六
声を上げて、しばらくあって、建物の奥から「はいはいはい! 今すぐ参ります!」とひどく軽い返事があって、ぱたぱたと急ぎ足の足音が近づいてきた。
きいっ、と軽い軋み音を立て、観音開きに扉が開くと、唐人服を身につけた、五十代半ばの男が一人、姿を表した。
頭に唐人風の帽子を被り、常に魂消たような、大きな目を見開いている。蟷螂のように痩せこけ、渋茶色の肌をしていた。
「どちら様で御座いましょう?」
姿形は唐人風だが、喋る言葉は完全に、江戸言葉である。億十郎は懐から評定所の紹介状と、自分の名刺を取り出した。
「関東取締出役の、大黒億十郎と申す者で御座る。長崎奉行様に面会致したく、参上仕った」
「なるほど」
男はしげしげと億十郎の名刺を眺め、くるりと背を向けた。
「しばし、お待ちを!」
慌てて言い添えると、再びぱたぱたと足音を立て、奥へと消えて行く。億十郎は、男が唐人風の履をしたままなのを、見て取った。
「本当に、長崎奉行様の、お役宅なので御座いましょうか?」
源三が疑いを声に滲ませ、億十郎に尋ねる。億十郎は、静かに首を振った。
「判らん。場所は合っているはずだ。建物はどうにも、妙竹林ではあるが……」
話している間に、また足音が聞こえた。
さっきの男が、ひょいっと首を突き出し、慌しく手を動かし招く。
「御奉行様が、御面会なさいます! さ、お早く……」
入口で億十郎が躊躇っていると、男は口早に言葉を掛けた。
「あ、履物はそのままでよろしう御座います。どうぞ、土足のままで……! あ、それからお付きの方も、御一緒にどうぞお入りを」
億十郎は無言で、源三と理恵太の顔を見て、歩き出す。理恵太と源三も、そろそろと屋内に入り込んだ。
せかせかとした様子で、唐人服の男は、億十郎一行を、屋内に招き入れた。
内部に踏み込むと、高い天井に、どっしりとした柱の、いかにも唐人風の屋敷である。床は石畳で、清潔に掃き清められている。
億十郎は、男の背中に声を掛ける。
「率爾ながら、少々物を尋ねたい。本当に御奉行様の御役宅で、よろしいので?」
男は歩きながら首だけ捻じ向け、微かに笑った。
「江戸のお方は、皆様、同じ疑問を仰います。確かに、長崎奉行様の御役宅で間違い御座いませんので……。なぜ、このような卦体な、お屋敷にしているかと申しますと、外国人【遊客】の方々を応対するには、唐人風の屋敷にするほうが、色々と便利なので御座いますよ。私は、長崎奉行配下の同心で御座いますが、誰も私の正体を見抜けませぬ。与力の方々も、ここ長崎奉行所においては、私と同じような服装を致しております」
同心と名乗った男は、被っている帽子を脱いで見せた。帽子の下には、ちゃんと月代を剃った、武家髷の頭が隠されている。
再び帽子を被り、同心は頷いた。
「もちろん、江戸表へ参るときは、ちゃんと羽織袴姿で、大小も腰にしますので。ま、方便と申しましょうか……」
同心は億十郎を、階段に案内した。
外から見た建物は三階建てである。二階、三階と億十郎は階段を登って行く。
最上階である三階は、大きな丸窓が穿たれた、客間であった。窓際に、丸い卓と、数脚の椅子がある。卓と椅子は、どうやら紫檀で作られているようだ。
卓には酒と肴が用意され、一人の男が、ゆったりと腰掛けていた。男もまた、唐人風の大人服を身につけ、帽子を被っている。まるで唐人であるが、これが長崎奉行らしい。
奉行は首をゆるりと動かし、億十郎たちを眺めた。
「よう御座った! 拙者が長崎奉行を拝命しておる、榊丹後守である!」
がっしりとした身体つき、四角い顔。太い眉に、ぎろりと光る目をしている。
その時、億十郎は、理恵太の変化に気付いた。
なぜか、理恵太は、長崎奉行を目にした途端、凝然としていた。まじまじと両目を見開き、瞬きもせず榊を見つめている。
億十郎は榊に目をやった。榊は理恵太の凝視に、平然とした様子である。億十郎は、一瞬にして真相を掴んでいた。
榊は億十郎の顔色を読んだのか、一つ頷いて見せた。
「左様。お手前の推察どおり、拙者は、そちらにおわす御婦人と同じく【遊客】だ!」