七
二郎三郎は記録箱を懐に戻し、考え考え、話し出した。
「お前さんの頼みは、三つになるな。一つ、フライト・レコーダー……記録箱のデータの解析。二つ、こちらの水戸家中で完成した『大日本史』を持ち込み〝鴉〟とやらに渡す。二つは、そう難しくはない。が、理恵太に関する頼みだが……」
指を折って、顔を上げる。
億十郎は慎重に質問した。
「難しゅう御座いますか?」
二郎三郎は持ち前の明るさを取り戻した。
「まあな! しかし、できぬ相談ではない。最後の頼みは時間が掛かりそうだが、何とかするさ! 記録箱の解析は、二~三日は掛かるが、こっちは知り合いのアナリストに頼めば、やってくれる」
「穴……栗鼠と? 穴暮らしをしておる栗鼠でござるか?」
二郎三郎は、億十郎の言葉に一瞬、顔を真っ赤にさせた。頬がぷっと膨らみ、必死に笑いを堪えている。やがて大きく頭を振ると、口を開いた。
「『大日本史』のほうは、難しくはない。しかし、どうやって持ち込むかな? テキスト・データなら、簡単なのだが……こっちで読み込むのには……」
言葉の最後は口の中での呟きになり、二郎三郎は天井を見上げている。出し抜けに、二郎三郎は皮肉な笑みを浮かべる。
「知っているか?『大日本史』ってのは、全三百九十七巻二百二十六冊ってえ、途轍もねえ代物だ。さらに目録だけで、五巻ある。大部どころの騒ぎじゃ、ねえぜ。置いとくだけでも蔵が一つ必要だ」
驚きに、億十郎は仰け反っていた。
「そ、そんなにあるので御座るか! 知らなかった……」
二郎三郎は首を振る。
「安心しな! 本当は『大日本史』の、本紀七十三巻、列伝百七十巻は、光圀さんの存命中に、ほとんど完成していた。この部分は、何度か刊行もされているしな。だから、水戸家中の欲しいのは別巻の、改訂された部分だろう。さすがに巻物の形では大袈裟すぎる。冊子にすればいい。それでも、優に百冊以上はあるが……」
億十郎がほっと安心した顔をしたのを確認して、二郎三郎は考え込む表情になった。
「しかし、これから先、どうする? 鴉という忍者に『大日本史』を首尾良く渡したとしねえ。完全にお前さんは、天狗党を敵に回すぜ。何やら、雑賀党と、天狗党は対立してるようじゃないか。お前さんが鴉に味方したと見做されたら、天狗党はどう出てくるか、予想がつかねえ……」
億十郎は頬が緩むのを感じた。
「もとより覚悟の上で御座る。お蘭が天狗党によって攫われたと考えられる今、敵となって拙者の前に現われるのは、勿怪の幸いで御座ろう」
二郎三郎は頷いた。
「お前さんが言いそうな台詞だぜ! しかし、天狗党は中々、手強そうだ。今のお前さんで、太刀打ちできるかどうか……。このお江戸なら、俺が助太刀できるが、何しろ筑波山だ。遠すぎるなあ。筑波山に同行するだけで、俺が〝ロスト〟しちまう!」
【遊客】のうち、江戸を行動範囲とする者は、遠距離の移動を嫌う。三日間の時間制限が許す範囲でしか、江戸の【遊客】は動けないからだ。
二郎三郎の言葉に、億十郎は俄かに不安を覚えた。鴉の言葉が脳裏に浮かぶ。
「鴉は、拙者に、今の拙者では、天狗党に太刀打ちできぬと忠告しております。どういう意味で御座ろうか? 確かに、筑波山では、さんざんでありましたが」
「そいつあ……」
二郎三郎は絶句した。億十郎は二郎三郎の目付きに、気になる光を見出していた。
明らかに二郎三郎は、何かを隠している!
億十郎は、ずい、と膝を進めた。
「教えて下され! 二郎三郎殿は、何かを御存知なので?」
二郎三郎は腕組みをして、視線を逸らす。億十郎は懇願した。
「教えて下され! 拙者が天狗党に立ち向かえるようになるには、どうすれば良いので御座ろう?」
二郎三郎はじろり、と億十郎を見た。何か決意を固めたらしく、息を吸い込む。
「よし、教えよう! しかし、驚くなよ」
こんな台詞の後には、二郎三郎は決まって他人をからかうような、悪戯っぽい目付きになるのが常だ。
が、今の二郎三郎の顔には、一欠片も、からかう色はなかった。ただ、ひたすら真面目な顔つきを保っている。
「億十郎。俺が言いたいのは、お前さんの、正体についてだ」
「拙者の正体……で御座るか?」
何を言い出すのかと、億十郎は首を傾げた。
「拙者は、一介の御家人。関東取締出役、大黒億十郎、五十俵三人扶持。裏も表も御座らん!」
億十郎の口調は、我知らず憤然となっていた。二郎三郎は「違うのだ」と首を振った。
「お前さんは、【遊客】だよ!」
「何ぃっ!」
億十郎は驚愕していた。




