十
司令官との面会まで、少し間があるとかで、億十郎は理恵太と共に、別室に待たされた。
塹壕から繋がれた通路の奥に、司令部の建物が設けられている。半地下の構造で、アイリータの説明では、爆撃に耐えられるよう、建物を地下に埋めているのだそうだ。
がらんとした室内の壁際に、長椅子が一つ。億十郎と理恵太は、長椅子に腰を掛け、司令官との面会時間を待った。
壁越しに、遠くから「ずしん、ずしん」という微かな揺れが伝わってくる。遠方で戦いが行われている証拠だ。ここ〝戦略大戦世界〟では、四六時中の戦いが絶え間ない。
手持ちぶたさに、つい億十郎は理恵太に話し掛けていた。
「奇妙な気分で御座るな。【遊客】になった気分は……」
「そう」
理恵太の答えは短い。億十郎は構わず、先を続けた。
「拙者も知らない知識が、次々と脳裏に浮かび申す。【遊客】の方々は、皆このように、知識を自由自在に引き出せますのか?」
「ええ。仮想現実で酷い間違いをしないようにね。江戸仮想現実でも、【遊客】は江戸の知識を常に参照できるようになっているの。でも、知識だけあっても、実際に生活しないと、身につかないけどね」
理恵太の答に、億十郎は感嘆の声を上げた。何と便利な能力であろう。これならば、何一つ勉学の必要すらない。
億十郎は天井を見上げた。天井には、明々と眩しい照明が灯っている。新たな知識により、照明は電気の力で光っていると判明する。
「もし、江戸に、このような電気の灯りがあれば……」
億十郎の呟きに、理恵太は屹然と睨んできた。表情は真剣で、微かに怒りを孕んでいる。
「本当にそう思うの?」
億十郎は理恵太の剣幕に、ちょっと驚いた。
「はあ……。何しろ、江戸では、このような昼間のように眩しい灯りは御座らん。もし、江戸にあれば、便利かと愚考し申す」
理恵太は肩を竦める。
「そりゃあね! 江戸にあれば、便利なものは電気だけじゃないわ。内燃機関で動く乗り物、飛行機、エアコン、携帯電話、パソコン……」
次々に上げられる理恵太の言葉に、億十郎の脳裏に、知識が広がる。理恵太は、億十郎に向かって皮肉な笑みを浮かべる。
「そんな便利な道具が溢れた江戸って、どんな未来が待っているかしら?」
理恵太の指摘に、億十郎は腕組みをして考え込んだ。
その内、恐るべき可能性に気付く。
億十郎は理恵太の顔を見詰め、頷いた。
「左様か……。便利な道具は、確かに江戸の町人たちに福音となり申そう。夏でも将軍家と同じように、冷たい氷が手に入り、江戸・大坂間を、たった一刻で繋ぐ乗り物が人々の行き来を壮んにさせよう。だが、行き着く先は……」
言い淀んだ億十郎の言葉を、理恵太が引き継いだ。
「〝戦略大戦世界〟よ。新たな道具は、新たな欲望を引き出す。もっと良い生活、もっと沢山の資源、もっと強力な権力を、人々は欲しがるようになるわ」
億十郎は、がっくりと肩を落とした。
「【遊客】とは、辛いもので御座るな」
理恵太はゆっくりと頭を振った。
「まだ本当の辛さを、あんたは知らないわ。あたしたち【遊客】は、江戸の人々の生活に、根本的な変革をもたらすような知識を教えることは禁じられているの。あの足蹴り木馬や人力車は、江戸のテクノロジーで充分、製作できて、影響も少ないから許可されたけど、もし電気や、内燃機関の知識をもたらすと……。いえ、もっと切実な問題がある」
理恵太は億十郎をまじまじと見詰めた。
「ね、億十郎はお蘭さんを見つけ出せたら、結婚するつもり?」
億十郎は理恵太の突飛な言動に、虚を突かれる。かっと頬が熱くなるのを感じ、億十郎は答えた。
「ま、そうなるで御座ろう。拙者と、お蘭殿は許婚で御座るから……」
理恵太は視線を落として言葉を続けた。
「そうなったら赤ちゃんができて……もし、赤ちゃんが生死の境をさまよう病気に罹って、治療法が江戸にはなかったらと考えて。最新の治療法をあんたは知っていても、江戸のテクノロジーでは利用できなかったら、救えないのよ! 抗生物質、ペニシリン……手術一つ、まともにできない医学の水準で、赤ちゃんが死ぬのを見ていなければならない」
億十郎は目をぎゅっと瞑った。
「なるほど……。判り申した。知っていても、洩らすことはできない。それが【遊客】に与えられた責任で御座るな!」
ふと理恵太の態度に、億十郎は疑問を感じる。
「理恵太殿は、こちらの〝戦略大戦世界〟に参って、少々、元気がないように見かけまするが、拙者の思い過ごしかな?」
理恵太は、ぎゅっと両手を組み合わせる。唇を噛みしめ、何かに耐えている。
億十郎は待った。
やがて、理恵太は口を開いた。
「判ったの……。ここは、あたしの場所じゃない。江戸に迷い込んだときは、ずーっと〝戦略大戦世界〟に戻ることだけを、考えていた。戻れたら、あたしは〝ロスト〟なんか平気だと思ってた……。でも、違った。もう一人のあたしと出会った瞬間、いやというほど、それが判った!」
堪えていた感情が、どっと溢れ出たのか、理恵太はひしと億十郎の肩に縋って、咳き上げる。億十郎は黙って、そのままに理恵太の気の済むまで、微動だにしなかった。
億十郎の腕が上がり、大きく波立つ理恵太の肩に乗る。ゆっくりと、億十郎は、理恵太の背中を撫でていた。
理恵太はさらに力を込めて、億十郎に抱きついてきた。億十郎の着物の襟が、理恵太の涙にじっとりと濡れる。
実を言うと、億十郎の胸で女が泣いたのは、これが初めてではない。しかし今度ばかりは、億十郎はどうして良いか、さっぱり見当もつかなかった。
かちゃり……と、部屋の扉が開き、アイリータが顔を出す。
「司令官との面会……!」
言い掛けたアイリータは、億十郎と理恵太の様子に絶句した。
理恵太はぱっと、億十郎から身を離した。顔は真っ赤になっていて、慌てて目元を拭った。
億十郎は憮然として、腕組みをしている。
じろっとアイリータを一瞥し、一言。
「室内に入る前は、敲扉をするのが礼儀と存ずるが?」
「御免ね!」
ぺろっと舌を出し、肩を竦める。
何事もなかったように、アイリータは言葉を押し出した。
「司令官との面会が許可されたわ! 一応の概略は、あたしから報告したけど、詳しい話は、あんたたちから話してね」
一気に捲し立てると、腰に手をやる。
億十郎は立ち上がった。
「参ろう。司令官殿とは、どのような御仁で御座るかな?」
ちらっとアイリータと、理恵太の視線が絡み合った。アイリータは楽しそうに答えた。
「それは、あなたが実際に面会するまでの、お楽しみにしておきましょう!」
どこかで聞いたような台詞である。
億十郎はアイリータの案内で、建物を繋ぐ廊下に足を踏み出した。




