二
頂上近くに上ると、意外にも山門が設えられていた。登り口の先に、山門があり、大きく扉が開け放たれている。
山門の前には、山伏の装束をした番人らしき男が、手に杖を持って立っている。杖の先端には、四輪の錫がついていた。
微かな身動きで、杖の錫が「りん!」と涼やかな音を立てた。
「ここより、男女別に分かれて参拝して頂く。よろしいな!」
お蘭の姿を認めた山伏が、高々と命令するので、従者の惣助は思わず「へへっ!」と畏まった。
山伏の鋭い視線が、お蘭の顔を穴の空くほどじいーっ、と見詰めてくる。
俄かな不安に、お蘭は背後の惣助を振り返った。惣助は、すっかり山伏の威に打たれた様子で、もごもごと口許を動かしているだけだ。
「よろしいな?」
山伏が念を押してきた。
「は、はい……」
思わず、お蘭は答えてしまっていた。答えた瞬間、むらむらっと反抗的な気分が頭をもたげた。
だが、山伏の突き刺さるような視線に、つい、視線を下げた。
「では、娘御は、こちらへ行かれよ」
山伏が杖を振って、左側を指し示す。
何か妙だ……。
言われるままに歩き出したお蘭だが、どうにもこうにも、喉に魚の小骨が引っ掛かっているような、気分である。
ちら、とお蘭を見る山伏に目をやる。
山伏の視線は粘るようで、お蘭の一挙手一投足を食い入るように見詰めてくる。
ぞわっ、とお蘭の背筋に、正体不明の寒気が走った。娘らしい勘とは言えるが、まさか目黒富士の頂上で、しかも相手は厳しい修行で知られる山伏である。何か、良からぬ企みがあるとは思っても見ない──が?
お蘭の総ての神経が、異変に備えて緊張している。一歩、一歩、薄氷を踏むような気分である。
山門を潜った。
瞬間、お蘭の身体は、ぐーっ! と空中に持ち上げられるような感覚を味わい、平衡感覚が失われる。
次いで、すとんっ! と足下がぽかりと開いた穴に落ち込んだような気分になり、お蘭は思わず「きゃあっ!」と悲鳴を上げていた。
しかし、お蘭の身体は、まるで動いてはいない。立て続けに、奇妙な感覚を味わっただけで、周囲は何も変わりはなかった。
「惣助!」
お蘭は、思わず最も近しい名前を呼んでいた。振り向き、惣助がいるはずの方向を見た。
確かに、惣助はいた。
が、惣助は、まるで凍り付いているかのように、山門の直前で身動き一つしていない。
片足が上がり、山門を通過する直前のまま、凝固していた。上がった足は空中でぴたりと固着していて、そのままでは明らかに、前のめりにばったりと倒れる寸前である。
「惣助! どうしたの?」
叫んでみる。だが、惣助の耳にお蘭の声は届いていない。惣助の両目は、微かに上瞼が下ろされ、瞳は足元の地面に固定されている。
もう一度「惣助!」と叫び、お蘭は駆け寄ろうとした。
が、虚しい試みだった。
お蘭の足は、その場から一歩も前へ動けなかった。というより、足は動くのだが、前へ進めないのだ。つるつる滑る氷の上を歩くようで、地面を踏んでいるという足応えが、さっぱりないのだ。
「ねえ、あたしの声、聞こえないの!」
むかっ腹を立て、お蘭は思い切り叫んだ。叫びは、悲鳴のようになっていた。
惣助の姿をもう一度よく観察したお蘭は、さらなる奇妙な現象に気付いていた。
さっきより、片足が下がってきていた。最初に気付いたときは、片足はもう少し、上へ上がっていたはずである。
それが、やや下ろされ、惣助の上体は僅かに前へ傾いでいる。
お蘭はじいーっ、と惣助の全身を見詰めた。
ゆっくり、ゆっくりと惣助の片足が地面に降りて行く。
じれったいほどの動きで、遂に惣助の片足が地面に辿り着いた。
すると、もう片方の足の裏が、ゆっくりと地面から持ち上がってゆく。爪先が地面を蹴り、膝が持ち上がってゆく。
惣助は歩いている。ところが、動きが信じられないほどゆっくりなので、止まっているようにしか見えないのだ。
「お主は、惣助とか申す従き人とは、別の時の流れにいる。だから、お主の声も、姿も、惣助には感じられず、見えぬのだ。諦めるが良かろう」
出し抜けに声が聞こえた。そちらを見ると、さっきの山伏が、ニッタリと邪な笑みを浮かべて立っていた。
お蘭は立ち竦んだ。
今、判った。
何か変だと思っていたが、それは山伏を見た瞬間、感じていた。
目の前の山伏の肌なのだ。なま白く、今まで一度も日に焼けた様子がない。
激しい回峰修行を続ける山伏が、日に焼けないわけがない!
では、目の前の男の正体は?
さっと山伏の装束を身につけた男は、手にした杖を振り上げ、先端をお蘭に向けて突きつけた。
しゃんっ! と錫杖が鳴り響く。
お蘭はくらくらっ、と眩暈に襲われる。意識がぼうっ、と揺れ、目の前が暗くなる。
そのままお蘭は、仰向けに倒れこんだ。