一
縁側に巨体が蹲り、何か熱心に手許を覗き込んでいる。膝に一冊の絵草紙本が開かれ、巨体の持ち主は、それを読んでいるようである。
農家の庭先らしい。秋の日差しが柔らかく庭先に温もりを伝え、巨漢は半身を照らしながら、絵草紙本の頁を一枚、一枚と捲っている。着流しであるが、髪型や物腰から、百姓とは思われない。どうやら、侍らしい。
膝に広げた絵草紙本は、幾つかの枠が描かれ、その枠内に一つ一つ絵が描かれている。描かれているのは、人物や、風景で、人物の近くには風船のような吹き出しがあり、吹き出しの中には人物が喋る内容が書かれている。
描線は単純で、ひどく簡略化されている。
これは、漫画絵草紙なのだ。江戸にやってくる【遊客】が持ち込んだ絵草紙の形式で、それまでの絵草紙を完全に駆逐し、今では絵草紙と言えば、この漫画絵草紙を指すようになった。
不意に巨漢の上半身が波立ち、顔が真赤に染まった。
「ぷっ! ぷふふふふふっ!」
吹き出した。笑っている。顔が笑いに歪み、身体中を波立つように揺らしている。
「億十郎様!」
背後で、呆れたような男の声がした。
億十郎様と呼ばれた男は、ちらりと声の方向を振り向いた。
庭先に、勿体ぶった顔つきの、中年男が立っている。髪型は町人髷であるが、これもまた、縁側に座っている巨漢と同じく、百姓とは思われない。どことなく、江戸暮らしが長そうな雰囲気を放っている。
中年男は、巨漢の手許を覗き込んで、顔を顰めた。
「また、滑稽草紙で御座いますか? 好い加減になさいまし!」
叱りつけるような口調である。
「源三、ちと煩いぞ! 暇なのだから、大目に見ぬか」
ぶつぶつ呟きながら、億十郎は、また膝元の本に視線を落とす。少し読み進み、また顔を笑いに歪ませる。
源三は、首を大きく横に振った。
「暇ですと? 何が暇ですか? 今日中にあと三箇所を見回らないと、江戸に戻れませんぞ! さあさあ、そんな詰まらぬ本など置いて、出掛けましょうぞ」
せかせかと言い立てる。
億十郎は未練たらしく、それでも絵草紙本に見入っていた。
だが、源三が側に寄って、すぐにでも立ち上がらないとさらに口を開きそうなので、諦めて立ち上がった。
ぐい、と懐に本を捻じ込み、三和土で身を屈めて草鞋の紐を縛った。縁側に置いたままの両刀を掴むと、帯に手挟んだ。
「あっ! お立ちで御座いますか? 何のお構いもできませんで……」
億十郎の出立する気配に、農家の奥から、主人らしき老人が慌てて飛び出した。
億十郎は老人に向け、にっこりと笑った。
人の良い、あけっぴろげな笑顔である。
「親爺、世話になった! また寄らしてもらう」
老人は「へへーっ!」と大仰に返事をすると、身を折り曲げるように縁側に膝を落とし、両手を突いて土下座した。
億十郎は日除けのため、笠を被ると、ゆったりとした歩きで庭先から畦道へ出た。
大黒億十郎。五十俵三人扶持。関東取締出役。俗に言う、八州廻りである。
身長六尺、体重は三十貫に近い。相撲取りと見違えそうな、巨漢である。しかし、肥満した感じはあまりなく、身動きは、きびきびとしている。
後から従っている小者の源三は、五尺にやっと届くほどの身長で、ちょこまかとした小走りで億十郎の後を追っている。
もっとも、億十郎はゆったりと歩いているようで、存外と足は速い。歩調を合わせようとすると、どうしても小走りになる。
億十郎が八州廻りを拝命して、三年が経った。
最初の一年は、関東地方総ての悪党を一掃する気構えであった。が、三年も経つと、悪党など、大勢うじゃうじゃいるわけもない、という至極当たり前の事実に気付いてしまった。
武蔵、相模、上総、下総、安房、上野、下野、常陸で八州であるが、悪党が総ての村々に潜んでいるわけもなく、最初の意気込みはすっかり抜けてしまっている。
今では適度に働き、適度にのらくらする術を会得していた。が、小者の源三に言わせると「億十郎様はのらくらするだけ」となるが。
畦道を歩くと、道の分かれ目に数人の男がのんびりと煙管を咥えていたり、腰を下ろして、億十郎の接近を待っている。