どうにかして伝えなければならなかった。うんうん頭を悩ませて彼が思い付いたのは、飛行機の残骸から金属板を数枚取ってきて、砂やたき火の灰でピカピカに磨き上げることだった。博士は、それらを砂浜沿いに生える高い木の梢近くに、七夕飾りの短冊のように吊り下げた。金属の短冊は風に揺れながら、きらきらと日の光を弾いた。

 博士が自分の仕事の出来栄えに感心している所へ花子がやってきて、「それはなんだ?」と、聞いてくる。彼女はすっかり言葉を覚えて、最近では博士とおしゃべりを楽しむことも出来るようになっていた。

「この辺りを船か飛行機が通りかかったとき、俺がこの島にいると言うことを知らせる仕掛けだ。こんなようなぴかぴかした光は、びっくりするほど遠くまで届くからな」

「知らせてどうする?」

「帰るんだ」

「帰ってどうする?」

 花子に問われて、博士は海の向こうを見つめて考えた。

「そうだなあ。やっぱり、また飛行機に乗って、アメリカの飛行機と戦うことになるだろう」

「戦うの、好きか?」

 博士は、また考えた。

「いや、好きとか嫌いじゃない。俺は戦闘機乗りだから、それしか出来ないんだ」

「そんなことはない」

 花子は博士をまっすぐ見てきっぱり言った。

「そうか?」

 博士が聞き返すと、花子は頷いた。

「博士は、花子にごはんを作れる。花子のお風呂を沸かせる。花子に優しくできる。みんな、すごいことだ。たぶん、戦うよりすごい」

 真面目な顔で言う花子を、しばらくまじまじと見つめてから、博士は大笑いした。

「何がおかしい」

 花子はぷくりと頬をふくらませた。

「いや、俺にそんな才能があったとは、思ってもみなくてな」

 砂浜に屈み込んで、博士は花子の頭を撫でた。それから博士は笑うのをやめ、真面目な顔で花子に問うた。

「なあ、花子。もし俺が基地のある島でなく、日本へ帰ることになったら、お前さんはどうする。日本はここよりずっと北にあって、ここよりずっと寒い場所なんだ。お前さんには、なかなか住みにくい場所だと思うぞ。それでも、俺に付いて来てくれるか?」

「博士は変なことを聞く」花子はふんと鼻を鳴らした。「花子はずっと博士と一緒だ。博士はずっと花子のごはんを作って、花子のお風呂を沸かして、花子に優しくしないといけない」

「そうか」

 博士はそう言って、また花子の頭をくしゃくしゃ撫でた。花子は嬉しそうに目を細めた。


 そんなようなことがあった次の日の朝、博士は熱を出した。ひどく寒気がするし、身体の節々も痛む。どうやらたちの悪い熱病に罹ってしまったようだ。博士がベッドから起き上がれずにいると、花子が「どうした?」と言って、心配そうに彼の顔を覗き込んできた。

「病気になってしまったんだ。なあに、少し寝ていれば治るだろう」

 博士は笑って見せたが、同じような病気で死んでいった仲間を見たことがあったので、楽観はしていなかった。しかし、医者も薬も無いのだから、あれこれ心配しても始まらない。博士は飛行衣に包まると目を閉じて、丸一日眠り込んだ。

 目を覚ましても、具合はちっとも良くならなかった。ひどい頭痛に唸っていると、花子はコップ代わりに使っていた竹筒に、川の水を満たしてよろよろと運んできた。喉がからからだった博士は花子に礼を言って、ありがたくそれを飲んだ。その様子を見て、花子は安心したように微笑んだ。博士はその笑顔に、少しだけ元気づけられた。

 熱を出して三日目の朝になっても、博士の調子は悪くなる一方だった。自分でも、身体が弱っていることは分かっていた。何か滋養のあるものを食べるべきだろうが、あいにくと食事を作る気力も無い。ふと花子を見れば、彼女は自分で風呂の用意を始めていた。博士は手伝おうかと申し出るが、花子はぶんぶん首を振る。はらはらしながら見守っていると、花子は小脇に抱えた二本の棒で、たき火の中から器用に焼け石を摘まみ出し、自分の湯船に放り込んで見事にお湯を沸かして見せた。そうして花子は湯に浸かるが、どう言うわけか、その表情は真剣そのもの。時折、お湯を手に取ってしげしげと眺めたり、味を見たりしている。しばらく経って彼女はお湯から出ると、湯船にしていた椰子殻の鉢を押して博士の側まで運び、「飲め」と言った。

「いや、それは……」

「飲め」

 博士はためらうが、花子は有無を言わせなかった。博士は身体を起こし、しぶしぶ鉢を手に取って口を付けた。香りのよいお湯を一口飲み下すと、おなかの中がぽかぽかと温まり、あっと言う間に寒気が吹き飛んだ。もう一口飲むと、ひどい頭痛や節々の痛みが嘘のように消えた。

「うまいか?」

 花子はにっこり笑顔で聞いてきた。

「ああ、うまい」博士は花子を撫でて言った。「ありがとう、花子。お前さんは、本当にすごい薬草だな。おかげで病気も吹っ飛んだ」

 花子はえへんと自慢げに胸を張って見せた。博士は少しふらつきながらも食事を作り、花子と二人で食べた。久しぶりに摂った栄養のおかげか、それとも花子のエキスのおかげか。博士はその日のうちに、すっかり元気を取り戻していた。


 それから何ヶ月もの日が何事もなく過ぎた。日記帳に日付と天気だけがつらつらと並ぶのが、博士には何とも嬉しかった。それは、この島で花子と暮らす毎日が特別なことではなく、当たり前になった証拠だからだ。もういっそのこと、この島に骨を埋めても良いのではないかと思い始めたとき、とうとう助けが現れた。最初に気付いたのは花子だった。

