三
思いがけない事態に、億十郎は全身が奮い立つのを、憶えていた。
「虚ろ舟」の記録が奪われた!
誰が、何の目的で?
誰か、とはまだ判らないが、はっきりしているのは、盗んだのは【遊客】に決まっている!「虚ろ舟」に、盗む価値のあるものがあるとは、江戸の人間には誰一人、思い浮かぶはずもない。
「盗み、で御座いますか?」
ぎろり! と、九八の平太が、両目を光らせ、押し殺した声を上げた。急に岡っ引きの本性が出たらしい。
億十郎は頷いて見せた。
「ああ。あれなる『虚ろ舟』に収められておった、記録箱が失われたらしい。明らかに、盗みであろうな」
「なるほど、なるほど……」
何度も頷いて、平太は考え込む仕草をする。
億十郎は、その場で作業を続けていた漁師たちに声を掛けた。
「そのほうらに尋ねたい!」
億十郎の声に、ぞろぞろと漁師たちは立ち上がった。男ばかりではなく、連れ合いらしき女たちも混じっている。皆、億十郎が、何を言い出すかと、不安そうに見上げている。
「ここ数日間において、不審な輩を見かけた者はおるか? 誰でも良い。この辺りに、見掛けない者は、入り込んではおるまいか?」
漁師たちは、お互いを顔を見合わせている。
「不審な者……と、言われてもなあ……」
「んだ! 見るからに怪しい奴など、誰も見ねえもんなあ……」
ざわざわと、勝手に囁き合う。
億十郎は声を励ました。
「それでは、旅の者はどうだ? 我ら以外、ここら辺りを旅した者を見たのは?」
「旅のお人……!」
一人が心当たりがあるのか、目を見開く。日に焼け、髪の毛は半分ほど白くなっている男であった。年の頃、六十近いが、まだ身体つきは逞しく、毎日の漁もこなしていそうな体格だった。
「こら! 浅次のとっつぁん! よせってば……」
隣にいた若い男が、慌てて止める。
二人の様子を見て、億十郎は眉を吊り上げて見せた。
さっと指さし、浅次と呼ばれた男を手招きする。
「浅次とやら! 何か心当たりがあるのか?」
「へえ……」
浅次はもじもじと両手を捻くる。ちらちらと、上目がちになって、辺りを探るように見ていた。
億十郎は高々と声を掛けた。
「何でも良い! 正直に申せ! 妙な庇い立てをすると、許さんぞ!」
「わ、判りましただ!」
浅次は恐縮して、ぺこぺこと頭を下げた。
「そのう……。昨日まで、山伏が辺りを廻っておりましただ……」
「山伏!」
億十郎はぽかりと、口を開いた。億十郎の態度を見て、浅次はさらに言葉を重ねた。
「おらたち、家内安全、病気平癒、万年豊作、商売繁盛、大漁祈願のお札を、山伏に書いて貰って、ついでに祈祷もして貰っただよ……。霊験あらたかな、お札だそうで……」
億十郎は、浅次に詰め寄った。
「どこの山伏だと申しておった? 醍醐寺、聖護院、どちらに属する山伏なのだ?」
醍醐寺は真言宗、聖護院は天台宗である。普通、山伏は、どちらかに所属する。むろん、どちらにも所属しない山伏も多いが。
浅次は考え、考え、答える。
「何でも伊邪那岐命を祀るとか、仰っていただな……」
「伊邪那岐命……」
億十郎は、神社について特に詳しくはないが、それでも筑波山男体山が、伊邪那岐命を祀るくらいは知っている。当然、女体山は伊弉弥命である。
田舎の村を、修験者が廻り、祈祷したり、札を書いたりは不思議でもなんでもない。しかし、「虚ろ舟」から記録が抜き取られた時期と一致するのが怪しい。
怪しい、どころか、遂に相手は動き出したと億十郎は強く思っていた。
筑波山を本山とする水戸天狗党! 多分、山伏の正体は、天狗党なのだ!
なぜか天狗党は、「虚ろ舟」に、記録があると知っていた。当然、背後に【遊客】が控えていると見て良い。
しかし、天狗党の目的は何か?
「虚ろ舟」に隠されていた、記録が俄かに重要なものに思われてくる。
目黒富士での、娘たちの失踪にどう、関係するのか?
億十郎は、理恵太を見た。理恵太は、億十郎の顔を見て、ぎくりと顔を強張らせた。それほど今の自分は、怖い顔をしているのだろうかと、億十郎は思った。
そのはずだ。
億十郎は獲物を見つけた喜びに、全身を震わせていたのだから。




