一
江戸の旅立ちは、七つ(午前四時頃)立ちと決まっている。まだ薄暗い夜明け前、清洲屋に理恵太を迎えに行くと、「まだ眠いのに」と愚図る。
店の使用人が、わいわい大騒ぎで、理恵太の旅支度を整えてくれた。
手甲脚絆と旅笠に、草鞋履き。杖を持って現われた理恵太を見て、億十郎は「はて?」と首を傾げる。
「何よ?」
理恵太は億十郎の目付きが気になるのか、ぐっと睨み返す。億十郎は慌てて視線を逸らす。
また理恵太の印象が変わっている。今までの振袖から、旅に向いた小袖に着替えたからではない。
ああ、と億十郎は納得した。
目の高さが違う。
昨日までは、理恵太の目の高さは、億十郎と同じであった。しかし、今朝は、ほんの少し、僅かに下になっている。
つまり、理恵太の背が低くなっている。これから、理恵太はどう変貌するのだろうか?
ここ数日間に起きた理恵太の変貌は、【遊客】特有の変化なのか、それとも理恵太のみなのか、億十郎には判然としない。億十郎は僅かに、不安を感じた。
久兵衛、藤介、お幸、その他店の使用人全員が店先にずらりと並んで、見送りをしてくれる。億十郎は、今まで何度も江戸発ちを経験しているが、こうまで丁寧な見送りは一度も経験していないので、妙な気分であった。
見送りの中に、源三はいない。すでに、水戸中納言の江戸屋敷探索のため、懇意な口入屋の口利きで、身分を隠している。
多分、億十郎が廻村の旅から帰った頃には、源三の探索が終了するはずだ。源三の探索は、信頼して良い。今まで、唯の一度も、あてが外れたなどという、失敗はなかった。
「では、参る」
「お気をつけて……!」
久兵衛が口火を切り、店の全員が一斉に頭を下げた。
ゆっくりと歩き出すと、理恵太が後を従いてくる。旅慣れない理恵太のため、億十郎は最初のうちは、距離を稼がぬよう、気をつけるつもりであった。
元々【遊客】という存在は、江戸の人間に比べ、驚くほどの体力の持ち主である。億十郎自身、何度も【遊客】の、恐るべき力を目撃している。
それなのに、ちょっとした距離を歩き通すことが【遊客】は大の苦手である。
要は、気の持ちようなのだ。
自分で足を動かし、歩いているという意識では、すぐに顎が上がり、疲れ果てる。
それよりも、足の動きを意識から切り離し、目は風景を楽しみ、心は旅の出来事、これからの行く末などをあれこれ、考えているのが上策である。
その内に、自分が足を動かして歩いているという意識は消え失せ、別の誰かが、足を自動的に前へ進めている気分になってくる。そうなればしめたもので、後は勝手に足が動いて、旅を楽しむのだ。
背後に従いていくる理恵太の足音を聞くでもなく、歩いていると、ふと億十郎は別の人間の気配を感じた。
尾けられている! 誰が尾行しているのか?
足音を忍ばせているが、億十郎はとっくに気付いている。
足を止めず、億十郎は低く声を掛けた。
「おい! 俺たちを尾けているのは、判っているんだぞ!」
背後で、理恵太がびくりと緊張して、足を止めたのを感じる。億十郎も歩を止め、くるりと振り返った。
「へへっ!」
薄闇に、一人の男が立っていた。
億十郎は薄暗い中、男の輪郭を見定めた。
蟹のように、幅広い身体つき。ひたひたと歩いてきて、億十郎の目の前に身を進める。
「何だ、お前か……」
「どうも、大黒の旦那!」
男は手を挙げ、頭を掻いた。
常に顰め面を保っている顔は、今は精一杯の愛想笑いを浮かべている。
南町奉行所の、岡崎とかいう同心に仕える岡っ引き。九八の平太とか名乗っていた。なぜか平太は、旅支度の姿である。
「大黒の旦那、これから廻村の旅でげしょ? あっしも、お供させてくれませんか?」
「何だとお……?」
あまりに意外な平太の申し出に、億十郎は頓狂な声を上げていた。
自分を見上げる平太の顔は、愛想笑いを浮かべているが、目は真剣であった。
瞬時に、億十郎は事態を察していた。
「なるほどな……。判った!」
億十郎が頷いたのを見て、平太は喜色を浮かべる。
要するに、南町もまた、億十郎と同じく、手詰まりなのだ。
相手は寺社奉行である。目黒富士を築山したのが水戸天狗党とまでは判明したが、それから先が、どうにも動けないのであろう。
娘たちの拐わかしが、江戸朱引き内で起きたに拘わらず、相手が筑波山を本山とするため、表立って動けないに違いない。
また、殺人事件などの、凶悪犯罪の疑いもないので、火盗改は動こうとしないのだ。頼りは、億十郎ら、八州廻りとなる。
ならば億十郎の旅に同道させ、何か手懸りを掴みたいという、窮余の一策なのだ。
もし億十郎が、平太の同道を断れば、南北町奉行、火盗改、寺社奉行が、密かに探索の手を伸ばしてくる。もしかしたら、御庭番、大目付など、うるさい相手が乗り出すかもしれない。
その際は、目の前の平太のような、ちょっと抜けた相手ではなく、億十郎にとっても、手強い相手が送り込まれるだろう。
それなら、はっきりと手先であると判っている平太を連れて行くほうが、億十郎には気が楽というものだ。
億十郎は、理恵太に向き直った。
「理恵太殿。これなる男は、九八の平太と申す、南町奉行所の岡っ引きで御座る。拙者は平太の同道を許すつもりであるが、理恵太殿はどうなさる?」
出し抜けに決断を求められ、理恵太は一瞬、ぼうっとしていたようだ。が、すぐに立ち直った。
「億十郎さんが良いと仰るなら、あたくしは構いませんわ!」
声に笑いが滲んでいる。早くも、平太のちょっと抜けた粗忽さを感じとったらしい。
平太は楽天的な声を上げた。
「ありがてえ! お役に立ちますぜ!」
そうあって欲しいものである。
その時、朝日が江戸の町を照らし出した。
一条の光が、理恵太の金色の髪を染め上げる。
あっ、と億十郎は驚きの声を押し殺した。
理恵太の髪の色が変化している。
昨日までの金髪から、わずかに茶色が混じり、亜麻色といって良い髪の色になっていた。




