八
億十郎は首を傾げる。
「妙な味だな。酒とは思われぬ……」
鉦と太鼓が喧しく音曲を奏で、芸者たちが手足を舞わしている。芸者たちは、袂から紐付きの香炉を取り出すと、紐を持ってふーらふらと揺らした。香炉から、薄く煙が棚引いて、億十郎の鼻腔を擽る。
「お主の飲んだのは、ただの酒ではない」
喧騒の中、鴉がゆっくりと口を開いた。座敷は耳を塞ぎたくなるほど喧しいのに、鴉の声は、はっきりと聞き取れた。
ぐわんぐわんと酔いが廻ってきて、億十郎は、霞む目で鴉の顔を見詰め返した。
「ただの酒ではない? そ、そうか、一杯が十両ほどもする高級酒か!」
言ってから、億十郎は、げたげたと馬鹿声を上げて笑った。
鴉は笑わなかった。頬を緩めることすら、しなかった。
「比丘尼散という薬が入っておる。さらに、今、芸者たちが振り撒いているのが……」
鴉は芸者たちの揺らしている香炉を見て、微かに唇を笑いの形に歪めた。
「羅漢香という香木を焚いているのだ。一つ一つは全く、薬効はないが、二つ合わさると恐るべき効果を表す……」
何をだ……と、言いかけた億十郎の言葉が、喉の奥で詰まった。
億十郎は両目を飛び出さんばかりに、ぐっと見開いた。
身体の奥深くから、ぐーっと皮膚にかけて、言いようのない衝動が突き上げた。
「ぐ……っ! ぐお──っ!」
億十郎は両手で、耳を力一杯、ひしと塞ぐ。
「や、やめろ──っ! やめてくれえ!」
津波のように、鉦、太鼓の音が耳の奥に突き刺さった。
あちらこちらに置かれている行灯、百目蝋燭の灯火の光が、両目に襲い掛かる。目を閉じ、耳を手で塞いでも無駄だった。瞼を通し、手の平を通して、音と光は洪水のごとく雪崩れ込む!
億十郎は床にずしりと身体を横たえ、転げ回った。
「うわっ、うわっ、うわっ! な、何だ、これは? 何が起きている?」
転げ回る億十郎に、鴉は早口で告げた。
「これが〝暗闇験し〟の序盤だ! よいか、億十郎! 我々の仲間は何人も〝暗闇験し〟に挑戦し、運の悪い者は、その場で悶え死に、運の良い者でも、大半は気が狂い、あるいは魂を飛ばした。耐えろ、耐え切れ! さすれば、お主の身内に【遊客】の力が覚醒するのだ!」
音と光だけではなく、総ての感覚が億十郎を苦しめた。皮膚の感覚、血流の圧力、億十郎の全身総ての感覚が、十倍、いや百倍、千倍、万倍となって襲い掛かっていた。
「あ、熱いっ!」
億十郎は喚きながら、自分の着物をむんずと掴んで脱ごうとする。が、両手は思うように動かない。力一杯に両腕を引くと、べりべり、ばりばりと音を立て、布地が裂けてしまう。
恐るべき力であった。すでに、億十郎は、自分の力を制御できなくなっている。
床をばん、と叩き、億十郎は背筋の力のみで、ぴょーんと跳ね上がった。ただ一跳びで、天井近くまで億十郎の身体は跳ね上がる。
「うおおおおおおおっ!」
訳の判らない喚き声を発し、億十郎は真っ直ぐ前に突進する。
ばりんっ! 億十郎の額が襖を突き破り、廊下に飛び出した。猛烈な力で襖を蹴破り、億十郎はだだだだだっ! と、足音を蹴立て、廊下を駆けた。
だんっ、と億十郎は突き当たりの壁に全身を強く打ち付けた。頭蓋が壁に激突し、億十郎は衝撃でくらくらと眩暈を起こし、踏鞴を踏んだ。
どう、と億十郎は仰向けに倒れこんだ。
鴉がひたひたと足音を忍ばせ近寄ると、上から億十郎の顔を覗き込む。
「次が〝暗闇験し〟の本領だ。気分は、どうかね?」
鴉は、にったりと笑い掛ける。億十郎は鴉の顔を見上げつつ、意識を失った。