三
億十郎が本気を出して走り出すと、相当の速度が出る。体格の割りに足が長く、あまり頭を上下させない、独特の走り方で駈けて行く。
後から源三や、足軽たちが慌てて追いかける。だが、飛ぶように走る億十郎には、てんで追いつけない。
ばしゃばしゃと億十郎の足先が波打ち際に辿り着いたとき、源三が大声を上げた。
「億十郎様! 刀をっ!」
「あっ!」と億十郎は振り向き、腰の両刀を鞘ごと抜くと、駈けて来る源三に向かって放り投げる。源三は危うく、億十郎の刀を受け止めた。
目指す飛翔体は、波打ち際から離れた場所に浮かんでいる。そのまま億十郎が、海水に浸かると、当然、腰の大小も濡れてしまう。そうなると、後が大変だ。
完全に両刀を分解し、隅々まで掃除して、浸入した水を乾かさないと、あっという間に錆びる。億十郎は柄袋を、面倒がって装着していないからだ。
億十郎は腰まで水に浸かり、ぐいぐいと波を押し分けるようにして、浮かんでいる〝何か〟に近づいた。
まさしく「何か」としか形容のしようがない。億十郎の語彙には、それを的確に言い表す言葉がなかった。
強いて言えば「虚ろ舟」とも名付けられそうである。
全体は鳥のような翼を持ち、つるりとした流線型をしていた。上半分はギヤマンのような半球の天蓋が被さっている。舟のような形で、内部が虚ろになっているから「虚ろ舟」である。下半分は完全に水没し、ぷかぷかと浮いていた。
虚ろ舟に攀じ登り、億十郎は透明な天蓋を覗き込んだ。
「人がおるぞ! 女じゃ!」
億十郎は身体を捻じり、波打ち際に勢揃いしている、足軽、道案内たちに叫ぶ。全員、億十郎の言葉に、我に帰って慌てて水に入ってくる。
もう一度、億十郎は天蓋を覗き込んだ。
女が一人、顔を仰向け、目を閉じていた。
顔立ちから女と判断したが、身に着けている衣装は、まるで見慣れぬものである。
身体にぴったりと纏いつくような薄手の生地の着物……いや、着物であろうか?
襟は首許をぴったりと覆い、縫い目が見えない。表面は金属のように、きらきらと光を反射している。
両手両足の形にきっちりと縫い合わされ、一見すると作務衣のように見える。身体の線がはっきりと判るため、胸の膨らみが驚くほど見て取れる。まるで裸同然だ。
「まず、着る物を用意せぬとならぬな」と、億十郎は心の中に書きとめた。
頭部は、丸い兜に半分ほど覆われている。兜に覆われていない女の肌は、抜けるように白かった。肌の白い女は、これまで数多く見てきたが、この女の肌の白さは別格だ。
億十郎は女の顔をしげしげと見て、眉がほとんど見えないのに気付いた。いや、眉はきちんとあるが、色が薄い。よく見ると眉の毛は、金色に光っている。閉じた睫も金色だ。
ぱちぱちと女は目を瞬かせた。
億十郎は、思わず仰け反っていた。
女の瞳が青い! 空の青さを、そのまま映し出すような澄んだ水色である。
目を覚ました女は、自分を覗き込んでいる億十郎に気付いたらしい。
一瞬ぎくりと、強張った表情を浮かべた。それでも、億十郎の瞳に敵意がないのを認めたらしく、薄っすら笑みを浮かべた。
「*+>¥=&%$?」
女は口を開き、何か喋った。が、女の言葉は、億十郎には一言も聞き取れなかった。
「何を言うておる? そちは異国のお人か?」
億十郎は大声を上げた。
不意に不安に襲われる。
用心深く、尋ねた。
「もしや、切支丹伴天連ではあるまいな?」
話に聞く、切支丹伴天連は、青い瞳の持ち主だという。
女は天蓋の向こうで、微かに眉を顰める。
手許が素早く動いた。
と、思ったら、出し抜けに、舟の透明な天蓋が、ぱっくりと上へ開いていく。
「わっ!」と、億十郎は突然の変化に、思わず飛び退いた。そのまま、ざんぶと海面に滑り落ちてしまった。
「#*+>&%~$#!」
またもや女は、訳の判らない言葉を発した。億十郎が完全に呆気に取られ、ポカンと口を開き放しになっているのを見て取った女は、ちょっと首を傾げ何かを待った。
やがて、得心が行ったのか、ニッコリと輝くような笑みを浮かべた。
「どうやらランゲージ設定が、違っていたようね。これで通じるかしら?」
滑らかな江戸言葉である。
億十郎は、ぐっと恐怖を堪え、質問した。
「そこもとは、何者じゃ? 天から落ちてくるとは、天女であるか? それとも、よもや妖怪変化の類ではなかろうな?」
女は億十郎の様子を、じっと観察しているようだった。女の視線が、億十郎の全身を仔細に見て取っている。
女は一つ頷いた。
「ここは、もしかして江戸仮想現実かしら?」
またまた女の言葉は、億十郎には珍粉漢粉である。
「何を申しておるのじゃ? さっぱり判らんぞ! 拙者の判るように、話せ!」
億十郎を見詰める女の目が、驚きに大きく見開かれた。はっと両手で顔を押さえる。
「ああっ! あなた、NPCなのね! それじゃ、あたしの言葉が理解できないのも、無理はないわ! 御免なさい」
女は虚ろ舟に手を掛け、立ち上がった。素早い動きで、座っていた場所から、海面にざばりと両足を降ろす。
再び億十郎は驚きに撃たれていた。女の背丈に、驚いたのである。
億十郎は身長六尺あまり。江戸では、自分より背の高い者は、ほとんど目にしない。例外は【遊客】であるが、それでも自分より背の高い人間は珍しかった。
女は明らかに億十郎と、同じほどの背丈があった。向き合うと、目の高さが同じであった。
女は億十郎を完全に無視し、辺りの様子を確かめている。視線がぼけっと立ち並んでいる億十郎の手下たちから、遠くの山並み、畑、人家と移ってゆく。
ふっと女は軽く息を吐いた。
「確かに、ここは仮想現実の江戸らしいわね。見事な考証だわ。噂では聞いていたけど、これほど臨場感たっぷりに再現しているとは、正直なところ、思わなかった」
女は両手を挙げ、頭を覆っている兜に手を掛けた。ぐい、と引き抜くように兜を脱ぐ。
「おおっ!」という驚きの声が、億十郎と、背後に怖々と控えている源三、足軽、道案内から上がる。
兜に隠れた、女の頭髪が顕わになったのである。見事な金髪であった。
女は億十郎を真っ直ぐに見詰めた。
「あたしの名前は、アイリータ・マクドナルド。身分は、アメリカ空軍F22ラプター飛行隊小隊長。階級は大尉です。あなたがたの代表者に会わせなさい!」
有無を言わせぬ、命令口調である。女の命令に、億十郎は思わず背筋が伸びる思いを味わっていた。しかし大尉とは……。宮中の衛門府に所属しているわけではあるまいに。
その時、不意に億十郎には、女の正体が、はっきりと判った。
女は【遊客】なのだ!