四
清洲屋で「大旦那様」といえば、お蘭の父親、清洲屋久兵衛に決まっている。お蘭の姉のお幸に婿入りした藤介は、単に「旦那様」あるいは「若旦那」と呼ばれていて、主に帳面付けや、若い女性客の相手を務めている。藤介は、中々の男前で、若い女性に人気があるのだ。
店先で倒れた惣助は、すぐに奥へと運ばれ、清洲屋掛かりつけの医者が呼ばれた。
坊主頭を振り立て、薬箱持ち、小者を引き連れて駕籠で乗りつけた医者の道庵は、すぐに惣助が寝かされている奥の間に通されると、脈を取った。
惣助の周りには、主人の久兵衛、お蘭の母親のお喜美。姉のお幸、藤介がずらりと雁首を揃えて「道庵の診断やいかに?」と息を呑んで見守っていた。
「どうも判らん。脈は弱いが、正常に打っている。ひどく疲れているようだが……」
ひとしきり脈を計っていた道庵は、眉を顰め、呟いた。
「命に別状は御座いませんので?」
恐る恐る声を掛けた久兵衛に、道庵は頷いて見せた。
「命に別状はない。何が不審なのかな?」
久兵衛と、お喜美の夫婦は顔を見合わせた。やがてお喜美が口を開いた。
「実は……、今朝方から惣助は、娘のお蘭と目黒富士に出掛けておりまして。それが、夕方近く、惣助だけ帰ってまいりましたので」
道庵の眉が、八の字に開いた。
「そう言えば、お蘭坊の姿が見えぬな。惣助と一緒ではなかったのか?」
道庵は、お蘭が生まれた時からの掛かりつけで、今でも「お蘭坊」と呼ぶ。
唇を舐め、久兵衛は苦痛を堪えるように、訴えた。
「一緒に出掛けたのは、判っております。行き先も……。しかし、帰ったのは、惣助一人で御座いました。私どもは、娘のお蘭はどうしたのか、問い詰めました。ところが!」
久兵衛は横たわったままの惣助を眺めた。
惣助の顔は、道庵が到着するまでのたった半刻の間に、げっそりと痩け、両目が落ち窪んでいた。皮膚には艶がなく、生ける屍のような雰囲気を放っている。
「このような有様で、何も知らないと繰り返すばかりなので御座います」
「何と……」
呆れたように、道庵は唇を窄めた。
「それでは惣助は、お蘭坊をたった一人、残したまま帰参いたしたのか? そのような気儘を、清洲屋は許しておるのか?」
口調には非難の調子が含まれている。
「違うので御座いますよ!」
ずい、と膝をにじらせ、藤介が前へ出た。
「惣助は、お蘭の名前など知らない。一緒に出掛けたなど、覚えが一切ないと言い張るので御座います!」
道庵は「ひゅーっ」と息を吸い込んだ。
「信じられぬ! 惣助は、お蘭坊お付きの下男ではないのか? お蘭も、惣助には心を許す仲のはず。そのお蘭坊を、惣助は知らぬと言い張るのか?」
全員が申し合わせたように頷くと、道庵は表情を険しくして、腕組みをした。
「そのような症例……儂の知り合いの【遊客】の言葉にあったのう……。確か〝記憶喪失〟と申しておった……。む?」
惣助の口が微かに動いている。何か呟いているようだが、声が小さすぎて、今まで聞こえてもいないのだ。
そうと気付いた道庵は、顔を近づけ、耳を惣助の口許に押し当てた。
「知りません……知りません……お蘭様など、知りません……」
そう、聞こえた。道庵は、身を起こし、首を傾げた。
「譫言のように、繰り返しておる……。本当に、記憶からすっぽり抜け落ちているのか……?」
久兵衛が身を乗り出した。
「その【遊客】のお方は、お医者様なので? 惣助の記憶を戻す方法が御座いますのか?」
道庵は「いや」と軽く首を振った。
「医者ではないが、【遊客】の例に洩れず、色々な物知りでな。儂は、ちょくちょく件の【遊客】から、新しい療法を教えてもらっておる。しかし、さすがに、失った記憶を戻す方法は、教えてもらってはおらぬ」
お喜美が、堪りかねたように袖で涙を拭った。
「お蘭は、どこへ行ったのでしょう? なぜ、惣助一人で帰ったのか……!」
その時、ばたばたという慌しい足音が表から聞こえ、奥の間に近づいてきた。久兵衛は驚きに、思わず膝立ちになって近づく足音に首を捻じ向けていた。
清洲屋が浅草で店を開いて久兵衛で三代目になるが、一度たりとも、このような無作法な足音を、使用人が立てたとは、記憶になかった。
足音は松吉だった。主人の顔を見て「大旦那様!」と大声を立てる。本来なら、番頭、大番頭に順に話を持ってきて、必要なら大番頭が言上するはずなのに、それらの手続きを完全に無視して、直接どたばた廊下を走ってきたらしい。
「大旦那様! た、大変で御座います!」
久兵衛は顔を顰めた。
「何だね、騒がしい。お客様がいらっしゃるのに……!」
「他にもいたんです!」
「他とは、何だ?」
松吉はくしゃくしゃと顔を歪めた。
「お嬢様と同じく、目黒富士で行方不明になった娘さんが!」
「何だって!」
全員、声を合わせ、身を浮かせた。久兵衛は膝立ちのまま廊下へと進み、松吉の胸倉を掴み上げた。
「詳しく話を聞かせなさいっ! 他にも、行方不明の娘さんがいるんだって?」
「へ、へえ……」
松吉は、がくがくと首を動かした。
「町中、噂になっております! 目黒富士に登って、そのまんま、姿を消してしまった娘さんの話が、あちこちで……。皆、小町と噂される、美しい娘さんばかりだそうで。上は二十歳過ぎの年増から、下は十四、五歳くらいまで、両手の指じゃ数え切れないほどだそうで御座います!」
久兵衛は松吉に顔を押し付けるように、喚いた。
「親御さんは、どう言っている? それほど大掛かりな神隠し、何で今の今まで、あたしの耳に入っていなかった?」
ごくり、と松吉は唾を呑み込んだ。
「それが、不思議にも、一緒に出掛けた身内のお人の総てが、姿を消した娘さんを憶えていないんで御座いますよ。人に言われて、初めて自分が娘と一緒だと思い出した親御さんや、使用人が出てきたそうで……。そ、惣助さんと、おんなじで御座います!」
くた、と久兵衛は背を丸めた。掴んでいた松吉の胸倉を離す。松吉はべたりと腰を抜かし、ぜえぜえと喘いだ。
「何たる話だ……。信じられぬ……」
それまでじっと黙って遣り取りに耳を傾けていた藤介が顔を上げた。
「旦那様……。一つ、お嬢様の神隠しを御報告申し上げなければならない先が御座いますぞ!」
久兵衛は、どんよりとした視線を娘婿に向けた。
「申し上げなければならないとは、どなただね?」
藤介は真剣な表情になっていた。
「大黒億十郎様で御座います」
「ああっ!」と叫び声を上げ、久兵衛は仰け反った。
「そうだった! 億十郎様に、何としても、御連絡を申し上げないと!」
「早飛脚を仕立てましょう!」
藤介は、きびきびと返答すると、立ち上がった。