一
久しぶりに見る江戸は、何も変わっていない。道案内や足軽と別れ、億十郎は九八の平太を伴い、江戸に入った。
「それじゃあ、旦那。ここでお別れでござんす」
平太は億十郎を見上げ、ぺこりと頭を下げた。
数日間の同行で、平太はすっかり億十郎に懐いてしまっている。何度か、旅の途中で「旦那は新しい手先を雇うおつもりはござんせんか?」と謎掛けしてきた。
恐らく、南町の手先より、旅から旅への気楽な(と平太は思っているらしい)八州廻りの生活が気に入ってしまっているのだ。
平太の素朴な謎掛けのたびに、億十郎は「御家人の安お手当てでは、一人を雇うのが精一杯だ」と答えた。実際、億十郎は源三が一人いれば充分と思っている。
日本橋の袂で億十郎は一人になり、浅草の清洲屋に足を向けた。
懐には「虚ろ舟」の記録箱が納まっている。
「御免!」と声を掛け、億十郎は店内に立った。相変わらず、茶を煎る香ばしい匂いが、店先に漂っている。
店先には、小売の商品がずらりと並び、客たちが楽しそうに品定めをしていた。
すぐに店の者が億十郎に気付き、店先は慌しくなった。
すっかり億十郎にとっても、清洲屋は我が家に近い感覚になっている。
上がり框に、お幸が姿を表した。
「まあ、億十郎様!」
弾んだ声を上げ、框に正座する。三つ指を立て、深々と頭を下げた。
「よくお帰りになられました」
億十郎は「うん」と頷いた。お幸に「お帰りなされました」と言われて、その気になってしまっている自分に気付く。
奥から若旦那の藤介が、いそいそとやってくる。億十郎の顔を見て、笑みを浮かべた。
が、すぐに使用人に命じた。
「億十郎様がお帰りになったと、源三さんにお知らせしなさい! 急ぐんだよ!」
さすがは、頭の回りが早い。
「源三が来るまで、待たせて貰う」
億十郎の言葉に、藤介は心得顔になって頷く。
「離れを用意しております。誰か、足盥を持っておいで!」
足盥を持ってきた小僧の松吉に足を洗わせ、億十郎は手拭で足を拭って、店内に入り込んだ。藤介が先に立ち、離れに案内する。
横に並んだ藤介に、億十郎は話し掛けた。
「ところで、理恵太殿は?」
「ああ」と藤介は顔を上げた。
藤介の表情を見て、億十郎は「おや?」と思った。妙な表情を浮かべている。
面白がっているような、何かを期待しているような表情だ。隠し事をしているときの、顔つきである。
億十郎は何も言わず、藤介の案内に従って、離れへと歩いた。




