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朝。快晴。
トンボが宙を飛んでいる。
羽に朝日を纏わせて、トンボは空を舞っている。
清清しい秋の情景に心洗われながら、ぼくはトンボに目を奪われる。
黒に黄の縞模様。緑の目。
オニヤンマだろうか。
そう思ったところで、違和感に気がつく。
このトンボ、羽がおかしい。
普通なら四つであるはずの羽が、なんと八つもついている。
細い体にところ狭しと生えるそれらを震わせて、異形のトンボは空を飛んでいた。
意識して見てみると、どうも飛翔のバランスが悪い。
元気そうに飛んではいるのだけど、どこか落ち着きのないその挙動は、遺伝子に刻まれた本来の自分との違いに苦しんでいるようにも思えた。
ぼくは憐憫に眉を下げる。
哀れな姿だった。羽の数が違うだけでこれほどまでに。
いや、というかよくよく見てみると、このトンボ足も九本あった。
それがわしゃわしゃ空中で蠢いていた。
わしゃわしゃわしゃわしゃ。
ぼくは嫌悪に顔を歪ませる。
羽が等数倍される分には多少の神秘性を感じないでもなかったけど、足が奇数本に増えているともなると、これはもう生理的嫌悪感を禁じえない。
端的にいうとキモい。
突然変異――というには、度がすぎた異様さだった。
当然だ。
突然変異ではないのだから。
これはそう、空間事変である。
この世界はひどく不安定だ。
ついさっきまで目にしていたものが、次の瞬間にも同じものであり続けるとは限らない。
それがこの世界の不文律。
例えば、昨日まで通っていた学校が校庭を残して消滅していたり、巨大なスーパーが巨大な土塊になっていたり。
一昨日なんて、持っていた鉛筆がふと目を逸らした隙に羽の生えた大福餅に変貌していた。それは蟲みたいな羽音を鳴らしながらカーテンの隙間を通り窓から飛び立っていって、呆然と眺めていると、大福の下がぱつっと破けてドロドロした何かが零れて隣の家のおばちゃんの頭に命中した。おばちゃんは救急車で搬送された。
――えらい学者さまの言葉に拠ると、この世界の空間はガタガタになっているのだそうだ。
ガタガタであやふやで、曖昧に崩れた状態なのだそうだ。
空間が不安定だから、ふとした拍子にごちゃっとなってしまう。
そう。
ごちゃっと。
これを人は、空間事変と呼ぶ。
ごちゃっとする場所や時間に規則性は見つかっていない。おおよそ、”歪みの残高”みたいなものが一年ごとにリチャージされるという噂だけが経験則的に意識されている。
残高が水だとすると、コップに入った水をちょろちょろ零すみたいな感じで空間事変は起こる。それが人間という種族がこの世界に向ける理解だといっていい。
コップの容量は毎年違うけど。
ちょろちょろどころかどばっといく時もあるけど。
まあともかく、空間事変は少なくない。それどころか頻繁だ。
この世界は頻繁にごちゃる。
この広くはない町でさえ、一日に一回は空間事変の報せが鳴り響く。
鳴り響くと、そのランクの応じて自宅待機だの緊急避難だの、そういった事態になる。すごく面倒だけど、下手したら死ぬよりもひどい目に遭うのはわかってるから、逆らおうと思う人間はあまりいない。
そのランクのうちのトップであるところの、どばっとしてしまった空間事変が、”内臓区画”である。
”内臓区画”――。
まぁ、正式名称は他にちゃんとあって、”内臓区画”はいわゆる俗称というやつになる。でもこっちの方がずっとわかりやすいし、ぴったりだと思う。でもって皆もそう思ってるから、もはや内蔵区画は内臓区画といわなきゃ通じないはめになっているのだ。きょうび正式名称なんてのを知ってるのはぼくみたいな物好きだけだろう。
危険度MAX。人死に大量。空間事変のランクトップ。
”内臓区画”が出現した。
==========◎===========
肉。
視界一面の肉。
比喩的な、それだけ沢山のお肉がありますよ、的なアレではなく、本当に肉以外が視界に入ってこない。
