四
源三に命じて、億十郎は「俥屋」を呼んだ。
長崎奉行は、江戸ではなく、横浜に役宅を構えている。まずは、駕籠に理恵太を乗せようと億十郎は考えていたが、最初に江戸に連れて来たときの酷い有様を思い出し、人力車にしたのである。
これも〝もう一つの江戸〟には存在しないものだ。大八車を基本に改造し、前後に俥夫がついて、客を運ぶ。一度に数人が乗れるので、駕籠よりは割高であるが、こちらのほうが、理恵太には楽であろうとの配慮である。
他人目があるので、人力車は屋根付きにした。屋根といっても、布張りの、幌である。これなら、わざわざ外から覗き込まない限り、中に身長六尺の、外国人【遊客】である大女の理恵太が乗っているのは判らない。
店先に乗り付けられた人力車を見て、理恵太はたじろいた。
「大丈夫ですか?」
人力車を曳く、俥夫は前後に一人ずつの、二人である。がっしりとした身体つきだが、背の高さは、理恵太の肩にやっと届くくらいである。
理恵太の「大丈夫ですか?」は、こんな小柄な男二人で、引っ張ってゆけるのか、という疑問と、車そのものの安全性を疑っているらしい。
「心配は御座らん。第一、人力車というもの、そもそもお主のような【遊客】の発案にて江戸に普及したものだ。江戸では、駕籠より人力車を【遊客】の皆様は御利用なさっておられる!」
俥夫は不躾に、じろじろと理恵太と億十郎を眺めた。
二人はどちらも六尺を越える大柄な身体つきである。億十郎は三十貫になろうかという巨体であり、相当な重さがあるのを、見て取ったらしい。
億十郎は酒手を上乗せするのを、その場で約束してやった。
「横浜まで頼む」
億十郎の言葉に、俥夫は「がってんだ!」と声を合わせた。
億十郎、理恵太、源三の三人が乗り込むと、俥夫は「あらよっ!」と掛け声を掛け、がらがらと人力車を引っ張り出した。
億十郎が背後を振り返ると、店先に久兵衛ほか、若旦那の藤介、お幸、その他の使用人がずらりと勢揃いし、深々とお辞儀をしているのが見えた。
動き出すと、意外と人力車は軽快である。曳き手は、客が前後に揺さぶられないよう、加減をして梶棒を握っている。
理恵太は、物珍しい様子で、人力車の幌越しに、江戸の町並みを眺めている。最初に江戸に入ったときは、半死半生で、眺める余裕などなかったはずだ。
清洲屋の座敷で懲りたのか、理恵太は板敷きに横座りになって足を伸ばしている。
人力車が日本橋から蔵屋敷、外堀を回って行くと、理恵太は歓声を上げた。
「億十郎さん! あれ! あれは何?」
億十郎は、理恵太の指差した方向をちらりと見た。
「お城で御座る。江戸城、天守閣で御座るが、あれが何か?」
億十郎にとっては、珍しくも何ともない光景である。しかし理恵太は、はっきりと興奮した様子を示していた。
「でも……。江戸城には天守閣はなかったはずでしょ? 天守閣があったのは、江戸初期くらいだと聞いているわ!」
億十郎は軽く頷いた。
「ああ。〝もう一つの江戸〟で御座るな。確かに〝もう一つの江戸〟では、天守閣は存在し申さぬ。しかし、我らの江戸では、ちゃんと天守閣が有り申す!」
億十郎の言葉には、押さえ切れない誇りが滲んでいた。
理恵太は目を細めて、億十郎を見た。
「〝もう一つの江戸〟って、あなた方は、そう呼んでいるのね。〝もう一つの江戸〟があると、承知しているのでしょう?」
億十郎は奇妙な感じを受けた。
理恵太は外国人の【遊客】である。最初に、理恵太自身が「アメリカ空軍所属」だと、はっきりと言明している。それなのに、理恵太の口振りは、江戸について相当な知識がありそうだ。
「左様。お手前のような【遊客】の方々が、色々と〝もう一つの江戸〟について、教えてくれるので、拙者も、おおまかな知識は御座る。〝もう一つの江戸〟と、我らの江戸について、どのような違いがあるかは詳しい事情は判り申さぬが、拙者は断然、我らの江戸が好きで御座るな」
億十郎は逆に問い掛けた。
「理恵太殿。〝もう一つの江戸〟について、何か御存知で御座るか?」
理恵太は唇をきゅっと引き結び、顔色を真っ赤にさせた。強く否定するかのように、何度も首を振った。
「知らない! あたし、何にも知らない!」
それきり、理恵太はずっと押し黙ったまま、人力車の揺れに身体を委ねていた。