三
「また常州か!」
億十郎の廻村予定を受け取り、一瞥した留守役は、眉を顰めた。
「いったい、そう、しばしば常州廻りをするとは、どういう了見なのだ、億十郎?」
億十郎は、あくまで素っ惚けている。
「別に。この前、廻村をしたので御座るが、ちと大急ぎで廻りすぎ、見落としがあるのに気付き、これではいかぬ! と思い直した次第で御座います」
「むむむ!」
留守役は、どう言い聞かせようかと、口許をピクピクさせている。
だが、あくまで億十郎が言い張る廻村予定に、表立ってケチをつけられず、結局は頷かざるを得ない。
八州廻りの中には、廻村とは名目で、一箇所で十日も二十日も居座り、飲食、宿泊費のすべて逗留中の村に持たせる、などという輩もいる。
だが、億十郎は、その点では清廉潔白を通している。だから、こんな場合、億十郎の主張を退けるのは、難しいのだ。
「と、とにかく、水戸様とは、何があっても、係わってはならぬぞ!」
くどい……と、億十郎は思ったが、もちろん言葉には出さない。
「畏まって候」
億十郎は、慇懃に辞去の礼をして、立ち上がった。
評定所から外へ出ると、源三が待っていた。億十郎の横に、するりと並んで歩き出す。源三は、億十郎を見上げ、口を開いた。
「雇足軽、道案内の手配、つきまして御座います。億十郎様がいらっしゃれば、すぐに同道すると、返事がありました」
億十郎は「うむ」と頷いた。源三は心配そうな顔つきになった。
「それにしても、今回の廻村、いつもより足軽、道案内の数、多くは御座いませぬか?」
暗に、支払いのことを言っている。今回、億十郎は雇足軽四人、道案内三人という大人数を予定していた。それに億十郎、理恵太、源三の三人が加わるので、十人という大所帯になる。
「今回は、以前のような赤っ恥は掻きたくないからな。足軽や道案内には、後詰めを頼みたい。考慮の憂いなく、水戸天狗党と対峙したいと思っているのだ」
道案内には、筑波山に詳しい人間を選んでいる。地元で山菜、薬草採りを副業にしている百姓が道案内になるので、筑波山攻略には最適と考えたのだ。
億十郎の返答に、源三は一つ頷く。
「そういうおつもりなら、あっしは何も言えませぬ」
だが億十郎は、どんなに大人数で繰り出しても、結局は自分自身が頼りだと思い始めていた。水戸天狗党が【遊客】の集団だとしたら、【遊客】の血を引くとされる自分だけが対決できるのではないのだろうか?
それには、【遊客】の力に目覚めなくてはならない。しかし、どうやったら目覚められるのだろうか?
座禅をして〝悟り〟でも開いたら、覚醒するのかもしれぬ。が、禅の修業など、悠長にやっていられない。達磨大師だって、悟りを得るために、壁観九年を掛けたというではないか。俺は明日、出発するのだ。
と、億十郎の足が止まった。源三も、ぴたりと足を止め、油断なく構えている。
武家屋敷の塀が長く続き、人気のない通りに、一人の男が立っている。横幅の広い、蟹のような身体つき。以前、九八の平太と名乗った、正体は水戸雑賀党忍者、鴉であった。
鴉は、番広の顔に、精一杯の笑顔を浮かべ、近づいてきた。
「『大日本史』確かに受け取った」
「そうか」
鴉の呼び掛けに、億十郎は言葉短く返す。鴉は何のつもりか、腕を組み、面白そうな顔つきで億十郎を見上げた。
「お主、いよいよ廻村に出掛けるつもりなのだろう?」
源三はじろじろと疑いの目で、鴉を睨みつけた。押し殺した声を上げる。鴉の正体は、すでに億十郎から聞かされている。
「それがどうした? 億十郎様に、お主付き纏うつもりなのか?」
鴉の目尻に、笑い皺が浮かんだ。源三など、眼中にないと言っているようである。
「億十郎、俺を同道させぬか?」
億十郎は、意外な鴉の申し出に、思わず顎を引いた。
「何だと……。お主、何が狙いだ?」
用心深く聞き返す億十郎に、鴉は真面目な表情になった。
「お主が筑波山に登れば、再び天狗党が乗り出すだろう。お主一人では危ない。俺が一緒なら、色々と手助けできると思ってな」
「ふうむ?」
億十郎は唸った。鴉は何を考えている?
鴉は、ぺろりと唇を舐めた。
「まあ、出し抜けに俺が一緒に行こうと申し出ても、俄かには答えられるまい。今晩、とっくり考えてくれ。明日、お前が江戸発ちのとき、もう一度、はっきり返事を聞かせてくれればよい。それでは……」
くるりと背を向ける。ひょこひょこと、小腰を屈めた、町人らしい歩き方で遠ざかる。
源三は眉を挙げ、億十郎に向き直った。
「億十郎様! いったい、どうなさるおつもりです? まさか、あんな奴を同道させるおつもりなので?」
「ん?」
億十郎は腕組みをして、遠ざかる鴉の背中を見送っていた。
鴉は人込みに紛れ込み、あっという間に見えなくなった。相変わらず、神出鬼没そのものである。
源三は何度も、首を振る。
「賛成できませぬぞ! あんな、自分を晦ますような者。側に置けば、いつ寝首を掻かれるか、判ったものでは御座いませぬ!」
「そうだなあ……」
億十郎はぼんやりと呟いた。
「億十郎様!」
源三が声を励ました。億十郎は曖昧に首を振った。
「まだ考えは纏まっておらぬ。源三、ちと五月蝿いぞ!」
嗜めると、源三は不服そうに、そっぽを向いた。
億十郎は歩き出した。鴉は確かに、別の狙いがあるようだ。が、それが億十郎にとって吉と出るか、凶と出るか、どうにも判じかねていた。