右向いても肉。左向いても肉。縦軸方向も奥行き方向も肉。新鮮というにはイキが良すぎる脈打つ赤い肉。
肉の肉による肉のための世界。そんなにくにくわーるどだった。こういうと結構可愛い。
というわけで、”内臓区画”である。
空間がごちゃることで起きる空間事変だけれども、その規模や性質は様々だ。それらを大別するために、空間事変にはいくつかの分類ランクがある。
安全。
危険。
超危険。
というように。本当はもっといっぱいあるけど割愛。
ほとんどの空間事変は危険ランクに属する。接触を持ったら死にますよ、というレベル。
時々、思い出したように安全ランクが現れる。下手したら死にますよ、というレベル。
そして稀に、超危険ランクがでてくる。
それが”内臓区画”だ。
”内臓区画”は出現した場所の周囲を侵食し、異次元に引きずり込む。引きずり込まれた空間は巨大な迷宮と化し怪物を生み出す。
これだけだと最悪の災害になっていてくれたところ、なのだが。残念ながら”内臓区画”には益もあった。
ハラワタ。
”内臓区画”は肉の迷宮。人類はその中で、金銀財宝が霞むような代物を発見した。
傷を癒し、空を飛び、火を吐く。
そんなことができるようになる奇跡の品。
魔法の内臓――ハラワタ。
それが”内臓区画”の名の所以であり、ぼくのような人間が”内臓区画”に潜る理由なのだった。
それにしてもくっさい。
肉の迷宮を歩きながらそう思う。
足元の肉をぐっちゃぐっちゃ踏みしめながらそう思う。
明らかに毒性のある空気だ。
おそらく麻痺系のやつ。この濃度から推測するに、一分も経たないうちに人間はぶったおれるだろう。
ガスマスクなんてないけど、ぼくは進む。
呼吸器系のハラワタを持っているので、ぼくは水の中でも息ができるのだった。このくらいなら普通に平気。
「あお」
と変な音が聞こえたので視線を移すと、肉の壁から人の頭が突き出ていた。
髪の毛がない。左の目は上を向き、右の目は斜め下を見つめている。唇を口の中に入れてもむもむしている。鼻の穴はなかった。
その男の体が、ずもももと壁から抜け出してくる。上半身までは痩せた男の体がでてきたというだけのことだったが、下半身はなんかぐちゃってた。股間からもうひとつの崩れた顔が覗き、茶色で吸盤が生えた不揃いな足が五つくらいあって、というかあれ足かどうかもわかんないや。
肉の迷宮に出る肉の怪物だ。
不運にも巻き込まれ死んだ人間が”材料”にされたのだろう。こういうことは往々にしてある。
ぼくは体を捻り、”尻尾”を振った。
超振動を先端に宿す赤い鞭がしなり、怪物男を両断する。
斬った場所は下腹部。
怪物男の上半身は肉の床に落ち、ピクリとも動かなくなった。早くもどろどろと溶け始めている。
一方、下半身は元気に襲い掛かってきた。
足か手か触手かよくわかんないのをぶんぶん振り回しながら、超スピードで接近してくる。股間の顔はニヤニヤ笑っている。
ぼくは後ろに跳びながら半回転。キュートなお尻から伸びる尻尾を振り回す。
怪物男の下半身は地に這うようにして尻尾の先端を避け、尻尾の中ほどを掴んだ。
ぼくは尻尾をくるんと曲げて握り返す。がっちりと握手が組み合わさったことを感じつつ、怪物男の下半身を肉の壁に叩きつけた。
肉の壁の中でも随一の硬さを誇る血管にぶちあたったそいつはぶちゅっと潰れる。怪物男の下半身は体液を壁に塗りたくりながらべちゃりと肉の床に落ちた。
死んでるかもわからないし起き上がってこられると困るので、尻尾の先端で切り刻む。
ざっくざく。
すると中からきらきら光る何かが。
「あ、らっきー。ハラワタだ」
怪物男の心臓部分を担っていたであろうそれを、斬撃器能をオフにした尻尾の先で摘み取る。
尻尾から手にとり、見る。
緑色に発光する小さな内臓。どことなく眼球を彷彿とさせるフォルムだ。
左目の器能オン。
ぐにゃりと視界が歪んだ後、脳に流れ込んでくる情報の質が変わる。
目に映るものを整理する。
