四
吹き付ける強風に、億十郎は恐ろしく強烈な殺気を感じ取っていた。まるで風そのものが、意思を持って億十郎を拒絶しているように感じていた。
急激に気温が下がり、億十郎の口許から白い息が吐き出される。
隣で平太が、寒さに震え上がり、かちかちかちと小刻みに歯を鳴らしている。
風には霧雨が混じり、前方は白く煙って、何も見えない。
ひゅっ、と億十郎の頬に、鋭い痛みが走った。手の平で押さえると、僅かに血が滲んでいる。
もう一度、何かがすぐ間近を飛来する。
ぴしっ、と軽い音を立て、袴が切り裂かれた。
億十郎はさっと、手の平を上げた。
手の平に鋭い痛み。
握って、目の前に持ってきて、開いた。
掌に、薄い草の一部が残っている。
億十郎は大きく目を見開いた。
何と、こんなちっぽけな葉が、億十郎の頬や、着物を切り裂いたというのか?
一方、風は益々強烈になる。もう、地べたに這いつくばるようにしないと、あっという間に背後に持って行かれそうになる。
「億十郎……引き返せ!」
白い闇の中から聞こえた声に、億十郎はさっと顔を上げた。
「今のは、誰だっ?」
後ろに這い蹲っている三人は、億十郎の叫びに一斉に首を横に振る。
「引き返すのだ。ここは天狗党が作り上げた結界になっている。これ以上、先に進むのは無理だ……」
億十郎は歯を食い縛った。
声は、明らかに昨夜の相手だ。ここまで、尾行してきたのか。口惜しいことに、億十郎には、まるっきり相手の気配は感じ取れなかった。
もはや意地だけが、億十郎の手足を動かしていた。
風に逆らい、這いずるようにして、一歩一歩、億十郎は先に進んでゆく。
うわはははは……。
前方で、笑い声が轟いた。
顔を上げると、何と霧の中に、巨大な天狗が、すっくと立ち上がっている。
身長は十丈を軽く越えている。右手には錫丈を構え、額には頭襟。鈴懸の法衣に、結袈裟と、約束通りの装束である。
天狗の顔は、てらてらと油を塗ったような赤い色をして、ぐっと突き出した鼻。ぐいっと食い縛った口をしていた。
表情は笑い顔であるが、二つの目は、燃え上がるように爛々と輝いていた。長い髪の毛が、吹きすさぶ風に舞い上がっている。
ぐいっ、と天狗が顔を動かし、億十郎を鋭く見詰めた。
はっ、と億十郎は頭を下げていた。
「天狗党の結界を侵すとは、不届き者め!」
天狗は、轟き渡る大声で叫んでいた。
「去れ! とつ、去らんべし!」
ぎいーんっ! と、天狗の錫丈が金属音を立てる。錫杖の音に、億十郎は両手で耳を塞いで身を捩っていた。
「見たであろう。ここは天狗党が作り上げた、結界になっている。へたに入り込むと、命が危うい!」
声は風の中でも、はっきりと億十郎の耳に届いていた。
「引き返すのだ、億十郎。ここでの退却は、恥にはならぬ! いずれお主が相応しい力を蓄えれば、もう一度こやつに挑戦できる!」
天狗はぐっと手にした錫杖を掲げる。
ぱしっ、と鋭い音がして、錫杖の先から、眩い紫電が空中を切り裂いた。
ぐあっ! と、近くの茂みが燃え上がる。つん、と鼻の奥を刺激する、金臭い匂いが辺りに籠もった。
幻だ! ただの目晦ましだ!
億十郎は必死に自分に言い聞かせる。
「ひえええっ!」
平太が真っ先にくるりと背を向け、逃げ出した。逃げ出すとき、何を考えていたのか、地面に放り出していた荷物を引っ攫い、背中に担ぎ上げる。
億十郎は唇を噛みしめた。足軽と道案内に向け、叫ぶ。
「引き返すぞっ!」
二人は同時に頷き、億十郎の前後を固めるように後退を始めた。億十郎は背後を見上げたまま、後ろ足に後退する。
巨大な天狗は、吠え立てるような笑い声を上げていた。
億十郎の足が、山肌に刻まれた階段に差し掛かった。巨大な天狗の姿が視界から消えかけた瞬間、足を踏み外す。億十郎の身体は、一気に何丈もずるずるっ、と崖を滑り落ちていた。
背中が岩の突起に、どんっ、とぶち当たり、億十郎は痛みに意識が暗くなる。
そのまま億十郎は、気を失っていた。




