二
清洲屋の店内に入ると、源三がちんまりと座り込み、帳面付けをしていた。億十郎の気配に顔を上げると「あっ」と小さく叫んで、いそいそと足を運び、上がり框にぺたりと座り込む。
「億十郎の旦那。お早いお帰りで……」
「おいおい!」
億十郎は手を振った。
「ここは、俺の家じゃねえ。勘違いするな!」
億十郎の言葉に、源三は「いけねえ!」と苦笑いして頭を掻いた。
源三を清洲屋に、理恵太と一緒に預けっ放しで、一日が経った。その間に、源三はすっかり店に馴染んでしまったと見える。
これが源三の特技である。どんな場所にも、するりと入り込み、いつの間にか、十年も居続けているような顔で馴染んでしまうのだ。
源三のおかげで、億十郎は何度も潜入捜査を成功させている。
億十郎は奥を指差した。
「理恵太殿は?」
源三は「へい」と一つ頷いた。
「何とか、疲れはすっかり取れたようで……。御新造さんの、お幸さんが女同士の気安さで、色々と面倒を見てくれてます」
二人の会話を聞きつけたのか、奥から主人の久兵衛が急ぎ足でやって来た。億十郎を見て、安堵の表情になる。
源三の隣に座り、頭を下げた。億十郎は頷き、声を掛けた。
「久兵衛。お蘭殿を拐わかした相手の正体が、知れたぞ!」
久兵衛は顔を上げた。頬に血が昇っている。
「本当で御座いますか!」
億十郎は強く頷いた。本来なら、久兵衛を億十郎は「父上」と呼ばなければならない。しかし億十郎はお蘭と祝言を挙げていないから、まだ待たねばならない。
「水戸の、天狗党と申す連中が、目黒富士を築山したそうな。恐らく、惣助が山頂で出会った山伏らしき姿の者と、関係があるものと、推察できる」
「水戸で御座いますか! それではお蘭は、水戸に?」
億十郎は首を振った。
「そこまでは、判らん。それに、水戸家中となれば、八州廻りの管轄外だ」
億十郎の言葉に、久兵衛が絶望の表情になったので、慌てて言い添える。
「心配するな。お蘭は、俺が必ず、助け出す! どんな障害があろうとも、俺が責任を持って処理する!」
「左様で御座いますか……」
久兵衛は、億十郎の言葉を、気休めと取ったようだ。がくりと肩が下がり、ゆるゆると首を振っている。
億十郎は水戸の中納言様は、江戸定府なのを、思い出した。
水戸の中納言様と、天狗党と名乗る集団が関係があるのか、どうか? 億十郎は密かに、調べてみようと決意していた。
源三が思い出したかのように、顔を上げた。
「億十郎様、それより理恵太様で御座いますが?」
億十郎は「ああ」と頷いた。
そうだ、俺は理恵太を長崎奉行に預けるため、清洲屋に足を向けたのだと思い出す。
履物を脱ぎ、店内に上がり込む。
源三がさっさと先に立ち、億十郎の後に久兵衛がつき従った。
店内の、長い渡り廊下を歩いているうちに、億十郎の胸に、一つの妙案が浮かんだ。
「久兵衛、一つ尋ねたいが」
「何で御座いましょう?」
久兵衛は礼儀正しく、億十郎を見上げる。
「清洲屋は、水戸家中と茶葉の納入などで、取り引きはないか?」
「残念ながら、手前どもは水戸様とは……」
言いかけた久兵衛は、億十郎の言わんとする先に思い当たったらしい。
「ああっ!」と叫び声を上げ、目を瞠った。
億十郎は頷いた。
「そうだ。水戸家は公称三十五万石、徳川御三家の一つで、江戸定府とされるところから、天下の副将軍などと言われておる。格式からも、茶一つにしても、相応のものが使われるであろうな。それに水戸城下には、静山荘なる山荘があって、由緒正しい茶室も完備している。抹茶一つにしても、お主のような大店から仕入れるはず」
久兵衛は何度も頷いている。すっかり、血色は戻っている。
「よろしう御座います。茶問屋仲間から、水戸様に納入している問屋を探し出し、内情を聞き出せれば……?」
源三は振り向いて、口を挟み込んだ。
「久兵衛の大旦那が動かなくとも、あっしが出向きまさあ! 首尾良く聞き出せれば、何かの手懸りになりますね?」
億十郎は源三に頷いた。
「そうだ。頼むぞ」
源三は「任せてくだせえ!」と胸を叩く。
ようやく奥に辿り着く。
源三がさっと膝をつき、閉じている障子に声を掛けた。
「もうし……。大黒億十郎様がお出ましになられております。理恵太様の御用意は、よろしう御座いますか?」
障子の向こうからお幸の「お入り下さい」という返事があった。
源三は両手を伸ばし、するりと障子を開いた。
開いた障子の向こうは座敷になっていて、中央に理恵太が座っている。側に、お幸が化粧道具を持って、理恵太の唇に朱を差している真っ最中だった。
理恵太が首を捻じ向け、億十郎と目が合った。
億十郎は立ち竦み「おお……?」と、感嘆の声を上げていた。




