四
理恵太の大声に、億十郎と源三は顔を見合わせた。
「水戸黄門よね? 光圀って名前」
理恵太は、なぜか一人で興奮して、目をキラキラさせている。
億十郎はやっと口を開いた。
「それは……。確かに光圀様は、中納言をお勤めになっておられるので、黄門とお呼びしても間違いでは御座らん。しかし、それを言うなら、総ての水戸家当主は、黄門で御座るぞ。水戸家の当主は、中納言に登るのが慣例で御座るからな」
「えっ? そうなの? それじゃ助さん、格さんと一緒に全国を旅したのは?」
億十郎は理恵太の話に、唖然とした。
「何を仰る! 中納言様が、全国を旅したと申されるか? 何のために?」
理恵太は、おどおどと視線を彷徨わせる。
「そ、そりゃ、世直しのために……。あたし見たんだから! 時代劇で!」
億十郎は、ぱかりと口を開いた。たびたび【遊客】から聞かされる中で、最大の謎として残っているのが、この「時代劇」という言葉である。
呆れ顔の億十郎と源三に、理恵太は段々と自信を喪失した様子だった。
「違うの? あたし時代劇の『水戸黄門』大好きだったんだけどなあ……。葵の御紋がついた印籠を見せる場面!」
言えば言うほど、億十郎と源三が呆れ顔になるので、とうとう理恵太は黙り込んだ。
葵の御紋を見せびらかすなど、馬鹿馬鹿しい。いくら御三家の当主といえど、そのような酔狂な真似をすれば、咎を受けるのは目に見えている。
源三が咳払いをして、話を続けた。
「それで、その『大日本史』なので御座いますが、御存知の通り、『大日本史』は日の本の国の成り立ちから、歴史、あらゆる事跡を網羅する書物で御座います。そのためには、沢山の儒学者、書物、各地の御文庫の資料などを集めなくてはならず、膨大な時間と、人手と、もちろん資金が必要となりまする。水戸家中は知っての通り、苦しい領国経営の中から資金を捻出しておりますので、民草の苦しみは、いかばかりか……」
理恵太が首を捻っているので、億十郎は説明してやった。
「つまり、重税を課せられたのだ。元々少ない領地から、検地で水増ししているのに、さらに絞り上げているから、水戸家中の百姓は、恐ろしく貧しい暮らしを強制されておる。本来、御三家、幕府直轄領においては、他領の模範となるよう、税率も低くなっているのが通例だが、水戸家中だけは、例外的に重税を課している」
理恵太は心底、意外そうな顔つきになった。
「でも、水戸光圀って、名君じゃないの?」
億十郎は肩を竦めた。
「世間では、そう申すが……。かの綱吉公の〝生類憐みの令〟では、光圀公は、わざと犬の毛皮でできた羽織を献上して物議を醸した、という評判であった。つまり『悪法により臣民は苦しんでおる』と言いたいのだな。世間では、喝采を受けた。だが、領国においては、百姓は塗炭の苦しみに喘いでおる。百姓の暮らしを安んずるのが名君とあれば、光圀公においては、畏れながら、名君の資格は欠けておると言わざるを得ぬ!」
「そんな……。名君じゃないなんて……」
理恵太は肩を落とし、目を伏せた。何だか、今まで信じていたものが、音を立てて崩れ去ったような顔つきであった。
「ところが、で御座います」
いよいよ佳境に入るとばかり、源三は膝をぱんと叩き、声を高めた。とんと講釈師である。張り扇が欲しい所だ。
「水戸家中が借金していた札差の幾つかに、出し抜けに借金の繰り延べ返済を申し入れたという噂で御座います」
「何だと……?」
源三は、にんまりとしてやったりの顔つきになると、声を潜めた。
「今まで大名が借金の棒引きを申し入れる例はあるが、借金を返済する相談など、前代未聞で御座いましょう。相談を持ちかけられた札差は、喜んでよいものか、狐か狸に化かされたのではないかと、疑っているらしゅう御座いますな。これは他聞を憚る事柄でして、まだ世間にも洩れてはおりませんが、専らの噂になっております」
億十郎は腕組みをして、唸った。
「なぜ、そのように俄かに金回りが良くなったのだ? 水戸家中において、金のなる木でも見つけたか?」
源三は首を振った。
「金のなる木……。例えば金山を発見したというなら、判りますが、あの辺りには何一つ採掘できるような山は御座いません。金どころか銅、鉄すら皆無で御座いますからな」
億十郎は、がばっと顔を上げた。
「まさか! 目黒富士での娘たちの失踪?」
源三は顎をぐっと引いた。
ゆるゆると億十郎は頭を振る。
「人身売買……」
言葉に出して、改めて戦慄が込み上げた。
それでも、疑問は残る。もし、目黒富士での失踪が水戸天狗党に関係しているとする。さらに娘たちを人身売買において、金にすると考える。
だが、膨大な水戸家中の借金を返済するほどの金額になるとは、考え難い。
第一、どこの誰が娘たちを買うのか? 買って、どうする?
億十郎はふと視線を、畳に置いたままの「虚ろ舟」の記録箱に止めた。
記録箱は、斜めに差し込んだ昼の日差しに、冷徹な光を放っていた。
なぜか、記録箱が、総ての謎を解き明かしてくれそうな気がしていた。




