五
気を失ったのは、一瞬だった。
苦痛に背筋を反らし、億十郎は声も出さずに、耐えた。
ひゅーっ、と音を立て、息を吸い込むと、ゆるゆるとした動きでどうにかこうにか、立ち上がる。
呼吸するだけでも、苦痛だ!
どくん、どくんと蟀谷の血管が、大きく脈打つのを感じる。
「億十郎様!」
道案内と、足軽が大声を上げる。顔には、心配そうな表情が張りついている。
「大事ない!」
億十郎は、やっと、それだけを呟いた。
額から、冷たい汗が流れるのを感じる。さぞ、今の自分は、真っ青な顔つきだろうと想像した。
「行くぞ!」
短く命令すると、億十郎は息を詰め、大きく伸び上がって地を蹴った。顔を挙げ、背後を振り返る。
山の稜線にかけて、強風が辺りの葉や、草を巻き上げているのがわかる。まるで竜巻の中に突っ込んだみたいだ。
はっと前方に目をやると、そこは、からりと抜け上がった青空が広がっている。山のごく一部分だけが、恐ろしい強風に見舞われているのだ。
億十郎には、風が悪意を持って襲い掛かってきたとしか、思えなかった。億十郎らの足を止め、引き返させる意思が、風には込められている。
糞っ!
億十郎は悔しさに、歯を食い縛る。うっかり口を開けば、自分でも何を言い出すか、押さえ切れない。今は何も言うまい!
億十郎に話しかけてきた、あの声は「天狗の結界」と言ってきた。つまり、筑波山全体が天狗党により、何らかの特殊な結界の中に封じ込められているのだ。
突然の強風が、結界の存在を示している。
もし、あの風が、人為的な結果だとしたら、どんな手段でも、億十郎には対抗できない。天候を思いのままに操る相手に、どうやったら勝てるのか?
それに加えて、行く手を塞ぐように現われた、大天狗!
億十郎は、てっきり幻か、何かだと思った。ところが、天狗が掲げた錫杖から放たれた紫電は、現実に草叢を焦がし、億十郎の鼻は、奇妙な匂いを嗅いでいた。
以前、億十郎は、落雷を経験している。
天狗の紫電は、億十郎の経験した落雷、そのものだった。
「だ……旦那……待って、おくんなせえ……!」
背後から、喘ぎ喘ぎ九八の平太が追いかけてくる。知らぬ間に、億十郎の足は、飛ぶように山中を走っていた。
こけつまろびつ、平太が胸元まで達しそうな草叢を掻き分け、掻き分け斜面を下ってくる。背中には、大きな荷物を背負ったままだ。
あれでは草に足を取られ、すっ転んでしまうぞ、と億十郎が思った瞬間、平太は「わあーっ!」と悲鳴を上げ、顔から突っ込んで地面に転がってしまった。
ざざざざざっ! と、派手に平太は草叢の中を転げ落ちて行く。
「うひゃあ!」という悲鳴だけが、茂みの中から聞こえていた。
追いかけると、平太は、やや開けた場所に、天を仰いだ姿勢で引っくり返っていた。
「馬鹿! 大荷物を背負ったままだからだ! 拙者が、捨てろとあれほど言ったのが、聞こえなかったのか!」
平太は、ぱちぱちと瞬きして、億十郎を見上げた。
怖々と起き上がり、自分の身体をまさぐる。
「怪我はなさそうで御座いますな。なんとまあ、運の強い!」
背後から呆れるような声がして、道案内と足軽が身軽に斜面を駆け下りてくる。
平太は盆の窪に手をやった。
「へえ、おかげさまで……」
言うなり、にったりと笑った。あっけらかんとした平太に、道案内と足軽は苦笑した。
「億十郎様。これから先、いかが致しましょう?」
足軽の問いに、億十郎は腕を組んだ。眉間に力がこもり、眉が寄る。億十郎は恐ろしく不機嫌になっていた。
「どうするも、こうするも、引き返すしか手はなさそうだな!」
ぶっっきら棒に答える。まさしく、億十郎の完敗であった。文字通り、手も足も出ず、筑波の山から追い返されてしまった。
さらに腹立たしいのは、肝心の目的が達せられなかったからだ。
言うまでもなく、「虚ろ舟」の記録箱である。すごすごと、何の収穫もなく、引き下がらなければならない。
億十郎は平太が後生大事に、食料の入った荷物を背負っているのを見て、叱った。
「いつまで、そのような荷物を抱えておる? 我らはもう、この山には用はないのだぞ」
平太は一声「へえ」と頷くと、のろのろと荷物を解き始めた。
「でも、折角だから、何か食べてからにしませんか?」
自分で言って、改めて空腹なのに気付いたように腹を撫でる。道案内と足軽にも声を掛けた。
「ねえ、せめて一口だけでも。勿体無いじゃござんせんか?」
平太の天真爛漫といっていい態度に、道案内は億十郎にとりなすように話しかけた。
「億十郎様。そう言えば、そろそろ昼になりますな」
「判った! 勝手にしろ!」
億十郎はどかりと、その場に胡坐をかいた。
平太は早速、ニコニコ顔になって、荷物を広げた。干し柿、乾し芋、煎り栗などを選り分け、昼食の用意を始める。
と、平太の手が止まる。
「ありゃ、こりゃいってえ、何でえ?」
頓狂な声に、億十郎は目を上げた。
「こんなもの、入ってたかなあ……」
昼の日差しに、きらりと金属質の反射が億十郎の目を射る。億十郎は目を一杯に見開いた。
「見せてみろ!」
手を伸ばすと、平太が手の平に載せる。
小さいが、ずっしりとした手応え。全体は箱型で、白銀色の金物でできている。
奇妙な字が書かれていて、億十郎には一字も読めない。蟹が這ったように、横に並んでいる。
億十郎は、箱を思い切り握り締めた。
「虚ろ舟」の記録箱だ! 間違いない。
なぜ、こいつが平太が背負っていた荷物の中に入っている?
あいつの仕業か……!
糞っ!
億十郎は悔しさに、身を震わせていた。




