四
億十郎は、自分は猟犬だと確信した。
理恵太の「虚ろ舟」から記録が何者かに抜き取られた、と知らされた瞬間、俄かに全身が熱くなり、あらゆる感覚が研ぎ澄まされるのを感じていた。
億十郎は理恵太に鋭く、声を掛ける。
「理恵太殿。お主は今すぐ、江戸へ帰っていただく!」
「えーっ!」と、理恵太は億十郎の言葉に驚き、ついで、きりりと眉を上げた。
「なぜです! 盗まれたのは、あたしのF22ラプターの、フライト・レコーダーよ! どうして、あたし一人だけ、江戸に戻らなくてはならないの?」
億十郎は背を逸らし、幼子に語りかけるように、理恵太に説明を試みた。
「これは、ただの盗みでは御座らん! 何が起きるか、拙者にも判りかねる。危険が大きすぎ申す」
「だから、あたしを放り出すつもりね! 絶対に厭! 第一、フライト・レコーダーがどんな形をしているのか、億十郎さんは判らないでしょう?」
理恵太の逆襲に、億十郎はぐっと詰まる。理恵太は、さらに言葉を重ねた。
「どうなっているのか、あたしには知る権利があるわ! 江戸には帰りません!」
理恵太の【遊客】としての気迫が、億十郎を打ちのめす。全身が痺れ、急速に億十郎の確信が揺らいだ。
今は億十郎より背が低くなっている理恵太が、気迫を発した瞬間、ぐーっと背が伸びたように感じる。
「判ったの? あたしは帰らないわ!」
よろっ! と、億十郎の上体が揺らいだ。くらくらっ、と目の前が暗くなり、億十郎の胸の内に、冷たい風が吹き込んだ。
膝から、かくり、と力が抜けそうになるのを、億十郎は必死に耐えた。鉛の固まりに化したように重い頭を、全身の力を込め持ち上げる。乏しい気力の限りを総動員して、理恵太の大きく見開いた瞳を見詰め返した。
「聞き分けて下され……。拙者一人なら、何とでも対応でき申すが、理恵太殿がおられると……」
「足手纏いと言いたいのねっ?」
理恵太が億十郎の先回りをして、尋ねる。理恵太の声は金切り声に近く、億十郎の鼓膜をびんびんと突き刺した。物理的と言ってもいい、圧迫感が押し寄せる。
億十郎は、がっくりと肩を下げた。
たったそれだけの行為で、億十郎の全身には、冷たい汗が迸るように流れていた。まるで数里も、全力で走り通した後のように、体力が絞り尽くされていた。
「左様。足手纏いで御座る。理恵太殿の記録箱を見つけた際は、必ず、江戸へ持って参上仕る。であるから、ここは一つ、拙者の忠告を聞き分けて頂きたい!」
最後の言葉は、ひゅうひゅうと喘ぐ息の下から押し出された。
理恵太は、ふっと目を逸らした。
気迫が消えた。
億十郎の胸に押し付けられていた、数十貫もありそうな石の塊が、嘘のように消え去った。
億十郎は大きく息を吸い込んだ。新鮮な空気が、どっと肺を満たす。
「判ったわ……。あたし、江戸へ戻ります。ここでは、何のお役にも立たないみたい」
億十郎は疲労困憊の極にあった。三歳の幼児でも、小指一本で今の億十郎を突き転ばせるだろう。それほど、【遊客】の気迫に対抗するのは、恐ろしく、体力を消耗させる。
「良い、ご了見で、御座る……」
億十郎はようやく、一息ついた心地だった。
ふと、周りを見渡す。すると、その場にいた全員が、口を痴呆のようにぱかりと開けたまま、棒立ちになっている。
九八の平太などは、すでに腰を抜かし、砂浜にぺたりと尻を落として、両足を広げていた。理恵太の気迫に、側杖を食ってしまったと見える。
億十郎は、雇足軽の一人を呼び寄せた。
「お主に頼みたい。理恵太殿を江戸にお送り申し上げ、ついでに拙者の知り合いの【遊客】に言付けして貰いたい」
指名された足軽は、まだぼんやりとしているが、億十郎の言葉に、ゆるゆると頷いた。
億十郎は、心覚えの【遊客】宛てに、「虚ろ舟」の記録を判別して貰いたい旨、矢立から筆を抜いて、さらさらと書き上げた。
「これで、拙者が首尾良く『虚ろ舟』から盗まれた記録を奪い返せれば、知り合いの【遊客】に頼めまする」
理恵太は頷き、億十郎から手紙を受け取った。
「判ったわ。億十郎さんが、フライト・レコーダーを取り戻せるよう、祈ってる。ああ、フライト・レコーダーは、このくらいの大きさよ」
理恵太は両手で、宙に形を示した。三寸ほどの、小さな箱のようだった。
「外側はアルミニウム……ええっと、白銅のような金物でできているわ。とにかく、江戸では絶対、お目に掛かれないような代物だから、一目でも見れば、それと判るわ」
億十郎には不安があった。
「もし、敵が『虚ろ舟』の記録箱を破壊いたしたら……?」
「無理だわ!」
理恵太は首を振った。
「フライト・レコーダーはF22が墜落して、爆発炎上しても壊れないよう設計されているの。万が一の時に、記録が失われないよう、頑丈な作りになっているから、たとえ無理矢理にでも、抉じ開けるなどは不可能よ!」
理恵太は、むしろさばさばしたような表情になり、歩き出した。億十郎に向け、明るく手を振った。
「それじゃ、江戸で待ってるわね!」
理恵太と、足軽の二人が視界から消えて、億十郎はやっと全身の呪縛が消え去った心地だった。
平太が感嘆の声を上げた。
「魂消たねえ! あっしも、江戸では何人も【遊客】を見知っているが、江戸の人間が、【遊客】を言い負かしたなど、初めて聞く話だぜ!」
言われて億十郎は気付いた。
自分は【遊客】の意思を挫いたのだ! 前代未聞の快挙、といっていい。
誇らしげな気分に、億十郎はちょっぴり会心の笑みを浮かべていた。
が、しかし……?
敵が【遊客】としたら、今のように抗しきれるかどうか、億十郎には自信がなかった。
まずは、筑波山だ。
億十郎は北東へと足を向けた。




