五
塹壕を、億十郎たち三人は、一散に走っていた。幅は狭く、人一人がぎりぎり通り抜けられるほどである。深さは、億十郎の頭がすっぽり隠れるくらいで、見上げると、鈍色の曇天が覗いている。
億十郎は〝戦略大戦世界〟に飛び込んでから、一度も青空を見た記憶がない。もしかしたら、こちらの世界は、ずっとこのまま晴れ上がる時がないのかもしれなかった。
目の前には、道案内のアイリータの背中が見えている。金髪が揺れ、長い足が大股に、通路を走る。身長六尺の、均整の取れた身体つき。
アイリータがさっと、身を屈めた。間髪を入れず、億十郎も身を沈める。
「思ったとおり、待ち伏せよ!」
首だけ捻じ向け、アイリータが小声で囁いた。億十郎はアイリータの肩越しに、前方を覗き込む。
背後から、理恵太が億十郎の背中に負ぶさるように、ぴったり身を寄せてきた。
全員、岩陰に身を潜めて前方を窺った。
通路は、全員が身を潜めている場所から、いきなり幅が広がり、地面も舗装されている。指揮所入口らしき壁が立ち上がり、司令官二人が、手に銃を持って立っている。
二人とも、視線は鋭く辺りを見回しているが、どことなく、だれきった様子が見えた。
一人が制服の隠しから、煙草を取り出し、着火具で点ける。煙草の先が、赤々となって、司令官はふーっと煙を吐き出した。
億十郎は呆れた。
明らかに歩哨の役を任じているはずなのに、のうのうと煙草を口にするとは。しかも、もう一人の司令官は咎める様子もない。何と、もう一人を真似て、煙草を咥えた。
二人とも、のんびりとした様子で、煙を吹かしていた。
億十郎はアイリータに囁いた。
「どういうわけで御座ろう? 我らの襲撃を、警戒している様子が、微塵も感じぬが?」
アイリータは薄笑いを浮かべていた。
「司令官だからよ! 今まで、司令官以外の任務に就いた経験はないのよ! おまけに、自分たちは【遊客】だという自信が、自惚れとなっているに違いないわ!」
「なるほど。敵の油断は、我ら最高の味方で御座るな……」
億十郎は手探りで、地面から小石を攫った。
手の平で重さを計り、さっと立ち上がって、びゅっと渾身の力を込めて投げつける。
びしっ! と、億十郎の礫が、右側の司令官の頬に当たった。
わっ! と当てられた司令官は驚愕の表情になり、もう一人の司令官は慌てて銃を構える。
銃口が持ち上がったときは、すでに億十郎は全力で走り出していた。
たん! と億十郎は司令官の目の前で、地面を蹴って飛び上がった。
億十郎の身体は、一丈以上も飛び上がっていた。銃を構えた司令官は、ぽかんとした表情で、空中の億十郎を見上げる。
空中に躍り上がった億十郎は、鯉口を切り、地面に足がつく寸前に、大刀を振り下ろしていた。
ぐわっ! と手応えを感じ、億十郎が顔を上げると、額の真ん中を割られた司令官が驚愕の表情を張り付かせたまま、仰け反っていた。額から鮮血が噴き出す。
どう──、と司令官は仰向けに倒れた。
ようやく、握っていた銃の鉤金が引かれ、だだだだっ! と銃口から銃弾が空へ向けて撃ち放たれる。
「わわわわ!」
頬に礫を食らった司令官は、出し抜けの事態に完全に恐慌を来していた。
腰を沈めた姿勢のまま、億十郎は手にした太刀を、横に薙ぎ払った。
ばずんっ! 籠もったような音と、ぶわっと生臭い匂いが立ち込める。
「ぎええええっ!」
司令官は絶叫していた。
腹を両手で押さえている。
制服がぱっくりと切り裂かれ、驚くほどの大量の血液が迸った。押さえている両手の間から、にゅるにゅると腸がはみ出す。
億十郎は太刀を引くと、切っ先を司令官の胸に身体ごとぶち当てるつもりで、突き刺した。
骨を切っ先が切り開き、億十郎は歯を食い縛って力を込める。
億十郎の視線と、司令官の視線が、かち合った。
信じられない……という表情が司令官の顔に浮かぶ。
微かにいやいやをするように、司令官は首を何度か振った。なぜか、唇の端に笑いが浮かんでいる。
両手ではみ出した腸を押さえたまま、司令官はゆっくりと膝をつき、仰向けに倒れた。
億十郎は、それまで息を全くしていなかった。司令官が倒れたのを確認して、ようやく呼吸を取り戻す。
まだ司令官の胸には、太刀が突き刺さったままである。億十郎は引き抜こうとして、がっちりと突き刺さったままなのに気付く。骨に食い込んで、中々引き抜けない。
結局、司令官の胸に片足を載せ、力任せに引き抜いた。
懐紙で刀身を拭って、光に翳す。
億十郎の差料は、無銘であるが、無反りの業物で、刀身の分が厚い。人、二人を斬り殺した後なのに、刀身には刃毀れ一つない。
振り向くと、アイリータと理恵太が、呆然とした表情で立ち竦んでいた。二人とも、蒼白な顔色である。
理恵太は今にも倒れそうだ。
「殺したのね……」
アイリータが目を見開き、呟いた。完全な無表情で、唇が細かく震えている。
億十郎はぱちりと、太刀を鞘に収めた。
「左様。殺し申した。これは、戦いで御座る」
返事をしたが、億十郎は首を傾げる。
「しかしアイリータ殿も、理恵太殿も、今まで〝戦略大戦世界〟において、何度も戦いに赴かれたので御座らんか? その際、何人も敵を殺したのでは?」
理恵太は怒ったように答えた。
「そりゃ、そうよ! でも、あたしはF22ラプターで、空中戦や、地上爆撃の支援はしたけど、敵と顔を合わせての殺し合いは、一切していないわ!」
アイリータが後を引き継いだ。
「それに、殺したといっても、相手は接続している【遊客】よ。この〝戦略大戦世界〟で戦死しても、本体は現実世界で無事に目覚められるから、本当に殺したことにはならない。でも、今そこで殺されたのは〝ロスト〟した司令官なのよ……。これは、本当の殺人と同じなの!」
億十郎の耳は、微かな足音を聞きつけていた。
「急ぎ申そう! 今の物音で、敵が気付いたようで御座る。つべこべ、議論している暇は、一時も御座らんぞ!」
アイリータと理恵太に、緊張が走った。




