一
結局、億十郎が評定所へ足を運んだのは、翌日の早朝であった。報告書の作成に、夜っぴいて、うんうん唸りながら苦吟していたのである。
旅の報告もそうだが、掛かった費用、その内訳、受け取りなどを添付して、四角四面のお役所仕事に合わせなければならない。億十郎は、この報告書作成という事務作業が、死ぬほど苦手だ。
評定所の建物は、道三川岸を挟んで歩兵屯所、御作事方の向かい合わせに建っている。寺社奉行、勘定奉行、町奉行、場合によっては遠国奉行などが出席して、様々な公事業務を行う。
実際には評定所留守役が、実務を行っている。億十郎が姿を表すと、出し抜けに当の留守役に呼びつけられ、驚いた。
「南町の手先を締め上げたそうだな?」
留守役のしんねりした目付きに、億十郎は無言で応対した。もう、報告が届いているのか!
留守役は、ねちねちと億十郎を譴責する。
「困るではないか! 町方は御番所。関八州は関東取締出役と決まっておる! そちは確かに、清洲屋の娘と祝言を挙げる約定を交わしているが、勝手気儘は厳に禁じられておるはず! 本来なら、お主が清洲屋に出入するのも、筋違いといえる。どう、申し開きするつもりなのだ?」
億十郎は、一息どうにか吸い込み、心気を静めた。
「申し開きは、何も御座いませぬ。どのような処分も、受ける覚悟で御座いまする」
留守役は持て余したように、両手を彷徨わせた。
「何も、お主の処断について、話をしようとは思わん! ちと、聞き質すべき、事柄があるのだ。お主、清洲屋に、見慣れぬ【遊客】を連れ込んだそうだな?」
億十郎は内心、身構えた。留守役は、素っ気無い口調であるが、目は真剣である。
「左様で御座います。上総国において、偶然出会い申した。江戸には不案内らしく、拙者が御案内申し上げたので、御座る。上総国より、江戸に参る旅程で、少々お疲れの様子だったので、清洲屋にお連れ申し上げ、現在、休息を摂られておりまする。件の【遊客】についての詳細は、報告書の中に……」
億十郎は、またまた一息入れ、留守役を真っ直ぐに見詰め返した。
「それで、他にお尋ねは?」
留守役の眉が、ぴくりと痙攣したように持ち上がる。
「その【遊客】だがな、こちらの報告によると、どの関所においても、通過の報せが届いておらん、とされておる」
億十郎はやっと、留守役の意図を掴んだ。
江戸に入府する【遊客】は、まず最初に関所を通過する決まりである。関所において、人定調査を行い、登録を受け、記録される。
二度目からは【遊客】は、各々好みの出現場所において江戸に姿を現すのだが、どんな【遊客】でも、最初の一歩は、関所において記録されるのだ。
理恵太は関所を通過せず、上総国の上空で、「虚ろ舟」に乗って出現した。つまりは、留守役は「理恵太が関所破りをしたのだ」と指摘するつもりなのだ。
関所破りは、重罪である。それは江戸町人だろうが、武士であろうが、変わりはない。たとえ【遊客】だろうが……。
億十郎は、ゆっくりと口を開いた。
「ははあ。理恵太殿……これは、拙者がお連れ申し上げた【遊客】殿のお名前で御座る。理恵太殿は、確かに関所を通過なされておらぬ。つまり、関所破りで御座る。通常、【遊客】の方々に下される最大の罰は『江戸所払い』で御座るな。二度と江戸に入府できぬよう、記録に留めるので御座るが、理恵太殿は、事故によって、元いた世界から偶然、こちらへ参ったと聞き及びます。元の世界へ戻れぬのに、どうやって『江戸所払い』にするのか、知りとう御座いますな」
留守役は苦い顔になった。【遊客】の問題も、評定所扱いとなる。評定所では旗本の罪も裁かれる。【遊客】は、旗本の一種と見做されるため、評定所扱いなのだ。留守役にとって、厄介な問題になりそうなので、困っているのだろう。
「それは、聞いておらぬ……。そうか、事故によってこちらへ転がりこんだというわけなのか……。すると、まずは、その【遊客】が、元の世界へ戻れるように取り計らうのが、肝要なのだな?」
留守役は腕を組んで、顎を引いた。ちらりと億十郎を見て、反応を窺っている。億十郎の出方を待っているのだ。億十郎は、提案した。
「理恵太殿は、外国人の【遊客】で御座る。つまりは、外国方の扱いとなり申す」
億十郎の言葉に、留守役は救われたような表情になった。
「そうか! 外国奉行に扱わせれば良いのだな! そうか、そうか……」
一瞬にして、留守役は綻んだ。ほくほく顔になって、機嫌が直った。億十郎は、ずけりと言い放った。
「左様。外国奉行に押し付けるので……」
「これ!」
億十郎の言葉に、留守役は慌てた様子で手を振った。
評定所には、外国奉行配下の与力も出仕している。うっかりと大声を上げて、聞かれたら困ると思ったのだろう。
留守役は、億十郎に顔を近づけた。
「それで、お主が連れて来た【遊客】だがな、そちらで外国奉行の元へ連れて行って貰いたいのだが……。厭とは言わぬだろうな?」
億十郎は軽く頷く。
「もとより、拙者が理恵太殿を、お連れ申し上げる所存で御座る。これより、理恵太殿を預けた清洲屋へ参り、その足で長崎奉行様役宅に向かいとう御座る。ついては、お願いが御座る。評定所よりの、長崎奉行宛ての紹介状を、一通願いとう御座る」
留守役は「もっともである」と、手早く紹介状を作成してくれた。
億十郎は評定所の小者に、長崎奉行宛てに、面会を願い出る内容の手紙をしたため、先に走らせた。返事は清洲屋に返すように書き記したので、そのまま評定所を出て、清洲屋へと向かう。
億十郎が清洲屋に到着するころ、長崎奉行よりの返事が届いているはずだ。
清洲屋へ戻ると、予想もしなかった驚きが億十郎を待っていた。