二
辺りはどっぷりと霧に包まれ、木々は朧に霞んでいる。ちょっと身動きするだけで、水分が凝結し、億十郎は水中を歩いている気分になった。
たちまち顔中にびっしりと水滴が溜まり、たらたらと顎の先に滴った。ともかく、霧のせいで、前がはっきりと見えない。これも、天狗党の結界かも知れぬ。
「そうだ。天狗党は、自由自在に天候を操れる。この前、突然の突風がお前を襲ったのも、同じ天狗党の仕掛けだ」
億十郎の推測に、鴉は同意した。億十郎は手探りしながら歩く自分に焦れた。
「糞っ! これでは、足下もよく判らぬ。何か罠があっても、みすみす陥る危険がある」
鴉は微かに笑った。
「忘れたか、億十郎。お主は【遊客】の能力を持っているのだぞ」
「それがどうした? 幾ら【遊客】といえど、この霧を見通す都合の良い術など、心得ているとは思われぬぞ!」
苛立たしく億十郎が答えると、意外にも理恵太が口を挟んできた。
「大丈夫よ。赤外線視覚を利用しなさい。赤外線に視覚を合わせれば、この霧を見通せるようになるから」
「はあ?」
億十郎は思わず問い返していた。
「せ、せ、赤外線……で、御座るか?」
理恵太は力強く、答えた。
「そうよ。ともかく、この霧を何とか、見通したいと強く念じなさい!」
「ふむ。左様か……」
言われて、億十郎は、目の前の霧をじっと睨みつけた。立ち込める霧を見通すために、瞬きもせず、前を睨む。
「おお!」
不意に、億十郎の視界が晴れた。曇った鏡が、拭われたように、目の前の視界がはっきり、くっきりと見えてくる。
霧の中に朧に影のように立っている木々の、枝の一本、葉の一枚にいたるまで、克明に見えていた。
「確かに、見え申す。しかし……」
ぱちぱちと瞬きをして、思わず目を擦る。
「色が御座らんな。まるで、水墨画を見ているかのごとく……」
理恵太を見て、億十郎はぎくりとなった。
何と、理恵太の肌は、白く光り輝いている。
「理恵太殿、そ、そなたは……光って御座る! 何が起きているのだっ!」
理恵太は、にっこりと笑いかける。
「赤外線で見ているからよ。赤外線というのは、波長の長い光で、主に熱源から放射されるの。あたしの肌は体温で温度が高くなっているから、より赤外線が放射されて、光って見えるのよ」
億十郎は、鴉に顔を向けた。
「鴉よ。お主も、この不思議な術を会得しておるのか?」
鴉は大儀そうに、答えた。
「ああ、最初に【遊客】の能力に目覚めたときに、気がついた。自分は暗闇でも見通せるとな。後で、知己になった【遊客】から詳しい理屈を教えて貰ったが、今でも根本的に理解できたとは言えぬ」
億十郎は鴉に尋ねる。
「いかが致した、鴉。お主、よほど疲れておるようだぞ」
鴉は脂汗を掻いて、決死の形相であった。顔色は、土気色に変わっている。
「心配するな! 天狗党の本拠は、すでに近づいておる。俺を心配するより、自分を心配しろ!」
最後は、囁き声になっていた。喋り終わると、鴉はがくりと膝を折り、蹲った。
「鴉!」
駆け寄ると、鴉は億十郎を見上げ、微かに笑いを浮かべた。
「どうも、いかぬ……。この前やって来た時より、結界は強く張られておるようだ……。さすがの俺も、ここまでが、限界か……」
言い終わって、憤怒の表情になる。
「何をしておる! 俺など放っておいて、先に急げ! お主が結界を何とかしてくれぬと、俺はここで立ち往生せねばならぬ!」
億十郎は静かに尋ねた。
「ここで待つ、と言うのだな」
「ああ、待つ。穏行に入って、お前が結界を消滅させるのを待つ! そうだ……」
鴉は懐に手を入れ、拳銃を取り出した。
「これを使え。使い方は簡単だ。それに、これが予備の弾だ。何かと役に立つだろう」
拳銃を渡され、億十郎は首を振った。
「それはいかぬ! これがなければ、お主は自分の身を守れないであろう?」
億十郎の言葉に、鴉は反抗的な目付きになった。
「馬鹿にするでない! 俺はこれでも、雑賀忍者だぞ! このような窮地には、忍者の作法というのがあるのだ! ともかく、拳銃は持って行け」
鴉は口を閉ざすと、目を閉じ、その場で結跏趺坐の姿勢になった。呼吸はゆっくりになり、微動だにしない。恐らく、忍者の絶体絶命に陥ったときの心得なのだろう。穏行は完璧で、完全に気配を殺していた。
億十郎は理恵太と顔を合わせ、頷いた。
「参ろう。鴉の申すとおり、ここは拙者たちが結界を何とかせねば……」
歩き出して、しばらくして理恵太が声を掛けてきた。
「億十郎。その拳銃を渡しなさい」
「何と申された?」
驚いて聞き返すと、理恵太は自信たっぷりに答える。
「その拳銃、あんたが持つより、あたしが持ったほうが役に立つわ。あたしは〝戦略大戦世界〟で、銃の正式な訓練を受けているもの!」
「し、しかし……!」
理恵太の態度は、嘘を言っているようではなかった。だが、億十郎は、女が銃のような武器を持つ事態を、まるで想定していなかった。
「あんたが持っていたって、無用の長物だわ。第一、撃ち方を知っているの?」
億十郎は憤然となった。
「当たり前で御座る! これ、この部分を引けばよろしいので御座ろう?」
億十郎は拳銃を握り締め、鉤金に指を入れた。
「じゃあ、撃って御覧なさいよ!」
理恵太が挑発的に叫ぶ。
むっとなって、億十郎は拳銃を構え、鉤金を引き絞った。
あっ! 銃声を聞かれる! と思ったが、遅かった。すでに億十郎は、満身の力を指先に込めていた。
しかし、銃は撃発しなかった。
鉤金そのものが、びくりとも動かなかったのである。
「ほうら! 安全装置が掛かったままでしょう! 寄越しなさいよ!」
呆然となっている億十郎の手から、理恵太は易々と拳銃を奪った。
理恵太は鉤金から指を外したまま拳銃を握り、仔細に観察しているようだった。
「ふーん、S&Wの38口径、ダブル・アクション。手入れはできているらしいから、まあ安心でしょう。本当は22口径のほうが扱いやすいんだけど」
ぶつぶつ呟きながら、さっと銃を握って狙いをつける。右腕を伸ばし、左手で支える。理恵太の姿勢は、億十郎には充分に手馴れて、自分が何をしているのか、完璧に承知しているようだった。
理恵太は銃を帯に差し、手を伸ばした。
「さあ、予備の弾も渡すのよ!」
高々と命令する理恵太に、億十郎は黙って鴉の寄越してくれた予備弾を手渡した。