八
成覚寺の外へ出ると、雨はすっかり上がっていた。地面には所々に水溜りがあったが、歩くには不自由はない。
通り雨だったのだ。
重い気持ちを抱えながら、億十郎は歩いていた。
二郎三郎の言葉が、胸に沁み込むにつれ、信じられないという気持ちが、徐々に薄れてくる。痺れるような驚きだけが支配していた。
お前は【遊客】だ!
「と言っても、【遊客】の血筋を引くという意味だがな」
二郎三郎はこう前置きして、詳しい話を聞かせてくれた。二郎三郎の説明によると、江戸を創設した際、時々折々に江戸の発展を見守るために、二郎三郎たち開闢【遊客】たちは、江戸に現われていたそうだ。その中の一人が、江戸の人間と恋仲になり、子孫を残したという。
どの【遊客】が子孫を残したのか、それは今では判らない。【遊客】同士の秘密にされたのだ。しかし【遊客】の血は、脈々と受け継がれ、億十郎において、はっきりとした【遊客】の特徴が顕現したのである。
六尺を越える巨体、理恵太ら【遊客】の気迫に耐え切れる、強い意志。総てが【遊客】の特徴である。
「理恵太の要求を断っただと! けっ! 江戸の人間が、そんな洒落た真似、できたもんじゃねえ! お前さんが【遊客】の血を引いていなかったら、考えられないぜ!」
二郎三郎は、ぴしゃりと決め付ける。
「だが」と二郎三郎は首を振った。
「まだ、お前さんは本当の【遊客】の力を発揮はしておらん。もし、本当に【遊客】の力を使いこなせるようになったら、相手が天狗党だとしても、対抗できると思うぜ。俺の考えじゃ、天狗党は【遊客】の集団らしい」
天狗党が【遊客】の集団だろうとは、億十郎も推測していた。二郎三郎は、億十郎の推測を支持してくれたのである。
億十郎は二郎三郎に尋ねてみた。
「開闢【遊客】の方々は、そんな昔から江戸にいたので御座るか? 江戸の歴史は三百年近くありますぞ!」
二郎三郎は謎めいた笑みを浮かべた。
「【遊客】の時間と、江戸の時間は違う。浦島太郎の話を知っているか? ちょっと違うが、俺たちは江戸の時間を〝早回し〟させたのだ。百年の時も、俺たちにとっては、あっという間の出来事だった」
ふと億十郎は疑念が生じた。
「他にもいるので御座ろうか?」
「他、というと?」
億十郎の疑問に、二郎三郎は用心深い表情になる。
「拙者の他に、【遊客】の血を引く人間で御座る」
二郎三郎は「あっ!」と口を開いた。
「おめえ……鴉のことを考えているのか?」
億十郎は深く頷く。
「左様……。拙者の秘密を喝破するには、鴉もまた、同じ【遊客】の血を引く人間でなくては敵いませぬ」
「思いもつかなかった……。しかし、有り得る……!」
二郎三郎は、考え込む表情になる。
「拙者が【遊客】の力を発揮するようになるのは、どうすれば良いので御座る? 何か、特別な修行でも?」
二郎三郎は、ぶるっと、首を振る。
「いいや、修行など関係ねえ! 切っ掛けだ。何か切っ掛けがあれば、お前さんは【遊客】の力を発揮できるだろう。だが、どんな切っ掛けで力を発揮するのか、そこまでは俺には判らねえ」
それきり、二郎三郎は物思いに耽ってしまった。それで、億十郎は話を切り上げ、辞去したのである。
切っ掛けか……!
億十郎は【遊客】の不思議な力を思っていた。
【遊客】は、抜群の体力、反射神経を誇る。それだけでなく、暗闇でも物が見え、普通の人間には聞き取れない音も、聴こえるという。
人によっては、他人の思考を読み取る〝他心通〟や、一瞬で他の場所へ移動する〝縮地の法〟だとか、遠くの出来事や、未来を予知する〝天眼通〟なども会得しているとされるが、億十郎は信じなかった。
帰り道、清洲屋に立ち寄ろうかと考えたが、やめにした。今は理恵太を一人にしたほうが良いのでは、と判断したのである。