三
ふらふらと、江戸の町並みを、一人の老人が歩いている。
時刻は黄昏時で、夕闇が家々の瓦を赤く染めていた。
歩いているのは、惣助であった。
がく、がく、と何かに操られているかのように、惣助は町並みを歩いてゆく。向かう先は、茶問屋の清洲屋である。
清洲屋は、浅草の一等地に店を構えている。店先からは、茶葉を煎る匂いが、香ばしく漂っていた。
清洲屋は問屋であるが、小売も商っている。
最近清洲屋が手掛けているのは、小さな和紙袋に茶葉を詰め、そのまま湯呑みに入れて、湯を注げば茶を淹れられるという、「巾着茶」である。急須が要らず、後片付けも楽と評判になり、売れに売れた。
最初は煎茶を詰めたが、それが爆発的に売れたので、「玄米茶」「茎茶」「焙じ茶」など、種類も増やしている。
次に売り出したのは、使い捨ての竹筒に、淹れたての茶を詰めて売り出す「筒茶」である。
「家で茶を淹れれば飲めるのに、出来合いの茶を、買い求める客など、いようはずがない」とは同業者のやっかみだったが、これもまた当たった。
実を言うと、これらの案は、清洲屋と懇意にしている【遊客】の入れ知恵であった。
江戸には沢山の【遊客】が存在している。身分も、職業も様々であるが、一目でも見れば【遊客】は見分けがつく。
他人目を引き付ける、派手で傾いた装束。恐ろしく馴れ馴れしい物腰。上下の分け隔てなく町人と付き合い、江戸の総てが物珍しそうな顔つきで、町中を闊歩しているからである。
江戸の町にやってくる【遊客】たちは、時々新奇な案をもたらす。それらの案を、江戸の町人は即座に吸収し、反映している。清洲屋の、新商品もその一つだ。
実は【遊客】とは──。
惣助の足が、店先で立ち止まった。
「おや、惣助さんじゃないか」
店先で箒を使っていた丁稚の松吉が、ふと目の前に差した影に気付いて顔を上げ、立ち尽くしている惣助に声を掛けた。
松吉は今年、十二歳の少年である。丁稚奉公に入って、まだ半年であるが、中々気のつくところがあって、店先でこうして掃き掃除くらいは、させて貰っている。大店では、店先で他人目のつくところで立ち働くには、結構な気働きが必要なのだ。
惣助の顔を見詰める松吉は、首を傾げた。
無意識に惣助の背後を目で探っている。
「お嬢様は、どうしたえ? 目黒富士参りに、一緒じゃなかったのかえ」
松吉は、妙に大人びた口調で話し掛けた。
惣助の、どろん、とした瞳が微かに動いた。
「お嬢……様……?」
物憂く、途切れるような声が惣助の喉から零れ出る。
松吉はがらん、と箒を投げ捨て、だっと惣助の元へ駆け寄ると、腰にしがみついた。
「なあ、どうしたってんだよ! お嬢様はどうしたんだ! あんた、お付きで一緒だったんだろう?」
がく、がくと松吉は思い切り惣助の身体を揺すぶった。揺すぶられているうちに、惣助の両目が徐々に見開かれてゆく。
「お嬢様!」
甲高く叫んだ。顔色が、蒼白になっていた。皺深い顔に、だらだらと脂汗が浮かんでいる。
松吉は「はっ」と惣助の顔を見上げた。
惣助の顔に、恐怖が深々と刻まれている。
がくっ、と惣助の両膝が折れた。
まだ子供の松吉の力では支えきれず、惣助は清洲屋の店先にゆっくりと倒れこんだ。
松吉は店に向かい、悲鳴を上げた。
「大旦那様っ! 大旦那様──っ!」
店先から「何事か!」と、清洲屋の主人、久兵衛が飛び出してきた。小柄ながら引き締まった身体つき、苦み走った落ち着いた物腰の男であるが、今は表情に不安を一杯に浮かべている。
「惣助っ!」
久兵衛は、倒れ込んでいる惣助に気付き、大声を上げていた。