二
声を張り上げたが、一向に返事はない。
苛々していると、理恵太がさっと前へ出た。
何をするのだろうと見ていると、理恵太は扉の飾りに手を伸ばす。飾られているのは、真鍮製の獅子の面で、あんぐりと開けた大口に、輪を咥えている。理恵太はそれを掴み、思い切り扉に打ち付ける。
どん、どん、どん! と、虚ろな音が響く。
呆気に取られている億十郎に、理恵太は悪戯っぽい表情で「ノッカーって、言うのよ!」と答えた。
密やかな足音が聞こえ、かちゃりと音を立て、扉が外側に開いた。扉の陰から、全身が黒尽くめの、女が顔を出す。年の頃、二十歳前後であろうか。
身に着けているのは、何だかごてごてと飾りが一杯ついた、外国風の着物である。頭に布の帽子を被り、女は胡乱げな表情で、億十郎を見上げた。呆然としている億十郎に、理恵太が近寄り「あれはメイドの服装よ」と教えた。何でも、外国では小間使いを、メイドと呼ぶのだそうだ。
女はじろりと億十郎に目をやり、口を開いた。女が口にしたのは、江戸言葉である。
「どちら様でしょう?」
億十郎は力一杯、声を張り上げる。
「関東取締出役、大黒億十郎と申す! こちらにおられる理恵太と仰る【遊客】の相談に乗って頂きたく、参上仕った。是非とも、関所の番頭殿にお引き合わせ下され!」
億十郎の大声に、女は顔を顰め、手で両耳を塞いだ。
「そんなに大声を上げなくとも、聞こえます! どうか、中に入ったら、お静かに願います!」
女の叱声に、億十郎は恥じ入った。
「失礼をば仕った……!」
「では、こちらへ」
女は億十郎の謝罪の言葉にまるで取り合わず、ひそひそとした動きで中へ戻ると、億十郎たちを誘った。
億十郎たちは、室内に入り込んだ。長崎奉行所で学んでいるので、履物はそのままである。
入ると、ひやりとした空気が辺りを包んでいる。秋とはいえ、まだ晩夏の熱気が残っているのに、出島の関所に入ると、驚くほど涼しかった。
「ひゃっ! 急に涼しくなりやがった! 何か仕掛けでもあるんですかい?」
源三が思わず感想を述べると、メイドの女は、ちらと笑いを浮かべ答えた。
「空調を聞かせておりますので。ここは、夏でも摂氏二十五、六度に保たれております。風車がポンプを動かし、建物内に冷却水を循環させています。冬は水を温めて、適温に保っています」
「へえ……恐れ入りやした……」
源三が恐縮しているので、思わず億十郎は「今の説明で、判ったのか?」と源三に問い質した。源三は首を振った。
「いいえ、さっぱり。ただ、珍粉漢粉なんで、恐れ入った次第で……」
「なんだ……」
億十郎は呆れた。
「どちら様でしょうか?」
響き渡る、低い声に、億十郎たちは振り返る。
見ると、部屋の奥から、一人の外国人【遊客】の男が、興味深そうな視線で億十郎たちを見やっている。
髪の毛は短く、やや亜麻色がかっている。瞳は緑色で、背は外国人【遊客】にしてはそう高くはなく、五尺七寸ほどだ。全体に均整の取れた身体つきで、年齢は三十歳半ばほどと見えた。
身に着けているのは、灰色の手足にぴったりとした、筒袖の服である。何でも、背広という服らしい。
「私は出島の出入国管理官をしている、アーネスト・サトーと申す者。御用は何でしょうか?」
にこやかな笑みを浮かべ、男は尋ねかけた。
理恵太が、出し抜けに爆笑した。
「その名前! 幕末の有名人じゃない! 出島とはいえ、あんまりだわ!」
サトーと名乗った外国人【遊客】は、気を悪くした様子も見せず、微かに頷いただけだった。