四
「億十郎さんは『一炊の夢』というお話を、知っているかしら?」
あまりに意外な理恵太の問い掛けに、億十郎は一瞬、呆然となっていた。源三を見ると「我関せず」とばかり、眉をぐいと持ち上げて見せただけだ。
もちろん、知っている。
昔、唐土において、盧生という書生が、科挙の試験を受けに邯鄲の都に赴く。途中、老人の家に立ち寄り、宿を乞い、老人は食事ができるまで寝るようにと、盧生に言う。
盧生は、陶器でできた老人の枕を借り、一眠りする。やがて食事が出され、盧生は一夜の宿を借り、再び旅を続ける。
盧生は首尾良く進士となり、都において出世を続け、結婚し、子もでき、幸せな生活を手に入れ、生涯を終える。
目が覚めると、盧生は老人の家にいて、数十年の生涯は、老人が食事を作る僅かばかりの時間に見た夢であったと知る。これが『一炊の夢』あるいは『邯鄲の枕』と呼ばれる故事である。
億十郎は「承知して御座る」と答えると、理恵太は続けた。
「もし、思い通りの夢を見られたら、どうかしら?」
「思い通りの夢、で御座るか?」
億十郎は、話がどこへ向かっているのか、さっぱり見当がつかず、おずおずと問い返した。
「もし、『一炊の夢』に出てきたような枕があって、思い通りの夢を見られるような装置──というより、絡繰かしら? そんな便利な道具があったら、と考えてみて」
億十郎は腕を組んだ。理恵太の表情は真剣で、からかっているような様子はない。
「ふむ。そうなれば、人は皆、思い通りの夢を見られる枕を欲しがるでしょうな。盧生の見たような、出世を果たした自分や、夢の中にしかおらぬような、美女と一夜を楽しんだり……。色々と考えられ申す」
理恵太はサトーと、視線を交わした。
「あたしたち【遊客】は、そんな夢を見る絡繰で、この世界へ、やってきているの」
億十郎は、一瞬、理恵太の真意が判らず、ぽかんと口を開けているだけだった。理恵太は言葉を継いだ。
「つまり、あたしたちが、今、いる世界は、夢の世界なの。あなた方は、あたしたちが見ている夢の登場人物なのよ」
理恵太は張り詰めた緊張の糸が切れたように、ほっと息を吐き出した。表情は「とうとう言ってしまった」と語っているようだ。
億十郎は、ゆっくりと首を振った。
「拙者らが、夢の登場人物?」
呟くように言葉に出すと、馬鹿馬鹿しさに笑いの発作が込み上げる。ひくひくと唇の端が痙攣するが、笑い声は途中で跡絶えた。
理恵太とサトーは、真面目腐った顔つきで、じっと億十郎の様子を観察していた。
「そうなの、ここは〝仮想現実〟なのよ」
理恵太は、サトーから筆記具を借りて、さらさらと紙に字を書いた。字面を読んで、億十郎は首を捻った。
仮想の現実と読める。つまりは、偽の世の中と主張しているのだ。
「ここは現実の世界ではない、と御両所は仰るのか? 信じられぬ! 拙者はこれ、この通り、生きておる。夢の中で生きているとは、一度たりとも思ったときは御座らぬ!」
一気に言葉に出し、億十郎は大きく息を吸い込んだ。どくどくと、蟀谷で血流が大きく波打っているのを感じる。怒りが、億十郎の全身に満ちていた。
サトーは、同情的な表情である。サトーの哀れむような視線が、億十郎の怒りに油を注ぐ。
「では、なぜ我々【遊客】が存在するのですか? 我々はどこから来たと、あなたはお思いですか?」
サトーの静かな質問に、億十郎は「うっ」と詰まった。
「そ、それは……」
サトーは頷いて、答える。
「私たちは、望みの現実を構築する絡繰を発明しました。望みの現実と申しても、単純に出世したり、理想的な恋の相手を求めるだけとは限りません。江戸世界を再現するのも、含まれています。我々現実世界に存在する【遊客】の内、江戸世界を再現しようと決意した〝創設者〟が、江戸及び、江戸周辺、さらには京都、大阪などを作り上げたのです。江戸の生活に興味を持つ人々は【遊客】となって、江戸の町を訪ねて行きました」
億十郎の胸に、一つの言葉が、ぽかりと浮かび上がる。
「〝もう一つの江戸〟……」