「博士、船だ」

 椰子の実を集めに海岸へ出てすぐ、花子が沖を指差して言った。博士は戦闘機乗りの鋭い視覚で、その船に星条旗がはためいているのをみとめた。

「野営地へ戻ろう」

 博士は言った。

「合図はしないのか?」

 花子に問われ、博士は首を振った。

「大丈夫だ。向こうはとっくに気付いている」

 こんな何もない所に停泊したままでいると言うのは、そう言うことなのだ。おっつけ(はしけ)が降ろされ、こちらへ救助がやってくる。その前に、やらなければならないことがあった。野営地へ戻ると、花子が湯船に使う椰子殻の底に日記帳を置いて、上から土を詰めた。そうして花子に向かって言った。

「この中でじっとしているんだ。俺はともかく他の連中は、動き回る草を見て珍しく思うかも知れないからな。お前さんを盗まれたり取り上げられたりするわけにはいかん」

 花子は神妙に頷くと、椰子殻の鉢に潜り込み、頭の葉っぱと花だけを土から出して、普通の草の振りをした。砂浜へ戻ると、艀が砂浜に乗り付けられようとしているところだった。博士は上陸した二人のアメリカ兵に向かい、背筋をぴんと伸ばして敬礼する。アメリカ兵も居ずまいを正して敬礼を返した。島での生活は、それが最後だった。


 博士は捕虜になることを覚悟していたが、そうはならなかった。片言の英語でアメリカの兵士になぜかと聞けば、戦争は日本の負けでとっくに終わったのだと言う。博士は型通りの尋問を受けたあと、近くの島から引き揚げ船に乗せられ日本へ帰った。それから汽車で一晩かけて故郷へ戻り、闇市で手に入れた外套を羽織って、駅から自宅へ続く雪道を辿った。

「大丈夫か?」

 白い息を吐きながら、博士は外套の下にいる花子に聞いた。

「寒い」

 花子は素直に言った。

「すまんな。もうちょっと辛抱してくれ」

 それから二人は黙りこくって雪道を歩き続けた。博士は、ふと灰色の雪雲に覆われた空を見上げた。南の島の真っ青な空が少し恋しくなった。空からは大粒の雪が、ぼそぼそと落ち始めた。博士は足元に目を戻して足を速めた。

 しばらく歩くと、博士の家が見えてきた。玄関の上には注連飾(しめかざ)りがしてあり、引き戸の曇りガラスを透かして、オレンジ色の光が漏れている。博士は玄関の前に立ち、戸を叩いた。すぐに足音が聞こえ、引き戸が開けられた。すっかり老け込んだ博士の母親が、息子の顔を見て目を丸くした。博士はちょっと息を吸い込んで、言った。

「ただいま、母さん」


   ◆


 日記の日付は、昭和二十一年一月一日で終わっていた。花子はどうなったのだろうと、美咲(みさき)はやきもきするが、それを知っている祖父はとっくにこの世を去っている。ちょうど母親が甘酒を持ってきてくれたので、藁をもすがる思いで聞いてみた。

「ねえ、母さん。花子さんって名前に聞き覚えない?」

「あんた、何言ってんの。花子って言ったら、ばあちゃんの名前でしょ」

 母親はあきれた様子で言った。それで美咲は思い出した。彼女が高校生の頃に亡くなった祖母の名も、確かに花子だった。美咲にとって祖母はずっと「ばあちゃん」だったから、花子と言う名前と結び付けて考えることが出来なかったのだ。美咲はまさかねと思いながら、母親に礼を言って甘酒を受け取った。母親はこたつに入り、自分の甘酒を一口すすってから、リモコンでテレビを点けた。夏に放映された特番の再放送が流れ出した。

 美咲はどうしても自分の思い付きを捨てきれず、こたつを立って居間を出た。ひんやり冷たい廊下の板敷を踏んで歩き、仏間の前に立ち止まって、その戸を開ける。中へ入ると、仏壇の上には真っ白い歯を見せる祖父の写真が掛かっていた。美咲と、彼女の母親にそっくりの太い眉だ。その隣には優しい笑みを浮かべる祖母の写真が並ぶ。きれいで可愛らしいおばあちゃん。どうせならこっちに似ればよかったのにと美咲は思う。写真の中の祖母の髪には白い花の髪飾りが付いていて、それが祖父の日記にあった、花子の頭の白い花と重なって見えた。

「急に飛び出してどうしたの?」

 居間へ戻ると、母親が訝しげに聞いてくる。美咲は「ちょっとね」と上の空で答え、縁側の戸を開け放った。蝋梅が、広げた枝に透き通った黄色の花をたくさんつけていた。蝋梅の根元には美咲が見たことも無い不思議な花がひとつ、寄り添うように咲いている。真っ白でジャガイモの花に似ているが、それは丸っこい葉っぱの間から伸びる長い柄の先にぶら下がっていた。

 美咲は戸を開け放ったまま、こたつへ戻った。母親はじろりと娘を睨むが、あきらめた様子で何も言わなかった。美咲は甘酒が入った湯呑を蝋梅に向かって軽く掲げて見せた。胸の内で、「熱燗じゃなくてごめんよ」と呟く。蝋梅は何も応えなかったが、ただ冷たい風に、甘い香りをのせて寄越した。

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― 新着の感想 ―
[一言] 初めまして。紫乃咲と言います。 拝読させていただきました。 不思議な出会いの不思議なお話でした。 ゆっくりと流れていく時間の中で、ふたり……一人と一つ?の距離が近いていくのが素敵です。 …
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