五
横浜に到着した頃は、すでに昼すぎになっていた。横浜を治めるのに、長崎奉行とはちょっと変であるが、外国方を応接する役職は長崎奉行と決まっているので、慣習から、そう呼ばれている。
奉行所の場所は元町にあり、近くに薬師寺堂弁天堂がある。外国人【遊客】が、横浜に姿を表すようになって、それまで横浜は漁村が一つ、二つあるだけの寂しい場所であったが、俄かに活気付いた。
外国人【遊客】を迎え入れるため、幕府は横浜に【出島】を作り、同時に関所を設けている。【出島】に出現する【遊客】が持ち込む様々な物品を取り調べる役目が長崎奉行にはあり、そのため一度でも務めれば、大変な財をなすと言われている。
人力車がゆっくりとした速度になり、周囲は賑やかになってきた。
理恵太は幌から顔を出し、くんくんと空気の匂いを嗅いでいる。
「何か、美味しそうな匂いがする。食べ物屋があるのかしら?」
億十郎は答えてやった。
「この辺りは、唐人町で御座る。横浜にやってくる外国人【遊客】を当て込んで、食べ物商売を始める唐人が多いので御座るよ」
「唐人町? ああ、中国人街があるのね!」
理恵太は納得したが、億十郎は首を捻っていた。中国人とは何であろう? 四国中国とは、山陰地方の謂いであるが、なぜ唐人が中国人なのであろうか?
唐人町の大門を潜ると、辺りの建物は、日本とは思われない、見慣れない外観になっている。
屋根はぐっと反りが強くなり、柱も鮮やかな朱や、緑、青などの染料で塗られている。二階の張り出しには、細かな欄間が彫られ、あちこちに提灯がぶら下がっていた。
道行く人々は、唐人服に、辮髪の唐人ばかりになっている。商売が盛んで、建物には、様々な看板が上がっていた。
店先で蒸篭から白い湯気が立ち上っている情景を見て、理恵太はごくりと唾を呑み込んだ。
「美味しそう……。ねっ、ちょっと車を停めて、昼食にしない? あたしお腹がペコペコなの!」
「お腹がペコペコ」とは、上手い表現だと億十郎は感心した。いつか、自分も使ってみよう……。
が、今は長崎奉行に面会するのが、もっとも緊急の用件である。
「空腹なのは、それがしも同じで御座る。我慢して貰いたい。奉行に引き合わせたら、後は自由で御座る」
あえて厳しい口調で諭すと、理恵太は恨めしそうな顔つきになった。
車が停まり、一同は外へ出た。汗を拭っている俥夫に億十郎は酒手を支払い、目の前の奉行所を見上げる。
「これが……奉行所?」
理恵太はひくひくと、唇の端を持ち上げて、億十郎に尋ねる。今にも笑い出しそうだ。
「いかにも」と答える億十郎の言葉は、自信無げに、あやふやな響きがあった。
「あっしは長崎奉行様のお屋敷は初めてでござんすが、本当に間違いないんで?」
源三もまた、疑いを拭いきれないようだ。億十郎もまた、場所を間違えたのかと、首を捻りたいのを必死に押さえている。
目の前の建物は、奉行所というよりは、唐人の屋敷のようである。唐人町と同じ、反り返った庇に、丸い柱。柱は総て、真っ赤に塗られ、あちこちに竜紋の浮き彫りが施されている。
軒からは紐にぶら下がった唐風の行灯がぶら下がり、仄かに香の匂いが漂っている。
ええい、確かめる方法は、ただ一つ!
億十郎は自棄糞に大声を上げた。
「頼もう!」