五
「昼食が用意してあります」と、大旦那の久兵衛が引き止めるのを、億十郎は「いや、自宅へと帰る!」と断り、振り払うようにして店を出た。
何やら、あまりにも馴れ過ぎているような気になったからである。
億十郎は確かに、清洲屋の娘、お蘭の婚約者ではある。しかし、当のお蘭は行方不明。婚約者の捜索中である億十郎が、これ以上に馴れ馴れしくなるのは、考え物だと引き下がったのだ。
源三と一緒に店先を出ると、路地から九八の平太が飛び出し、横に並んだ。
「旦那! 今度はいつ、廻村の旅に出るおつもりですかい?」
煩わしさに、億十郎は悲鳴を上げたい気分だった。それでも億十郎は、むっつりと答える。
「まだ判らん。評定所に、こたびの報告も済んでおらぬからな」
平太は伸び上がるようにして、話し掛ける。
「へえ! それじゃ、報告ってのが終わって、次の廻村の予定が立ったら、声を掛けておくんなさい! あっしも、旦那の後を従いてゆきますぜ!」
億十郎は無言のまま、真っ直ぐ前方を見たままだった。胸中「勘弁してくれ!」と叫びたい気分である。
億十郎が何も言わないので、平太はあてが外れたような顔つきになった。小腰を屈め、それでも言葉を押し出す。
「それじゃ、今度の旅には、必ず御一緒いたしますんで、よろしく……」
ぴょこぴょこ、頭を下げ、その場を離れていった。
平太の後ろ姿を見送り、源三が声を掛ける。
「億十郎様。本気で、あの平太と申す、岡っ引きを連れ歩くおつもりですか?」
億十郎は苦笑いをした。
「追っ払っても、しつっこく従いてくるだろうな! 気にせぬのが、一番だ」
「へっ! ちげえねえ!」
源三も薄く笑って、同意した。
億十郎の自宅は、馬場の近くにある。敷地は広いが、家作は粗末なものだ。門はなく、安普請の板塀が周りを囲っているだけである。
旅支度を解くと、億十郎は片肌脱ぎになって、日課の素振りを始めた。源三は、厨へ廻って竃に火を入れ、食事の用意を始める。
素振り千回。びっしりと汗を掻き、億十郎は褌一つになると、井戸から水を汲み上げ、頭からざんぶと被る。
さすがに水は冷たい。しかし、億十郎は夏だろうが、冬だろうが、必ず素振りの後は、水浴びをするのが決まりだ。
さっぱりすると、太い荒縄でごしごしと体中を擦る。たちまち皮膚が真っ赤に染まり、冷たい井戸の水で濡れた身体から、湯気が立ち上る。
疲れも、旅塵も落とし、億十郎は浴衣に着替えて、縁側に腰を下ろした。ふと、軒越しの、秋空を見上げている。
考えはつい、筑波山での敗走に戻る。自分でも見っともないほどの、完敗であった。つくづく、剣の無力さを思い知る。いくら剣術が達者でも、天候すら思いのままにする相手に、どうやって勝てるのか?
そろそろ、源三が、食事の用意が調ったと言いに来る頃だが……。
立ち上がろうとした刹那、庭の植え込み辺りから人の気配を感じた。
「お主か」
強いて平静を装い、億十郎は植え込みに向かって声を掛けた。
筑波山で億十郎に話し掛けて来た、謎の相手だ。ここまで尾けてきたのか? 確かめるため、言葉を重ねる。
「お主には、筑波の山で世話になったな?」
瞬時に、答があった。しかし気配とは別の方角から聞こえてくる。相変わらず、こちらを惑わす術を使っているようだ。
「ご明察……。無事、『虚ろ舟』の記録を手に入れたようだな?」
億十郎は、かっとなった。
「お主が呉れたのではないか!」
くくくく……。謎の相手は、忍び笑いで返した。
「どうした。嬉しくないのか? 記録が手に入れば、理恵太と申す【遊客】が、どこからこの世に出現したか、判別できるであろう」
心中の驚きを、億十郎は必死に押し隠した。相手は理恵太の名前まで知っている! さらに、記録箱についても相当に詳しい事情を把握している!
「お主、何が狙いだ? 拙者に恩を売るつもりかな?」
「まあな」と相手は気のない返事をする。
億十郎は口調を変えた。
「なあ、お主が何者か知らぬ。尋ねても、答えてはくれまいよ。しかし、名無しのままでは不便だ。せめて呼び名でも決めてはくれぬか?」
「鴉」
ぽつりと、一声。億十郎は眉を顰めた。
「鴉? それがお主の名前か?」
「そうだ。以後、鴉とのみ、呼べ」