「えーと……? 直径三センチほどの眼球を三つつくる……場所はランダムで……”器能”は……発熱? 肝心の温度は……摂氏19℃。……ゴミハラワタ!」
放り出したく気持ちを抑えて、鞄に突っ込む。こんなのでも売るところに売れば200万円くらいにはなる。
ハラワタ保管用の代物である鞄の口を閉じて、ぼくは進むのを再開した。
先ほど怪物からハラワタをドロップしたが、あれは相当レア。普通、肉の怪物たちはハラワタを備えていない。ハラワタは基本的に怪物の中でも相当強いやつの心臓代わりか、ルームと呼ばれる特殊な宝部屋にしか存在しない。
ルームにはいくつか種類があるけど、ぼくの目当てはそのひとつ、最高級のハラワタがある心臓ルームだ。
”内臓区画”を消滅させる手段は二つ存在する。
一つ。”内臓区画”の心臓であるハラワタを破壊する。
一つ。”内臓区画”の心臓であるハラワタを使用する。
このどちらかの条件を満たした”内臓区画”は速やかに消え、通常の空間が戻ってくる。
つまりぼくの狙いは、心臓ハラワタを手に入れつつ、この”内臓区画”を消し去ることにあるのだ。
発生から一時間も経っていない今のうちに達成すれば、巻き込まれた人間たちおよそ数百人の命が助かることになるだろう。いやあぼくってば偉いね。未来ある若人たち救おうだなんて。聖人の称号も霞むよ。
というわけで、ぼくは見るも無残な姿になった元学校・現”内臓区画”を歩く。
そう、学校。
ここはぼくも通う学校――その空間を歪めて出現した”内臓区画”なのだった。
どことなく面影がなくもないような気がしないでもないが、どちらにせよ肉まみれの肉世界だ。
さてはて、何人生き残っていることやら――。
ぐっちゃ。
音が鳴る。ぼくの靴音だ。
”内臓区画”来るたびに思うけど、足音うざい。
ぐっちゃぐっちゃぐっちゃぐっちゃ。
ここにひとつ、浮かぶであろう疑問がある。
なぜこんなスプラッタな世界にぼくがいるのか、ということだ。
ここほど、このぼくに似合わない場所もないだろう。
いや、確かに何度か”内臓区画”には忍び込んだりしているけど、ハラワタ持ち帰ったりしてるけど、今回はそうじゃないのだ。
ちょっとした用事があったぼくが学校に遅刻してきて、校門越えた時のことだ。
突然警報が鳴り響いたと思ったら、どうしたことでしょう。次の瞬間には、ぼくは”内臓区画”にいたのでした。
肉の床の上に一人佇んでいたのでした。
ちゃんちゃん。
つまり偉そうなこといっといて、ぼくも巻き込まれた人間のひとりなのだった。
「恥ずかし恥ずかし。いやほんと」
独り言を呟きながら、先ほど発見したぷしゅーと怪しいガスを吐き出すいやらしい肉穴に尻尾を突っ込む。
斬撃器能をオンにしながら、ぐじゅぐじゅとかき混ぜる。
出したり抜いたり回したり。
くさい汁が飛び散り肉の床を濡らしたかと思うとじゅわっと肉が溶ける。
ぬぽっと引き抜いてみれば、ガスの噴出は止まっていた。
尻尾を振って肉汁を払う。
歩き出すと、一歩踏み出すたびに心なしか空気が清浄になっていくように思える。たぶん、さっきのガスが毒の元だったのだ。
この”内臓区画”が空気完全生成型じゃなくて外気取り込み型でよかった。前者だったら中枢部に進むにつれ毒性がひどくなっていって、最悪の場合ぼくじゃ進めなくなる可能性があったのだ。
こんな場所さっさと出たいから、そうじゃなくて大助かり。
いやまあ、出るだけならいくつかあるだろう出口から出ればいいだけの話なのだが、せっかくプロの手がまったくついていない新品の”内臓区画”の中にいるのだ。そうそうない好機。それを手ぶらで帰る? どう考えてももったいなさすぎる。
二、三日も経過すればプロたちが大集合してくると思われるので、それまでは稼ぎ放題やり放題。
などといっていれば、早速ルームを発見。
ぐっちゃぐっちゃと音を立てながら肉の廊下の壁に開いた扉……のようなそうでないようなよくわからないものを潜る。
さてさてどんなハラワタがあるかな、と舌なめずりをしつつ覗いた先には、三人の生きた人間の姿があったのだった。