二
出し抜けに気配が生じ、億十郎は息を、ゆっくりと吸い込んだ。億十郎の右斜め前に、気配は凝固している。
殺気はない。億十郎の出方を窺っている。様子を見ているだけなのか?
先刻まで単調に寝息を続けていた足軽と、道案内の二人が目を覚ましていた。しかし、ぴくりとも身動きはせず、静かに呼吸を続けている。
星明りに、二人がそろそろと武器に手を伸ばすのを、億十郎は確認している。
ぴん、と張り詰めた緊張の中、平太だけが太平楽にごおごおと鼾を掻いている。
気配が移動している。
右斜め前から、さらに億十郎の右横へと、移動している。しかし、かさ、とも草の音はしない。穏行の達人らしい。もしかしたら、忍びかもしれない。
忍び?
億十郎の知る忍びといえば、江戸城御庭番か、柳生である。しかし、その他に、大名、旗本が個人的に忍者を雇っている可能性も、否定しきれない。
先刻まで、相手の気配は欠片も感じなかったが、一瞬で生じたのは、わざとかもしれない。充分に近づくのを待って、自分の存在を知らしめたとも、考えられた。
ともかく、相手の意図が判らない。
敵か味方か?
「大黒億十郎であるな?」
億十郎のすぐ耳もとに、低い男の声がした。億十郎は、身動きを必死に耐えた。反射的に大刀を抜き放ちたい衝動を、どうにか押さえた。
相手は、まだ距離がある。耳元で聞こえたのは、声を焦点に当てて送る技を使っているのだ。そんな技が、奇門遁甲にあるのを、億十郎は小耳に挟んでいる。
「誰だ!」
億十郎は、食い縛った歯の間から、声を押し出した。
くくくく……。と、相手は含み笑いを洩らす。楽しんでいる。億十郎は、怒りに体が熱くなるのを感じていた。
「忠告しておく。このまま引き返せ。筑波の、天狗党には近づくな」
億十郎は素早く返答した。
「なぜだ? 拙者を知っているお前の正体を教えろ!」
「お主の味方、と今は言っておく。少なくとも、敵ではない」
声はゆったりとした調子で囁いた。声の言葉どおり、気配に、殺気は微塵も含まれていない。
億十郎は、必死になって考える。
「敵ではないと申すなら、天狗党とは関係ないのか? なぜ、引き返せと命令する?」
相手は声の調子を変えた。子供に諭すような、噛んで含める口調になる。
「今のお主では、天狗党は敵わぬからだ。戦えば、必ず命を落とす。お主には、役目がある。お主の役目を果たすには、今のままでは力量不足なのだ」
億十郎は闇の中で、眉を顰めた。
「拙者の役目? それは、何だ?」
しかし返事はなかった。
気配は消え去っていた。
億十郎は、ほっと安堵の息を吐いた。
気がつくと、全身がびっしりと汗で濡れていた。
「億十郎様……」
ごそごそと身動きして、足軽と道案内の二人が身を起こした。二人とも、道中差を抜いている。
「良い。相手は去ったようだ」
億十郎の言葉に、二人はぱちりと道中差を納める。
恐ろしいほどの戦慄が支配していた。
何者か判らないが、相手は信じられないほどの穏行の巧者らしい。接近をまるで感じとれなかったばかりか、立ち去る気配すら、欠片も感じさせない。
まるで幽霊である。
「いかが、いたしましょう?」
足軽がそっと、億十郎に尋ねる。今の遣り取りを聞いているのだ。
億十郎は、ゆっくりと首を振った。
「あいつが何と言おうとも、拙者は先に進まなくてならぬ。第一、何も判らぬのだ」
億十郎の宣言に、二人は賛意を示すように相槌を打つ。
億十郎はふと道案内に話し掛けた。
「そちは水戸の家中について、詳しいか?」
「へえ、それは少々」
道案内は頷いた。道案内に雇った、この男は出身が常州である。水戸家中については、少々どころではない知識があるはず。
「水戸には雑賀党というのが、おるな? 先祖は紀州の雑賀孫一改め、鈴木孫一。のちに首席家老になっておるが……」
道案内は再度、頷いた。億十郎の言葉を咀嚼するように眉が狭まり、口を開いた。
「へえ、御座います。水戸の御家中では、大変な権勢を誇るお家柄で……」
そこまで喋り、道案内は心得顔になった。
「鈴木様は、もともと雑賀鉄砲衆の御出身。さらには忍者としても石山本願寺合戦、朝鮮征伐では御活躍。水戸の首席家老とおなりになられても、忍者の伝統は脈々と受け継がれておられます」
雑賀忍群!
忍者を使っているのは水戸家だけではない。紀州、尾張にも存在する。紀伊家は薬込役、尾張家は御土居下同心として名前が見える。薬込役は鉄砲の火薬を取り扱うから、当然、忍者である。尾張家は第四代藩主の吉通自体が忍者だった。吉通は武芸十八般に通じ、忍術を含む「武道全流」の創始者となった。
もしかすると、億十郎に接近してきたのは、雑賀忍群の一人かもしれない。水戸家中で、天狗党と雑賀党が何事かで対立しているのかもしれない。
「お主には役目がある」という、姿を見せない相手の言葉が今になって、億十郎の胸を突き刺した。
億十郎は足軽に命じた。
「拙者は寝る。お主が次の不寝番となれ!」
足軽は頷き、億十郎と場所を代わった。
億十郎はごろりと寝ころび、星空を見上げた。山の稜線に、北斗七星がくっつきそうになり、參宿星(オリオン座)の三ツ星が高々と上がっている。
億十郎は寝つきが良いほうである。
いつもなら、横になって、目を閉じた途端、眠りに落ちる。
しかし今夜ばかりは、容易には寝付けず、億十郎は星空を見上げていた。
俺を利用するつもりか?
面白い……できるものなら、やってみろ! 億十郎は夜空に向かって、挑発的に笑いを浮かべていた。




