七
いきなり三味線と、小太鼓が馬鹿陽気な楽曲を奏で、億十郎は度肝を潰していた。
「億十郎様! さあさあ、上座が空いて御座る! ささ、ずず、ずいっと、前へお出でませ!」
顔中満面の笑みを浮かべた幇間が踊るような足取りで近づき、億十郎の手をぐっと握ると、無理矢理ぐいぐい座敷へと引っ張り込む。
「こ、これは、何としたことか? 鴉、確かにこれが〝暗闇験し〟なのか?」
引っ張り込まれた座敷には、すでに白粉や紅を塗りたくった芸者が待ち構え、億十郎が足を踏み込んだ途端、わっとばかりに周囲を取り囲んだ。嬌声が弾け、咽せ返るような香の匂いに、億十郎は完全に虚脱していた。
「そうさ、これが〝暗闇験し〟の最初だ! 覚悟せよ、億十郎! お前が〝暗闇験し〟に耐え切れるかどうか、俺がしっかりと、二つの目で見届けてやる!」
億十郎は両目をひん剥き、鴉を睨んだ。
「ば、馬鹿な! このような場が、試練とは絶対に思われぬ! 鴉! お主、拙者をからかっているのであろう?」
鴉は天井を仰ぎ、かんらからからと甲高い笑い声を上げた。
ちゃんかちゃんかと、軽薄な音曲の中、幇間、芸者が喧しく笑い転げ、億十郎を遊びの輪へ引っ張り込む。
億十郎は腹立たしく幇間の手を振り払い、唸り声を上げて、どっかりと胡坐を掻いた。その横へ、鴉も座った。
億十郎は眉間に怒りを湛え、鴉を睨みつけた。
「ふざけるのも、大概にせよ! 俺は忙しいのだ!」
鴉は「まあまあ」と両手を挙げ、億十郎の肩をぽん、と叩いた。
「我慢しろ! もうすぐ、本番だ! お主がきっと〝暗闇験し〟に立ち向かうと予測して、俺はこの場を用意したのだ。このために、俺はわざわざ先回りしたのだぞ。俺の苦労を無駄にするな!」
何か言いかけた億十郎の目の前に、さっきの幇間がぺたりと腰を下ろす。きっと睨むと、幇間はちょっと首を竦め、芸者たちに指を一本ひょいっと上げて、合図を送った。
見ると、三人がかりで巨大な丹塗りの盃が運ばれてくる。直径三尺はあり、なみなみと酒らしき液体が湛えられていた。
幇間が挑発するような声を上げた。
「さあさあ、大黒億十郎様! 男なら、この酒を一息に飲み干しなされ! 良いですかな、一息で御座いますぞ!」
「断る!」
億十郎は、ぴしゃりと断言した。酒など呑んでいる場合ではない!
しかし鴉は、首を横に振った。
「呑むのだ、億十郎! 呑まねば〝暗闇験し〟は始まらぬ!」
「何っ?」
問い返すと、鴉はもう一度はっきり首を、今度は縦に振る。目には真剣な光が浮かんでいる。
鴉の目に浮かんだ光に圧され、億十郎は差し出された大盃を見詰めた。満々と湛えられた液体は、灯りに照らされ、ゆらゆらと波紋を見せている。
億十郎は両手を伸ばし、盃を受け取る。
ぐっと腹に力を入れ、億十郎は盃を口に近付けた。ぷん、と酒の香りが鼻腔を満たす。
実を言うと、億十郎は酒がそれほど強くはない。猪口一杯で、すぐに顔が真赤になってしまう。
それゆえ酒席は、なるべく避けるようにしていた。鼻腔を満たす酒の匂いだけで、億十郎は完全に酔っ払った気がするほどであった。
唇が盃に触れた。両腕に力を込め、億十郎は盃を持ち上げた。するすると液体が、口の中、一杯に入り込む。
ぐびり……!
億十郎は目を閉じ、飲み始めた。
ぐびり、ぐびり、ぐびり……!
息を継がず、億十郎は目を閉じたまま、盃を徐々に持ち上げてゆく。
いつの間にか辺りは、しん、と静まり返っていた。全員が、息を呑み、億十郎が飲み干すのを待ち構えている気配である。
「ぷあ──っ!」
ようやく飲み干した。億十郎は溜めていた息を吐き出し、大声を上げた。
「呑んだぞっ! 見たかっ?」
わあーっ、と周りから、幇間、芸者たちが歓声を上げ、ぱちぱちぱちと拍手する。
皆、笑顔の中、鴉だけが大真面目な顔つきを寸毫も崩さない。ただ、億十郎の顔を、穴の空くほど見詰めている。




